●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

変わらない日々

2007年07月28日 | 友達
最近、Rieちゃんと口ぐせのように…「普通って良いね~」と話している。

普通の生活と言うよりも、普通に穏やかな気持ちで、与えられた仕事をフツーにして、フツーに楽しくお話し出来る毎日の事だ。

案外、人はこの「普通」の毎日を送れるしあわせに気付かないのではないだろうか。スモッグが来て、普段の青空がきれいだったと気付くし、市民税が上がって、安かった時のありがたみを知る。
本来、当たり前の事などほとんどないと思う。歴史も世界も動いているのだから、「これは絶対変わらないもの」など、極端に言えば何ひとつないと思っている。

クリスチャン作家の、故三浦綾子さんが、戦後自暴自棄になった理由は、小学校の教師であった彼女が「絶対に正しい!」と信じて愛する子供達に教えて来た事が、敗戦によって「本当は間違っていた」と知ったショックと共に、間違いを真実だと信じて子供達に教えて来た、と言う自責の念だった。
熱心な教師ならではの、大きな痛み、苦しみだっただろうと思う。
だから彼女は天に召されるギリギリまで、イエスさまの事…罪や罰、許し癒し、真理について書き続けたのだろう。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない(ヘブル13:8)。」

イエスさまの真実

2007年07月27日 | 家族
我が家は先日来、金銭的な窮地に立たされている。

理由は明白で、損保の手数料が大幅にダウンしたからである。
そこで、ほとんどの代理店は合併して、ある程度の実績を保つ事によって、手数料ダウンを防いでいる現状だ。業績によって手数料の料率が違うためだ。
しかし、家は合併の道を選らばなかった。それは主人の個性的な良い所を潰しかねないからだった。主人は一人で歩んで行くのが得意なだけで、決して協調性がない訳ではない。人に仕える事は出来るのだが、それをすると全く個性を出さなくなるタイプのようだ。

若い頃に、いろんな職業を体験して学んだ事なので、今更自分らしさを無くしてまで、損保の仕事やその収入に執着する気持ちはないらしい。

しかし、ここで何に根拠を置いてあえて独立の道を選ぶか?は、現実問題として難しいだろう。
主人は、ここに来て確信をもって、独立した頃から今まで真実に支えて下さったイエスさまに期待して行く方を選んだ。それは決して楽な道ではない。

私たちが結婚した頃、二人とも無一文に等しかった。息子が生まれた一時期は、主人の両親に寄生していた時もあった程で、古い家のムカデが出る説明するのもスゴい家で(ごめんなさい)、4年間暮らした。それもまた楽しかったのだが…。

しかし、神さまは真実だった。私はさほど期待していた訳ではなかったが、収入も与えて下さり、まずはアパートに出る事が出来、広い土地を与えて下さった。
当時、建築条件付きの7~80坪の土地がほとんどで、両親を呼んで畑をしようと考えていた私たちには不都合なところしかなかったが、ちょうど左前になった工務店が大雑把に切った土地を安く買えた。
地元の有力銀行は、融資してくれなかったが、その左前の工務店のメインバンクが回収のためか?すぐに貸せてくれた。

その後、小さい事務所を建てて、家は両親の地元に建てる事になったが、消防法の関係で今の場所に家を建て、ばあちゃんを呼んで住んでいる。心配していたばあちゃんもすっかり馴染んでくれた。今にして思えば、しがらみに生き続けて来たばあちゃんは、初めて自由を得たようだった。毎日童謡を歌いながら、時々テレビを見て暮らしている。

あの日…古い家で、薪を焚いてお風呂を沸かしていた日々から考えると(なるほど、だから私はアウトドアが嫌いなのか?・笑)、今はビックリ!するほどの祝福を与えていただいた。
経済的な事だけではなく、家族、友達、チャーチ…このように真実なお方が、今更私たちを見捨てられるはずはない。私たちが不真実であったとしても、イエスさまはいつも真実なお方だ。

「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に逃れる道も備えて下さるのである。(Ⅰコリント10:13)」

伝わる気持ち

2007年07月17日 | 友達
一ヶ月程前だったろうか。幼なじみが急にメールして来たので、会う事にした。

彼女はちょうど義理の父親を亡くし、十数年前に亡くなった姉の娘の、結婚式を終えた所だった。
彼女の事は、以前にも書いたと思うが「平成のおしん」と言って良いほど、苦労人なので、書き始めたら一冊の本が出来るのではないか?と思う。
先日会った時にも「自分でも、この事はどう言う意味だったのか?分からんよぉ。その時、一生懸命だったけん記憶がないに~」と言っていた。

私も彼女にかける言葉はなかった。しかし、プレゼントしたい物があったので、誕生日でも何でもなかったが友達の作った詩の額を贈った。その内容はこうだ。

「今 来た道と
   今を
線でむすんだところに
   未来が
  みえるね 」

別れた後でメールが来たが、驚いた事に私が書いた詩ではないのに、「ぴーちゃんの愛を感じます。」みんなに愛されて、私は幸せ者です。と書いてあった。

もちろん、友達の生きてきた人生を知っているから選んだ詩なのだが、作者の思いと私の思い…全てを通り越して、気持ちが伝わるんだと思って、しばし感動した。

この出来事を通して、更に言葉の力を知る事が出来た。

価値あるもの

2007年07月14日 | 思うこと

されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。(イザヤ64:8)

●価値をつけるのは?

先日リサイクルショップで買った機械が・・・ギターとかにも付けれるようなスピーカーの、ジャンク品を買いました。ジャンク品と言うのは、「壊れているもの」で、例えばCDプレーヤーのCDが使えませんとか・・・(何に使うんでしょう?・笑)
そこで私は、本来なら1万数千円する機械を、500円で買いました。。。
もともと、その中の部品を使うつもりでしたから、安いと思って買ったのです。

帰ってから動かしてみると、確かに壊れてはいたのですが、売った人が、間違った使い方をしていたので作動しなかったらしくて、ボタンを3つほど押したら、正常に使えるようになりました。

なぜ、私がジャンク品が好きかと言うと、まるで自分を見ているようだと思うからです。今まで、いろんな事をして、人を傷つけてきたり、悪い事をして来た「楫君はダメだね」と言う自分が、ジャンク品と重なるからだと思います。

●あなたの価値を決めているのはなんですか?

●間違った価値をつけている人が多いのです。

●イエス様は本当の価値を取り戻させてくださる方です。
イエス様は誰よりも一番よく知っているのです。あなたを造られた方ですから。

イザヤ64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。

●高価な陶器にどのような価値があるのか?

陶器の価値を判断する時に、よく言われている事は「これは何年に、誰それが作った作品です。」と言う事があります。「誰が作ったか?」が重要な価値を決めるのです。

●イエス様の愛を見る時・・・あなたの価値が見えてきます。
イエス様が十字架で死なれたのは、あなたの罪を許すためだからです。

●イエス様は、私を価値あるものとして、生かすことができる方なのです。

●私たちも造り主であるイエス様と出会う時、本当の自分の価値を知ることができるのです。

あなたは自分を価値がないと思っていませんか?それは、本当のあなたの価値ではないのです。あなたがイエス様にあって、輝きを取り戻すことができるように!お祈りします。
                    (2007-07-11/楫 直樹牧師・斐川礼拝メッセージ)


存在の価値

2007年07月07日 | 思うこと
これは、実際にあった話しなのだが。。。ある所に手のつけられない程に「乱暴な少年」がいた。今でも、そんな子はたくさん居るかも知れない。

その少年は、直ぐに暴れるし、言う事も聞かないので、担任の先生も困り果ててご両親と一緒に児童相談所に相談した。
あらゆる手を尽したが、少年の乱暴な所は直らなかった。
そこで誰かの提案によって、寝たきりの少年のいる病院に慰問に行く事にした。少しでも刺激を受けて、優しい心を取り戻して欲しいとの苦肉の策だったのだろう。

そこで乱暴な少年は、寝たきりの少年のいる病院に連れて行かれた。乱暴な少年は、寝たきりで、寝返りしかうてない程に動けない少年を見て、しばらく静かにしていたが、何を思ったか?そこにあった紙で鶴を折りはじめた。そして、その鶴を寝たきりの少年の枕元にそっと置いた。

しかしである。。。何とその時に!寝たきりの少年が、寝返りをうったのである。鶴はクシャクシャになってしまった。周りの大人たちは、固唾を飲んでその様子を見守った。少年が暴れるのではないか?と思ったのだろう。
所がその少年は、クシャクシャになった鶴を、もう一度綺麗に作り直して、今度は寝たきりの少年が届かない所にそっと置いたのである。

周りにいた看護師たちは、その光景を見て大変驚いた。それは意外にも、乱暴な少年が優しくなったからではなかった。

「この寝たきりの少年にも、生きている意味があったんだっ!」

と感動したと言う。なぜなら、長年この少年のお世話をしている看護師たちは、この寝たきりの少年を思い、「何のために生まれて来たのだろう。楽しみも喜びも知らず、一生このベッドで過ごすのか?」と心を痛めていたからだった。

しかし、何も出来なくても、失敗したとしても、人より劣っていたとしても、またこの少年のように寝たきりだったとしても、生かされている意味があるんだ。
この寝たきりの少年は、乱暴な少年の優しい心を引き出す事が出来た。
その事によって、周りの人々に感動を与える事が出来たのだ。

そして、このように私達も、例えどう言う自分だったとしても、神さまに愛され使命が与えられている価値ある者なのだ。(メッセージの中の例話より参照)