フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

林住期 LA TROISIEME ETAPE DE LA VIE SELON BOUDDHISME

2007-03-04 20:30:41 | 科学、宗教+

本屋に入ると、五木寛之著 「林住期」 が積まれている。その言葉には昨年末、山折哲雄著 「ブッダは、なぜ子を捨てたか」 を読んだ時に強く反応し、このブログでも取り上げている。

  2006-12-18 ブッダと子捨て 
  2006-12-19 ブッダと子捨て (II)

その時は完全に自分に重ねて読んでいた。そこから関連部分を転載したい。

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・・・ブッダの人生を次の三期に分けて考える。紀元前5世紀の誕生から結婚し家を出る前後までの 「シッダールタ (悉達多:しつだつた)」、家を出てブダガヤで悟りを開くまでの 「シャカ (釈迦、釈迦牟尼)」、悟りを開いて以降の 「ブッダ (仏陀)」 である。 

当時のインドではヒンドゥー教が力を持っていた。その教えのなかに人生の理想的なあり方を四期に分ける考え方があった。「四住期」という。すなわち、
 第一住期は、師について勉学に励み、禁欲生活を送る 「学生期(がくしょうき)」、
 第二住期は、結婚し、子供をつくり、神々を祀って家の職業に従事する 「家住期」、
 第三住期は、妻子を養い家が安定した段階で家長が一時的に家を出て、これまで果たすことのできなかった夢を実行する 「林住期」、
 そして最後は、ほんの一握りの人が到達できるステージで、彼らは家族のもとには帰らず、たった一人で遊行者の生活を送り、聖者への道を目指す 「遊行期 (ゆうぎょうき)」 あるいは 「遁世期 (とんぜいき)」 と言われる。

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「林住期」とは、自由な時間と生活を求めて一時的に妻子、家を捨ててひとり遍歴の旅に出るもので、一人瞑想してもよし、巡礼の生活を楽しんでもよし、宗教や芸術の仲間との交遊に使ってもよい。この時期にシャカは再び「家住期」に戻るべきか、「遊行期」に進むべきか悩んでいたのではないかという。心を酔わせる自由と家を捨てる良心の呵責の間で悩み、そして決断した時期がシャカの人生にとってきわめて重要だったのではないかという。このことは同時に、父スッドーダナ(浄飯王:じようぼんのう)を捨て、継母マハーパジャーパティ(摩訶波闍波堤:まかはじやはだい)を捨てたことになる。血縁のわずらわしさからの逃避をも意味していたかもしれない。仏教の歴史には、脱血縁の思想が見られると山折氏は言う。

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「林住期」 において、人間の世俗的な欲望を制御しようと努めていたはずだが、究極的には 「自己を捨てる」ということにつながることであった。その旅のなかで家族という血縁を捨て、村という地縁を捨てていったのだが、そのはじめの行為が子を捨てるということではなかったのか。異文化のなかを自分の足と眼だけで遍歴し、自分との絶え間ない会話をしながらブダガヤでの悟りに辿りついた。その思考過程から、「縁起」の理、「四諦八正(聖)道」 (したいはつしょうどう)、輪廻、五蘊(色・受・想・行・識)などが結晶する。

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丁度、パリ行きの機内で読んだので、向こうの何人かの友人に仏教における理想的な人生の送り方と 「林住期」 という時期の存在について話していた。今ネットで調べて見ると、いくつかの本が見つかったが、以前には全く目が行かなかったものである。

  桐島洋子氏は早くから林住期について気付いていたようで、1989年には 「林住期が始まる―華やぎの午後のために」、「林住期ノート―人生の秋を生きる」という2冊、最近では 「林住期を愉しむ ― 水のように風のように」 (1998)を出している。 また、ご自身のブログを 「林住期通信」 とまで名づけている。

  山折哲雄編著もある。「『「林住期』 を生きる ― 仕事や家を離れて第三のライフステージへ」 (2000)

ただ、これらの本を読もうという気にはならない。この時期の意味は自ら考えるものだろうから。

コメント (2)
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