フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN

2007-03-20 20:37:23 | 海外の作家

先日の Gallo-Finkielkraut 対論を読んでいて、国家と聞いてフランス人が恐らく最初に思い浮かべるのがルナンという人物なのかという印象を持ったが、どういう人なのかよく知らないので調べてみた。

Josephe Ernest Renan (28 février 1823 à Tréguier, Bretagne - 2 octobre 1892 à Paris) : un écrivain, philosophe, philologue et historien français (フランスの作家、哲学者、文献学者、歴史家)

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最初から余談になるが、ルナンのファーストネームを見た時にまず思い出したのは、学生時代によく聞いていたスイスロマンド管弦楽団の育ての親、エルネスト・アンセルメであった。

De son vivant, Renan fut surtout connu comme l’auteur de la populaire Vie de Jésus. Ce livre contient une thèse controversée selon laquelle la biographie de Jésus devait être écrite comme celle de n’importe quel autre homme et la Bible devait être soumise à un examen critique comme n’importe quel autre document historique. Ceci déclencha des débats passionnés et la colère de l’Église catholique.

ルナンは存命中、例えばイエス・キリストの生涯を書いた作家として有名であった。この本では、キリストは他のどんな人物とも同じように書かれ、聖書も他のどんな本とも同じように批判的に検討されなければならないという考えが披瀝されていて、カトリック教会の怒りを買い、激しい論争を呼んだ。

Renan est resté célèbre par la définition de la nation qu’il donna dans son discours de 1882 « Qu'est-ce qu'une nation ? ». Alors que des philosophes allemands tels que Fichte avaient défini la nation selon des critères objectifs comme la « race » ou le groupe ethnique (le Peuple), partageant des caractères communs (la langue par exemple), Renan la définit simplement par la volonté de vivre ensemble. Dans le contexte de la querelle sur l’appartenance de la région d’Alsace-Lorraine, il déclara que l’existence d’une nation reposait sur « un plébiscite de tous les jours ».

彼は、1882年に « Qu'est-ce qu'une nation ? » 「国家とは何か」 という演説で明らかにした国家観でも有名であった。フィヒテのようなドイツの哲学者たちが国家を言語のような特徴を共有するグループ (le Peuple 民族) あるいは人種 (la race) という客観的な基準で定義していたのに対して、ルナンは単純に « la volonté de vivre ensemble » 「共に生きる意思」 と定義した。当時問題になっていたアルザス・ロレーヌの帰属について、国家の存在は « un plébiscite de tous les jours » 「日々の国民投票」 (その日その日に表明される国民の意思ということか) に依存していると宣言している。

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ルナンはブルターニュの漁師の家庭に生まれた。祖父が少し余裕を持っていたので家を買い、そこに落ち着いていた。父は船長で筋金入りの共和主義者であったが、母は王政主義者の商人の娘であったため、ルナンは両親の政治的信条の間で終生引き裂かれた状態にあった。彼が5歳のときに父は亡くなり、12歳年上の姉アンリエッタが家族の精神的支柱になる。彼女は生まれた町に女学校を開設しようとするがうまく行かず、パリの女学校の教師として故郷の町を去る。ルナンはその町の神学校(現在はエルネスト・ルナン中学校と呼ばれる)で、特に数学とラテン語をしっかりと勉強する。母の父方の祖先はボルドーから来ているので彼女は半分しかブルトンではなかったため、両者の葛藤が見られたとルナンは回想している。

15歳の時、神学校のすべての賞を獲得したので、姉が勤めるパリの女学校の校長に話をする。それを機に、彼はパリに出ることになる。しかし故郷の教師の厳しい信仰とは異なり、パリのカトリック教は華やかではあるが表面的で満足のいくものではなかった。

17歳になり、哲学を修めるために別の学校に移る。彼の心はスコラ哲学への情熱で満たされていた。すぐにリード Reid、マルブランシュ Malebranche に惹かれるが、ヘーゲル Hegel、カント Kant、ヘルダー Herder に移っていく。そして、彼が勉強している形而上学と彼の信仰との間に本質的な矛盾があることに気付き始める。彼は、哲学が真理を求める気持ちの半分しか満たすことはないと姉に書き送る。

彼の疑問を目覚めさせたのは哲学ではなく文献学であった。新しい神学校に入り、聖書を読み、ヘブライ語の勉強を始める。しかし、聖書の原文を読み進むと文体、日時、文法などに疑わしい (apocryphe) ところがあることに気付き、次第にカトリック教の信仰から離れていく。仕事 (vocation) に生きるのか、自ら信じるところを求めるのか (conviction) という普遍的な葛藤の中、彼は後者を選び、1845年10月6日(22歳)に学校をやめ、中学校の生徒監督、さらに職住を保証された助教員として私立の寄宿学校に入ることになる。1日の拘束時間は2時間だけであったので充分に仕事ができ、彼は心からの満足を得る (Cela le satisfaisait pleinement.)。

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2 コメント

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はじめまして! (katsuo)
2009-04-05 22:41:39
「大衆運動」ってエリック・フォッファー著の本を読んでいて気になった人物を検索していてたどり着きました。日本語でいろいろ読めてありがたいです。
またきますね!
katsuoochiai@gmail.com
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訪問ありがとうございます (paul-ailleurs)
2009-04-06 02:39:22
参考になる資料があるとのこと、嬉しく思います。今ではこちらから離れていますが、いつでもお越しください。よろしくお願いいたします。

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