昨日の続きをもう少し。
Le Figaro Littéraire : 今日、責任ある立場の人は (特にフランスに多いようだが)、国家は超えなければならないもので、もはや « postnational » の時代に入ったと考えています。他方で、国家の問題は懐古趣味 (passiésme) や過激主義 (extrémisme) だとして矮小化されています。ポール・ティボー Paul Thibaud はまさにこの点に反対を表明し、国家の危機は国民の歴史への参加の危機 (la crise de la participation du peuple à l'histoire) でもあると喝破していました。国家がないところに民主主義はないのでしょうか。
AF : 確かに、国家は現代民主主義の礎石です。この点に関して逆の意味でよい例がイラクです。アメリカは国家のものではなかった民主主義をひとつのもの (une entité) として持ち込むことが可能だと考え、惨憺たる様相を呈しています。独裁制の蓋を取り払ったのですが、人々の政治的自立を希求する気持ちまでは解放していません。フランスでの状況は違います。国民共通の世界を形作っているのはもはや国家の記憶ではなく、テレビでしょう。
MG : エドガール・モラン Edgar Morin (8 juillet 1921 -) (余談だが、先日私はこの名前で声をかけられていた) が言ったように、フランス人は世界が土地からなる祖国ではないことに気付き始め、国家という概念が必要なのだと考えるようになっています。今や恐ろしい民族主義的論理が罷り通り、頑強な国家が増えています。最近のドイツが国家の利益を守るために動いたエアバス問題やヨーロッパ連合が寡頭制の確立以外の何物でもないことを見ればよくわかります。つまり、国家のために動かないものは何もないということです。やがてフランスのエリートも特有の文化と利益をもつ国家集団という視点を取り戻すことになり、それがEUの放棄、離脱へと進むこともあるかもしれない。
ブローデルは、「国家とは、永久に続けるように運命付けられた自身との戦いである。それを中断するとすべてが崩壊する」 と言っていますが、これこそ最も重要なことでしょう。
« La nation est un combat contre soi-même destiné à se perpétuer. S'il s'interrompait, tout s'écroulerait. »
それに国家の生存は、自らの過去についての歴史的視点や未来を築く力を否定してはありえません。もし外国人嫌い (xénophobe) でも自給自足主義 (autarcique) でもない国家の主張を守るだけの政治力が奇跡的にあり、「状況は変わるが、われわれは一つの過去を持っており、国家の中心的問題意識に忠実であり続ける」 と言えるなら、危機は回避できるでしょう。
« La situation change, mais nous avons un passé et nous restons fidèles à notre problèmatique centrale. »
AF: これからのインテリの役割ですが、何かの旗印の下で考えるのではなく、出来合いの (tout fait) 決まり文句や体制派 (bien-pensance) の様々な言い古しの中に隠されている真実を明らかにすることが大切でしょう。そのためには二者択一の状況に対するノスタルジーから自らを解放し、世界の状況を受け入れる必要があります。ドレフュス支持 (drefuysard) か否かということでは問題は何も解決しません。
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Max Galloは、腰砕けの甘い考えに基づくのではなく、いつの日か国家はなくなるという考えを表明している。しかし、当面の間は国家というものを考えざるを得ないようだ。ここで議論された問題はどこの国にも当てはまり、国家の定義を落ち着いた科学的な思考をもって一度しておかなければならないという想いで読み終えていた。