花粉の症状が酷いので、思い切って転地療法をすることにした。彼の地へ向かう機内で新聞を広げる。いつものびっくり箱を開ける時の期待感を持ちながら。日曜のせいか、読書欄にいろいろなものを見つける。
まず、イリノイ大学で学位をとった数学者、新井紀子 (東工大と国立情報学研究所の教授を兼ねている44歳) さん。日本における科学精神の欠如を感じているという。「なぜ」、「・・とは」 を重要だと考えていて、わたしと似たような認識を持っているようだ。こういう人が目立たなくなるのが理想なのだが、、
それから新井満氏が老子の自由訳 (朝日新聞社) を出したという。これまでのものと読み比べてみたい。この時代、老子に惹かれる人が多いということなのだろうか。
楡井 亜木子著 「はじまりの空」 というパリに飛んだ17歳と34歳の恋愛小説。普段であれば全く触手が動かないのだが、小川洋子氏絶賛のキャプションに惹かれて読んでみようかという気になっている。
藤原書店の欄では、「生きる希望 ― イバン・イリイチの遺言」 という本に目が行く。そこに私がこの2年間で感じ着いたことをよく表していたからである。それは、希望がなければ未来はないというもので、広告では 「人びとに 『未来』 などない。あるのは 『希望』 だけだ。」 となっていた。サルトルか誰かが言っていたこととも通じるものだろう。
ポールさん、花粉症がひどくて大変でいらっしゃいますね。不謹慎お許し頂かねばなりませんが、花粉症は日本人の専売特許とばかり思っていましたし、満身創痍のわたしも花粉症だけは無縁の恩寵を受けていますので、苦痛は想像するばかりです。今年は花粉発生が早かったようなので、終息も早ければどんなにかいいですね。
ブログを持っている高校同期の男が、このところ老子を書くことが多くなっています。「無」についてさまざま考えているようです。新井満氏は例の「千の風になって」の訳詩・作曲者。どんな老子観が描かれているのでしょうか。
宇多喜代子著「ひとたばの手紙から」(角川文庫)を読みました。戦争俳句とそれを詠んだ俳人の置かれた時代を深く考察しています。今ややこしい世界情勢に翻弄されている中で、のほほんとした句を詠んでいていいのか。先人俳人の姿勢から学ばねばと思いつつ読了しましたが、難しいことです。
そこでーー。
ドクさんの目の毅然たる春疾風 ミコ
先日来日したグエン・ドクさんの交流会に参加した折のものです。駄目ですね。
老子が顧みられるようになっているようですが、すべてを削ぎ落としたところに何か新しいものが見えてくるのかもしれません。その境地は遠いとは思いますが、とりあえず新しい別の解釈に触れてみたいと思います。
俳句の世界は私にとって全く未知なので、こちらは余り反省せずに(知らないので反省しようがないというのが正直なところですが)ゆっくり眺めていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。