印象派の旗頭ルノワールと映画作家の息子ジャンの展覧会が新装成った Cinémathèque française で昨日 (28日) から始まったというニュースを Le Point で知る。
Cinémathèque française は以前シャイヨー宮 Le Palais de Chaillot にあったらしいが、今回 51, rue de Bercy の1996年以来使われていなかったアメリカンセンターを Frank Gehry という人が改装してできた。ベルシーと言えば、3年前にパリを訪れた時、新しく開発されたという気の利いた店が集まった場所をのんびり散策し、店員との会話を楽しみながらアフリカ音楽のCDを買ったり、大型映画館で映画を見た記憶が蘇ってきた(何を見たのかは思い出せないが)。
新しいシネマテークには映画を写すところが3ヵ所、教育のためのスペース(ビブリオテークとメディアテーク)、さらに特徴的な点は、600平方メートルに及ぶ常設展会場と特別展会場があり、これが映画と他の芸術分野との相互作用を反映させるところとなる。志の高い野心的な試みで、読んでいるだけでわくわくしてくる。早く行ってみたいと思わせてくれる空間である。
そのオープニングにルノワール父子が選ばれたのは、この場所のミッションに合致するのだろう。
Pierre-Auguste Renoir (1841-1919)
Jean Renoir (1894-1979)
偉大な画家である父親の影を感じながら映画を作っていた息子は、「私の人生と映画 (Ma vie et mes films, 1974)」 の中で次にように語っている。
"J'ai passé ma vie à tenter de déterminer l'influence de mon père sur moi." (父の私に与えた影響を明らかにするために一生を送った)
そうしなければならなかったほど、親子の関係は緊密であった。子供の頃は父親のモデルとして。オーギュストが彼の金髪が好きだったようで、100回は下らないほども。彼は女の子に見られたようで、禿であればと願うくらいに暗い経験だったと言っている。
"Mon père aimait peindre ma chevelure de l'or. Son affection pour mes boucles dorées me plongeait dans le désespoir. On me prenait pour une fille. J'aurais voulu être chauvre."
21歳の時に転機が訪れる。父の話し相手になり、それが後に「私の父ピエール・オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir, mon père, 1960)」 に結実する。父への最高の賛歌として (comme un ultime hommage)。父の死後、陶器をやる希望があったようだが、彼の妻 (父の最後のモデルだったカトリーヌ・エスラン Catherine Hessling) をスターにするために映画に足を踏み入れる。一銭にもならなかった映画ために父の絵を売る (Jean vend des tableaux de Pierre-Auguste pour financer ses films qui ne rapportent pas un sou)。
彼の映画には父からの影響と思われる印象派のアプローチが見てとれるが、もっと深いところには生きとし生けるものに対する愛情 (un amour commun pour tout ce qui est vivant) が流れていたのではないだろうか。また彼の父がそうであったように、想像を信用せず (Il se méfiait de l'imagination.)、観察することを第一に考えていた (J'ai besoin de l'observation comme point de départ.)。父の遺産は確かに受け継がれていたのである。
そういうことが感じ取れる展覧会のようである。
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