
昨日の "Blogalisation" で使った写真のことで、写真家 Wilfrid Hoffacker とやり取りをした。今日そのページを見てみると、予想もしなかったコメントが届いている。自分に語りかけているつもりで書いてきたが、どこかと繋がっているという感覚は嬉しいものである。
この日曜日、NHK-ETVの芸術劇場を見ていたら、Daniel Barenboim のインタビューが流れていた。最近、Edward Said との対論集(Parallels and Paradoxes)も訳されている(「バレンボイム/サイード 音楽と社会」)。何気なく聞いていると、彼は専門家 Specialist になることに非常な恐れを抱いている。人間の素晴らしさである、もの事の「関連性を見つけること」ができなくなる可能性があるからだという。さらに、指揮者という不思議な音楽家の立場、つまり自分では物理的に音を出すことができない音楽家。ピアニストでも、バイオリニストでも、楽器に触れば音を出すことができる。しかし指揮者にそれは叶わない。それゆえ、彼は音楽家の原点である自分で音を出すということ、ピアニストであることを辞めようと思ったことはなかったという。そして還暦を越えた今、その活動を増やして行きたいようであった。そのためだろうか、Chicago Symphony Orchestra の Director を退くという。Administration に時間をとられたくない、Management ではなく音楽家の原点に戻りたいということだろう。これらの問題は音楽の領域に限ったことではなく、いずれはそれぞれが向き合わなければならないことだが、結局は彼のような選択をするのが幸福な死を迎えることに通じるのではないかと想像したりする。
考え、想像するとは、取りも直さず「関連付け」をすること。謎を持ち、時間をかけてその答えを孵化させる過程でも重要になる。このことを教えられたのは、4-5年前だったか、丸谷才一が「思考のレッスン」の中で「見立て」として話しているのを読んだ時だった、恥ずかしながら。しかしこの楽しさを覚えると、これから先の時間を退屈せずに過ごせそうだし、美味しい果実が転がり込まないとも限らない。
指揮者バレンボイムは数年前にワーグナーの『指輪』を東京で振ったときに、初めて聴きました。
『指輪』のあまりの荒唐無稽さに辟易したので、名演奏も心からは楽しめませんでしたが。
ピアニストのバレンボイムは、数ヶ月前に図書館で借りたモーツァルトの幻想曲の限りなく繊細な演奏を聴いて再認識したばかりです。
そのバレンボイムがサイードと対談しているとは!
中野真紀子さんの翻訳は固そうですし、ずっと安いペーパーバックをアマゾンでさっそく注文しました。
楽しみです。
Paulさんのブログは泉のようです。
ありがとうございました。
パレンボイムの演奏には残念ながら未だ生で触れたことはありません。いずれ、とは思っています。
私も本は原書に限ると思います(フランス語は相当に先の話のようですが)。「音楽と社会」を読まれた後に、歌っていただければ幸いです。楽しみにしております。