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幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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人気ライダー、阿部典史さん死去(トラックと衝突)

2007-10-09 | 




2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さん

乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれましたが

間もなく死亡しました。

32歳でした。

(写真は、シューマッハと阿部さん)


ノリックが交通事故死、トラックと衝突(日刊スポーツ) - goo ニュース

さようならノリック(阿部典史氏)



ノリックが交通事故死、トラックと衝突

 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。

 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。

 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。

 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。

 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。

 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

96年は誰もが、今でも記憶に鮮明に残る鈴鹿グランプリ。
トップを走りながらも力をゆるめることなく、
ファステストラップを更新しながら、タイヤを滑らせながら、
後続から8秒近くもの差をつけた独走でチャッカーフラッグを受け優勝! 
14年ぶりの日本人のGP500での優勝、しかも鈴鹿では日本人の
優勝は初めて。
サーキット全体が最高潮に達し、表彰台でのノリックの涙に
テレビで観戦の人々までもが涙した。
テレビ大阪の千年屋アナの実況「桜吹雪の中を...」の名フレーズは 
今でも鈴鹿サーキットに桜が舞い散る時、何度も頭の中をリフレインする。

1回目の優勝は大粒の涙をこぼし 泣きじゃくり これまで優勝をしてこんなに
泣いたライダーをみたことがあったろうか?と 評された。
2回目は 愉快痛快な壮絶バトルでの優勝ということで笑いが止まらなかった。
3回目の優勝は 「もう慣れた」とコメント。


阿部典史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿部 典史(あべ のりふみ)
1975年9月7日 - 2007年10月7日
東京都出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。
エントリーネームはニックネームでもある
「Norick Abe(ノリック・アベ)」。

■戦歴
1988年 - 13歳でレースデビュー
1991年 - アメリカでダートトラック、モトクロスなどに出場
1992年 - スーパーカップイースタンシリーズ250ccランキング2位
1993年 - 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
ロードレース世界選手権500ccデビュー
1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
1996年 - WGP500ccランキング7位(日本GP優勝)/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
1998年 - WGP500ccランキング6位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
1999年 - WGP500ccランキング6位(リオGP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2000年 - WGP500ccランキング8位(日本GP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2001年 - WGP500ccランキング7位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2002年 - MotoGPランキング6位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)  
2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
2005年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
2006年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
2007年 - 全日本ロードレース選手権JSB1000/ワイズギア・レーシング

■ 人物
スタートに秀で、WGP時代には予選10位台から1コーナーをクリアした時には
トップ集団に食い込んでいることも多かった。
独特の前輪に荷重させたライディングスタイルはマイケル・ドゥーハンに
「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。

全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。
ヘルメットからはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から
「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、
外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、
再び伸ばしたことがある。
2007年10月7日に事故死するまでは短髪だったが、これは本人のセンスの変化
によるもの。


レーサーの阿部典史さん事故死=トラックと衝突-川崎市 (時事通信) - goo ニュース

阿部典史氏死去 オートバイレーサー(共同通信) - goo ニュース

長井健司さん無言の帰国 母「けん坊…かわいそうに」(ビルマの竪琴におもう)

2007-10-09 | 


ミャンマーで犠牲になった、長井健司さんの遺体を見て、

母親が「けん坊、けん坊、かわいそうに」と泣き崩れたという

ニュースを見ました。

いたたまれない事件です。

しかし、これを一つの悲しい出来事で終わらせてはならないと

思います。

まず簡単にミャンマーという国について振り返ってみたいと

思います。

・・・・・

ミャンマーは以前、ビルマといわれていました。
 

  

ビルマは1886年にイギリス領インド帝国に併合されて、

その1州となっていましたが、

1948年にイギリス連邦を離脱しビルマ連邦として独立しました。

ネ・ウィン将軍が1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、

1962年に軍事クーデターを起こし、

ビルマ社会主義計画党(BSPP、マサラ)の最高指導者として

軍事独裁体制を維持しました。

しかし社会主義体制のもとで経済は長期低迷。

1988年、ネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、

同将軍は7月にBSPP議長を退きました(8888民主化運動)。

9月18日には軍部がクーデターにより政権を掌握。

その時、総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成されました。

ここで、立ち上がったのが、民主化指導者アウン・サン・スー・チー

さんです。

民主化指導者アウン・サン・スー・チーらは国民民主連盟(NLD)を

結党しますが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁

されてしまいます。

1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝しましたが、

軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化。

前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権として

ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)を樹立しました。

その後、アウンサンスーチーは1989年から1995年まで、

また2000年から2002年まで自宅に長期軟禁された。

2003年5月にも地方遊説中に軍政側の襲撃を受け、

その後現在まで自宅軟禁状態に置かれており、

自由な政治活動が許されず、軍事政権の独裁が続いています。

そんな中、2007年9月18日、燃料の値上げに反対し何万人もの

僧侶や市民による抗議デモが行われました。

その中で、軍の無差別乱射がおこり、長井さんが、犠牲に

あったわけです。


○ビルマといえば、思い浮かぶのが『ビルマの竪琴』です。

    
竹山道雄原作で、映画になりました。

(個人的には映画の方が感動しました)

第二次大戦直後のビルマが中心に描かれています。

日本軍のとある隊長は音楽をよくする人物で、自らの部隊の隊員に

合唱を教えたので、隊員達は歌う事によって規律と慰めと団結を

得ていたのであった。

中でも若い水島上等兵は才があったため音楽に熱中し、楽器の演奏を

得意として部隊でたびたび演奏を行っていました。

この水島上等兵は戦争が終っても独りあえて復員(軍隊から復帰し帰国すること)

せず、ある高邁な目的のためにビルマに残ることにします。

その時の水島のことばが胸を打ちます。

  
・・・・・・・・・・・・

私は僧として修行しながら知りました。

むかしから、この教えは世界と人生について

おどろくべき思索をつづけています。

そして、この教えに献身する人々は真理を

つかむために勇猛進をふるいおこして、

あらゆる難行苦行をもあえてしています。

それは軍隊の勇気にも劣らぬほどです。

目に見えぬ精神のとりでを陥れるための戦いなのです。

そのためには前にも記したように、ヒマラヤ大雪山を半裸のすがたで

はってのぼる人さえあります。

われわれはこうした努力をあまりにしなさすぎました。

こうした方面に大切なことがあるということすら考えないでいました。

われわれが重んじたのは、ただその人が何ができるかという

能力ばかりで、その人がどういう人であるか、また、世界に

対して人生に対して、どこまでも深い態度をとって生きているか

といことではありませんでした。


いったいこの世には、なぜにこのような悲惨があるのだろうか。

なぜにこのような不可解な苦悩があるのだろうか。

われらはこれをどう考うべきなのか。

そして、こういうことに対してはどういう態度をとるべきなのか?

この疑念に対しては教えられました。

この 何故にということは、しょせん人間にはいかに考えても

分からないことだ。

われらはただ、この苦しみの多い世界に少しでも救いをもたらす者

として行動せよ。

その勇気をもて。

そうして、いかなる苦悩、背理、不合理に面しても、なおそれに

めげずに、より高き平安を身をもって証しする者たちの力を示せと。

このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行

をしたい、と念願いたします。

我が国は戦争をして、負けて、くるしんでいます。

それはむだな欲をだしたからです。

思いあがったあまり、人間としてのもっとも大切なものを

忘れたからです。

われらが奉じた文明というものが、

一面にははなはだ浅薄なものだったからです。

われわれも気力はありながら、もっと欲がすくなくなるように

つとめなくてはならないのではないでしょうか。

それでなくては、ただ日本人ばかりでなく、

人間全体が、この先もとうてい救われないのではないでしょうか?

・・・・・・・・・




このビルマの竪琴について、西尾幹二氏が、

「戦後の反映を忙しく築き上げた日本人の心をうつのは、

 魂の問題だからだ」

と語っています。


同じ戦争を体験した水島の戦友たちは、

「帰ったら工場につとめるぞ」とか、

「口笛をふいて自転車にのって伝票をもって銀座の街を走り、

 帰りには映画をみて、みつまめをくう」
 
といっていますが、

水島は「ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない」

と、日本に帰りたい心をおさえて、人間の本当の幸せ、

魂の救済を求めて、より厳しい道をあゆもうとするのです。


ひるがえって、平和と自由が与えられた日本で、

なすべきことは何でしょうか?

享楽?
仕事?
金?
円滑な人間関係?
恋愛?

どれも否定はしませんが、人生の軸とすべきものでしょうか?

いままで幾億兆の人たちが叫びと教訓を私たちに残してきたこと

でしょう。

ミャンマーに平和と自由な日々がきてほしいと念じますが

平和と自由を手に入れて人たちは、何をすべきでしょう。

水島はいいました。

「いったいこの世には、なぜにこのような悲惨があるのだろうか。

 なぜにこのような不可解な苦悩があるのだろうか。

 われらはこれをどう考うべきなのか。


 われらはただ、この苦しみの多い世界に少しでも救いをもたらす者

 として行動せよ。

 その勇気をもて。

 そうして、いかなる苦悩、背理、不合理に面しても、なおそれに

 めげずに、より高き平安を身をもって証しする者たちの力を示せ」
 
つまりは、政治、平和、自由、より以上に大切な「なにか」が

あるということです。

の水島の魂の叫びにもっと耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?

そうでなければ

「人間全体が、この先もとうてい救われないのではないでしょうか?」

・・・・・・・

以下、記事です。。

■長井さんの遺体が帰国 母「けん坊…かわいそうに」

 長井健司さん(50)の遺体は4日朝、契約していた
 APF通信社の山路徹代表(46)に付き添われてバンコク経由で
 成田空港に到着、愛媛県から上京した両親ら遺族とようやく
 無言の再会を果たした。

 長井さんの遺体を乗せたタイ国際航空機は午前6時40分ごろ、
 空港の駐機場に到着。遺体は搬送先の杏林大学で、遺族らと対面した。
 父親は遺体をじっと見つめてお経を上げるようにつぶやき、
 母親は「けん坊、けん坊、かわいそうに」と泣き崩れたという。

 山路代表は「ようやく日本に帰ることができた。」と
 声を詰まらせた。
 今後、長井さんが最後まで握っていたビデオカメラの
 回収に全力を尽くすといい、
 「彼が命と引き換えに取材した映像を取り戻すことが最大の目標」
 と語った。

長井さんの遺体が帰国 母「けん坊…かわいそうに」(産経新聞) - goo ニュース
肝損傷の失血死 長井さん、背後から射殺(産経新聞) - goo ニュース
背後から銃撃と判明 ミャンマーの邦人射殺事件(共同通信) - goo ニュース
肝損傷の失血死 長井さん、背後から射殺(産経新聞) - goo ニュース
肝損傷による失血死=背後から撃たれ弾貫通-射殺の長井さん司法解剖・警視庁 (時事通信) - goo ニュース

ミャンマーで殺害の日本人ジャーナリスト、遺体が帰国(ロイター) - goo ニュース
ミャンマー軍政、条件整えばスー・チー氏と対話(ロイター) - goo ニュース

長井さんの死、千人が悼む 都内で葬儀(朝日新聞) - goo ニュース

カメラ持ち去る映像放映 テレ朝、ミャンマー銃撃で(朝日新聞) - goo ニュース

「自由論」J.S.ミル

2007-10-08 | その他



物理学者の、竹内薫先生が、ブログに

「ミルの『自由論』とヴィトゲンシュタインの『青本』を

 読み返している。

 ともにファイヤアーベントの作品や論文に登場する

 キーマンたちだ」

と書いています。

 

8歳にしてラテン語、ユークリッド幾何学、代数学を学び始めた

という、哲学者にして経済学者だった
ジョン・スチュアート・ミル(英)
そのミルの著書「自由論」からの抜粋です☆

 

「ほんとうに重要なのは、ひとがどのような行動を

 とるかだけではない。

 その行動をとる人がどのような人間なのかも重要

 である。

 人が一生を使って完成し、磨き上げていくのが適切な

 もののなかで、何より重要といえるのは、明らかに

 自分自身である」



「いまでは、社会の最上層から最下層まで、すべての人が

 敵意をもった恐ろしい監視のもとで暮らしている。

 個人や家族は、自分の好みは何なのかとは考えない。

 自分の性格と気質に合っているのは何ののか、

 どうすれば自分のうち最高で最善の部分を活かし、

 それが成長し開花するようにできるのだろうかとも

 考えない。

 考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、

 自分と同じ地位、同じ収入の人はふつう、どうしているのか、

 そしてもっと悪い見方だが、自分より地位が高く、収入も

 多い人はふつう、どうしているのか、である。

 各人が自分の好みに合うものより、世の中の慣習になっている

 ものを選ぶといいたいわけではない。

 そうではなく、慣習になっているもの以外には、自分の好みを

 何も思いつけなくなっているのである。

 精神まで、抑圧のくびきに屈伏している。

 娯楽のときですら、真っ先に考えるのは、世の中に合わせること

 である。

 いつも大勢に順応していたいのだ。

 何かを選ぶときでも、ふつうに行われていることのなかからしか、

 選ばない。

 人とは違う趣味や、変わった行動は犯罪と変わらないほど避けようとし、

 いつも自分の本性にしたがわないようにしているので、やがて、

 したがうべき本性をもたなくなる」
 
 

19世紀のことばですが、現代にもなまなましく

せまってくるものがありますね!

以下、「自由論」についてうまうまとめられていましたので、

紹介させてもらいます。


■自由とは人に迷惑をかけないことだと言ったJ.S.ミル

元記事はコチラ
   
 J.S.ミル(Mill 1806-1873 英国人)の『自由論』は
 明治の文明開化の時代に『自由之理』という題で訳されて
 日本でも有名になった本である。

 古い本のようだが中身は新しい。
 なぜなら、彼の議論は民主主義社会がすでに出来上がっている
 ことを前提にした議論であるため、そこまで行っていない
 アジアの人間が読むと、これを論じるのはまだ早いのではと
 思わせるような内容なのだ。

 つまり、自由が圧政からの解放と民主政治確立を意味していた時代は、
 彼にとっては過去のものなのである。
 彼が言う自由とは世論(世間)からの個人の自由である。
 つまり「個人が自分自身だけに関することをどのように
 しようとも自由だ。
 それを回りの人間(世論)はとやかく言う権利はない」という自由である。
 ここに彼は、人に迷惑をかけないかぎりという条件をつける。
 そうであるかぎり世論も官憲も個人の生活に口出しすべきではないと言うのである。
 
 曰く「個人は、他人の迷惑になってはならない」(岩波文庫114頁)
 曰く「個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、
 社会に対して責任を負っていない」(同189頁)
 
 なぜ個人の自由が大切かというと、個人の生活に規制を加えるようになると、
 個性が育たなくなり、そうなると天才も生まれなくなり、その社会が発展
 しなくなってしまうからだと彼は言う(第三章)。

 だから例えば、教育を国がするのはよくない。
 国は教育の機会さえ平等に与えていればよい。
 その中身に国は口出しすべきではない。
 そんなことをすれば、誰も彼も同じ教育を受けた金太郎飴のような人間が
 出来上がってしまう。
 そうなると、個人は不幸になるし、国は発展しなくなる。
 
 曰く「個性の自由な発展が、幸福の主要な要素の一つである」(同115頁)
 曰く「賢明な、または高貴な一切の事物の創始は、個人から出て来るものであり、
 また個人から出て来ざるを得ないものなのである」(同134頁)
 曰く「およそ或る人民は、見受けるところ、或る期間は進歩して、
 やがて停止する。
 では、いかなる時に停止するか? その人民が個性を持たなくなるときである」(同143頁)
 
 ところが、世論(世間)というものは自分たちと違うものを認めようとはせず、
 異質なものを排除しようとする。
 強い好みや嗜好や欲求を持っている者を理解せず、普通にしろと口出しをしたがる。
 そして、
 
 曰く「人間性の諸部分のうち特に抜きん出て、その人物の輪郭を平凡な人と
 異なったものとするようなあらゆる部分を、中国の婦人の足のように
 緊縛して不具にしてしまう」(同141頁)
 
 この傾向は特に東洋で強く、そこでは、
 
 曰く「正義と公正とは慣習に一致することを意味している」(同143頁)
 
 このようにミルは個性を非常に重視する。

 言論の自由についても、ミルは一章をあてて、それがいかに大切であるかを
 詳細に論じている(第ニ章)。
 彼が言うには独善に陥らない最善の方法こそ、言論の自由である。
 反論される機会を作っておくことは、自分の考えの正しさを担保する
 唯一の手段であるというのである。
 逆に、言論の自由を奪うことは、自分の意見の正しさを絶対視することに
 つながり、それは結局は自分自身の失敗につながると言う。
 
 曰く「人間は、議論と経験とによって、自分の誤りを正すことが出来る。
 経験のみでは充分ではない。
 経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなくては
 ならない」(同44頁)
 
 真理というものは必ず一面的なもので、仮に自分の考えが真理であるとしても、
 それに対する反論の中に自分の意見を補うような真理が必ず含まれていると言う。
 
 曰く「その問題に関して自分の主張を知るに過ぎない人は、
 その問題に関してほとんど知らないのである」(同76頁)
 
 そして反論を受けないようにしてしまった真理は真理としての力を
 失ってしまうと言う。
 
 曰く「その意見がいかに真理であろうとも、もしもそれが充分に、
 また頻繁に、且つ大胆に論議されないならば、それは生きている真理としてでは
 なく、死せる独断として抱懐されるであろう」(同73頁)
 曰く「論争が行われない場合には、意見の根拠が忘却されるだけではなく、
 また実にしばしば意見そのものの意味が忘却される」(同81頁)

 これは宗教について特によく当てはまる。
 その典型はキリストの言葉である。
 彼は例えば、「貧しき者、卑しき者、世に虐げられる者は幸いである」
 とか「もしも人が外套を取るならば、さらに上着をも彼に与えなくてはならない」
 とか「けっして誓ってはならない」などと言い、キリスト教が迫害された昔には、
 これが真実の言葉として意味を持っていた。

 しかし、今のキリスト教徒はこれを真剣に実践しようとする人はいない
 だろうし、これを実行していないと批判する人は嫌われてしまう。
 なぜなら、これらは単なるスローガンになってしまっているからである。

 曰く「キリストのことばは、好感のもてる柔和な言葉に単に耳を傾ける
 ことによってもたらされる快感以上には、ほとんどなんの効果をも生みだす
 ことなく、彼らの精神の中に受動的に併存しているのである」(同87頁)
 
 ここで、ミルはキリスト教道徳を受動的服従の教説であると切り捨てて
 いる(同101頁)。キリスト教は
 
 曰く「積極的であろうとするよりもむしろ消極的であり、能動的であるより
 むしろ受動的である。すなわち、高貴であることよりも、むしろ罪を犯さぬことを
 尊び、精力的に善を追及することよりも、むしろ悪より遠ざかることを尊ぶ」(同101頁)
 曰く「この道徳は、古代人の持っていた道徳の最善のものに比べて、
 はるかに劣っているし、また人間の道徳に対して、本質的に利己的な性格を
 付与しようとしつつあるものといわねばならない」(同101頁)
 
 それは何故かというと、
 
 曰く「キリストの言葉は真理の一部分を含んでいるに過ぎず、
 またその意図で語られていた」(同103頁)
 
 したがって、
 
 曰く「キリスト教の体系は、人間精神の不完全な状態においては真理にとっての
 利益のために意見の多様性を必要とするという規則に対して、何らの例外をなすもの
 ではない」
 
 キリスト教に対してこのような見方が存在するということを知るだけでも、
 この本を読む価値があるというものである。
 
 ここまでに紹介した内容は、第二章と第三章に書いてあることだが、第四章では、
 最初に述べた「個人の自由に対して社会や世論がどの程度に干渉する権利があるか」
 について、具体例をあげて論じている。
 その例としとはモルモン教と禁酒法があげられている。
 
 モルモン教に関しては、ミルはこの宗教をけしからぬもの、野蛮の復活であると
 しつつも、それを弾圧することには反対の立場をとっている。
 その普及を阻止するためには、宣教師を派遣するなど、あくまで正当な手段を
 取るべきだという。なぜなら、
 
 曰く「野蛮が全世界を支配していたときにおいてすら、文明は野蛮に打ち勝った
 のであるから、野蛮がすでに充分に征服された後において、それが復活して
 文明を征服するかもしれないなどと告白するのは、行き過ぎというものであろう。
 己の一旦征服した敵に負けるような文明は、まず第一に、すでに甚だしく
 退廃していて、それの任命した僧侶や教師も、その他のいかなる人物も、
 このような文明を擁護するために立ち上がる能力もなければ、またその労を
 取ろうとする意志もなくなっているに相違ない」(同187頁)
 
 そしてそのような文明の例として一旦自分たちが征服した野蛮人に滅ばされた
 西ローマ帝国をあげている。
 
 ところで、このモルモン教迫害の急先鋒だったのが新聞だったという。
 いつの時代でも新聞は知的であるよりは感情的なものなのである。
 新聞は一見自由を標榜しているようであるが、異端な個人の自由に対する
 最大の脅威としてしばしば機能する。

 曰く「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで
 大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している
 人々にほかならない」(同134頁)

 第五章では、個人の自由と社会の介入の二つの原則、つまり
 
 「個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、
 社会に対して責任を負っていない」(同189頁)

 という原則と、
 
 「他人の利益を害する行為については、個人に責任があり、また、
 社会がその防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする意見である
 場合には、個人はそのいずれかに服さなければならないであろう」(同189頁)
 
 という原則の、二つの原則の境界線上にあることがらについて検討を加えている。
 例えとして、飲酒やギャンブルが検討に対象になっている。
 
 ギャンブルは個人その人にだけ関係している事柄である。
 純粋に個人の責任でやればよいはずだ。
 しかし、ギャンブルにのめり込んで不幸になる人が出て来たり、逆にこの営業に
 よって大儲けする人が出て来る。
 そこで、ギャンブルを禁止したり、ギャンブルの営業を禁止したりする国がある。

 しかし、これらの禁止措置の合法性についてミルは疑問を投げかける。

 個人がギャンブルをすることを禁ずることは個人の自由の侵害であるから、
 禁止してはならない。
 その営業だけを禁止することもおかしい。
 ギャンブルをする本人を許しておきながら、それを助けるものだけを許さない
 というのでは本末転倒だと言うのである。
 (同199頁の「これに対する反論としては」から同200頁の「以上の議論には
 相当強いものがある」までが、営業だけの禁止を擁護する議論である)

 このようにミルはかなり広範囲に個人の自由を認めている。
 
 その他、最後の章では、国の官僚機構が肥大化するとに警告を発してる。
 そうなってしまうと、いかに民主国家であっても、出版言論の自由が確立して
 いても、その自由は名前だけのものとなって国家は衰退すると言っている。
 
 曰く「国内に存在している広大な教養と練達した知能の一切が、厖大な
 官僚群の中に集中し、社会の残りの人々は、何もかもひたすら彼らにだけ
 期待することになるであろう。
 すなわち、一般国民は、自分たちの為さねばならぬ一切の仕事に関して、
 彼らの指導と命令を期待し、能力と野心をもつ者は、自己の立身出世を
 そこに求めるであろう」
 
 こうなると
 
 曰く「官僚群の利益に反するような改革は、けっして実現することは
 出来ないのである」
 
 日本の政治改革も行政改革も困難な所以である。
 以上のように、いろんな点で教えられることの多い書物である。
 一読を勧めたい。

 なお、日本語の訳書については、残念ながらよいのがない。
 現在入手可能なものはここで引用した岩波文庫のものと中央公論の世界の名著の
 ものであるが、どちらも帯に短したすきに長しで、単独で読み切ることができない。



■ジョン・スチュアート・ミルについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョン・スチュアート・ミル
(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日)
イギリスの哲学者にして経済学者であり、
社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。
ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。
晩年は自ら社会主義者を名乗る。

■幼年時代
ジョン・スチュアート・ミルはロンドンにてジェームズ・ミルの
長男として生まれた。
ミルは父親によって教育され、また父親と親交が深かった
ベンサムやフランシス・プレイスにも助言をもらったりした。
その教育法はすさまじく、彼は小さい頃から年中勉強させられ、
父親はミルが同年代の他の子供たちとは遊ばないようにさせた。
父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感しており、
また連合主義(associationism)の支持者でもあった。
父親のジェームズはそれらの考えにもとづき、
ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者
として育て上げようとしたのである。

よって、子供時分のミルは普通では考えられないような業(わざ)を
やってのけた。
彼は、三歳にしてギリシャ語のアルファベットと単語を母国語の英語と
共に教わり、八歳になるまでにアイソポス寓話、クセノポンの『アナバシス』、
ヘロドトスの著作全てを読み、またルキアノス、ディオゲネス・ラエルティオス、
イソクラテス(Isocrates)、プラトンの六編(ミルの自伝を参照)を
理解した。
彼はまた英語で書かれた歴史の本も多く読んでいる。

8歳から13歳にかけてのミルの学習の記録は、彼と同時代に生きた
スコットランドの哲学者であるアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain)
によって出版されている。
ベインによると、ミルの自伝は彼が実際にやってのけた学習量を控えめに
述べているという。
8歳の時分にミルはラテン語、ユークリッド幾何学、代数学を学び始め、
父親によって家族内で彼の弟たちの教師役に選ばれた。
彼の読書の大部分はいまだ歴史物が大半を占めていたが、
ミルはまた当時の学校や大学で広く読まれていた全てのラテン語と
ギリシア語の著作を読んでもいた。
ミルはラテン語やギリシア語で作詩することは教(おそわ)らず、
それらの言語での著作の内容を理解するためだけに向けられていて、
10歳の頃には彼はプラトンやデモステネスを難なく読むようになった。
彼が12歳の頃、1818年に父親のジェームズによる著作『インドの歴史』が
刊行され、そのほぼ直後からミルはスコラ論理学を全般的に学び始め、
またそれと同時に、アリストテレスの論理学に関する論文を原語で
読みはじめた。
翌年、彼は政治経済学を始め、アダム・スミスや リカードを父親と
共に学習・研究し、彼らの古典経済学の生産要素の見方を完全に学び取った。


ミルはケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、
父と同様に東インド会社に奉職した。
従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。

東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の
無所属下院議員として1865年から68年まで短期間ながら選出されている。
ミルは当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランドの
負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。
「代議制統治論」では比例代表制、普通選挙制など、はるかに時代の流れに
先駆けた選挙制度改革を主張した。
植民地におけるジャマイカ事件でダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を
擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。
もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために
世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。
結局、英国で男女の普通選挙が実現したのは1928年のことであった。
なお、ミルはバートランド・ラッセルの名付け親でもある。

ミルはフランスのアヴィニヨンに滞在中に、丹毒(連鎖球菌感染症の一つ)
によって死去した。


■ 政治哲学におけるミル

人が一生をかけてもなし得ないような偉業を様々な分野でやり遂げたミルだが、
その中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。
ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに
力強い議論を与える。
ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。
ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、
使わなければ衰えてしまう。
しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と
言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。
よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、
話せる状態(=自由)が必要なのである。
ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。
簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽に(ベンサムが唱えた量的なものよりも)
質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。
それは次のミルの有名な言葉で表されている:
「満足した豚よりも不満足な人間である方が、
 また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」(『功利主義』第二章)。

ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会(国家)が個人に
対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。
『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。
「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、
好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。
この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。
リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は
合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。
現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化される
ことを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。



■ノーベル賞の季節、5年ぶりの日本人受賞は?

2007-10-08 | その他




ノーベル賞の季節になりました☆

さて、今年はどうでしょう??

ちなみにイグ・ノーベル賞はゲット!!

牛のふんでバニラの香り、山本麻由さんにイグ・ノーベル賞(読売新聞) - goo ニュース

ノーベル賞をもじって、ユーモアあふれる研究に

贈られる「イグ・ノーベル賞」の授賞式が4日、

ハーバード大で行われ、牛ふんからバニラの香り成分

「バニリン」を抽出する技術を開発した国立国際医療センターの

元研究員山本麻由さんに、今年の化学賞が贈られた。

 受賞スピーチで、山本さんは

「牛ふんを熱すると、どんな香りがすると思いますか? 

 とても甘い香りなんです。

 アイスクリームを食べる時、牛ふんも一緒にどうぞ」

 と話し、笑いを誘った。

 イグ・ノーベル賞は、米出版社が企画し、

「まず人を笑わせ、次に考えさせる」研究に与えている。



■ノーベル文学賞候補に村上春樹氏

元記事はコチラ
スウェーデン王立アカデミーは5日、

今年のノーベル文学賞を11日午後1時(日本時間同8時)に

発表することを明らかにした。

有力候補として、イタリア人作家クラウディオ・マグリス氏、

米国のフィリップ・ロス氏のほか、「ノルウェイの森」などで

知られる村上春樹氏の名前も取りざたされている。 

■ノーベル賞の季節、5年ぶりの日本人受賞は?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071007-00000920-san-soci

 今年もノーベル賞の季節がやってきた。自然科学系のトップを切り、
 医学生理学賞が8日に発表される。物理学と化学を含めた
 自然科学系の3賞では、関西にゆかりのある研究者の受賞も
 取りざたされており、周囲の期待は高まっている。
 平成14年の田中耕一さん以来となる5年ぶりの日本人の受賞はあるのか-。

■最高の栄誉

 科学者や研究者にとって最高の栄誉といわれるノーベル賞。
 ダイナマイトの発明で知られるアルフレッド・ノーベル(1833~96)の
 死後、全財産を基金とし世界初の国際賞として、1901(明治34)年に誕生した。

 物理、化学、医学生理学と文学、平和の5部門は創設当初からあるが、
 経済学賞はスウェーデン銀行設立300周年を記念して1968年に新設。各賞とも約1000万クローナ(約1億5000万円)の賞金が贈られ、同じ賞で複数の受賞者が選ばれた場合は人数分で均等に分配する。

 選考機関はスウェーデンの首都、ストックホルムとノルウェーにあり、物理学と化学は王立スウェーデン科学アカデミー、医学生理学はカロリンスカ研究所など各賞ごとに選考は異なる。

 選考は各分野の有力な研究者や過去の受賞者らが推薦し、必要に応じて聞き取り調査をすることもある。化学賞を受賞した田中さんも5月ごろに聞き取りを受けたことを認めており、候補者内定の重要な要素の一つといえる。

 最後は選考機関の投票で決定する。一連の過程は50年後に公表されるが、調査には相当の金をかけているとされ、「1人の候補者の選考に賞金とほぼ同額の経費をかけている」(ノーベル財団理事)という。

■日本人は12人

 ノーベル財団によると、昨年までに766の個人と19の団体が受賞した。放射性元素ラジウムの発見で有名なキュリー夫人が物理学賞と化学賞をもらうなど、個人で2回受賞したケースもあれば、死後に受賞した人もいる。

 日本人の受賞者はこれまでに12人。戦後間もない昭和24年に物理学賞で湯川秀樹が受賞したのが最初で、43年には川端康成が文学賞、49年の平和賞には佐藤栄作が選ばれた。最近では白川英樹さん、野依良治さん、田中耕一さんが平成12年から3年連続で化学賞を受賞したのは記憶に新しい。


 世界で最も歴史と権威のある賞だけに毎年10月の発表前には有力候補者の名前が複数上がり、受賞者の予想を独自の調査で発表する会社もある。米国の学術情報会社「トムソンサイエンティフィック」はその代表例だ。

 同社が今年9月に発表した物理、化学、医学生理学、経済学の4分野の候補者予測をみると、日本人では名城大の飯島澄男教授(68)と東大の戸塚洋二特別栄誉教授(65)の2人が物理学賞の候補に挙げられた。

 同社によると、選考は学術論文が他の論文に引用された回数などが基準。14年以降、同社が候補者に挙げた研究者54人のうち4人がノーベル賞を受賞したという。

 また、それとは別に関西にゆかりがあり、長年「有力」と言われている候補者も。医学生理学では分子免疫学の第一人者で京都大の本庶佑特認教授(65)や、分子生物学が専門で大阪バイオサイエンス研究所の中西重忠所長(65)。物理学では素粒子研究の世界的権威とされる京都産業大の益川敏英教授(67)が毎年のように名前が挙がっている。

 ただ田中さんの受賞のようにノーベル賞には“サプライズ”がつきもの。日本中をわかせる快挙の瞬間を待ちたい。

それが、いざといふ間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです(夏目漱石「こゝろ」)

2007-10-06 | 煩悩
グーグーパンダは、いろんな切り口から>生きる意味
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平生はみんな善人なんです。
少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざといふ間際に、
急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。
だから油断が出来ないんです。
   (夏目漱石『こゝろ』)

   
夏目漱石は、人の心の奥底をのぞきこみ、
筆をもってあらわした作家です。
代表作「こゝろ」は、タイトルどおり
人間の「こころ」を描いたもの。

プラスチックのような、表面的な美しさではなく、
深く、みにくい面を著していますよね。

高校時代に教科書で読んでショックを受けましたが、
全然読めてなかったなーと今にして思います。
(今は確か、教科書に載らなくなったんですよね
 少し残念な気がします)

「いざといふ間際に、
 急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」
 

とありますが、
ないものは出てこない。
人間はみな、自己中心な心を持っている。
だから「いざ」という時、かくしていたはずの
本性が出てしまうのでしょう。

ここで大事なのは「あ、あの人もそんな心を持ってる」と
目を外に向けるのでなく、自分に向けること。

それは後ろ向きな考え方とは違う。
ありのままの真実を見つめることはとても大事なことなのです。




★夏目漱石の記事

 夢の間に製造した爆弾

「こゝろ」に見る漠然とした不安

呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする

>行人

>勝って満足した人は一人もいない


 

      

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