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今日3月6日は菊池 寛(1888-1948)が亡くなった日です。
※菊池寛 小説家・劇作家。
『文藝春秋』を創刊し、親友の名を冠した「芥川賞・直木賞」を創設する。小説家協会の設立者でもあり、作家の地位向上に尽力した
彼は「不幸のほとんどは、 金でかたづけられる」と言ったそうです。
そんな菊池寛の一生を振り返ってみましょう。
明治二十一年、香川県高松市に生まれる。
維新で家禄を失った元士族の父は、小学校の庶務係をしていたが、一家は貧しかった。教科書が買えず、菊池少年は、友達に見せてもらって筆写したと伝えられる。
十七歳のころには、図書館の蔵書二万冊をほぼ読み尽くし、学校の成績も上位だった。文学を志し、二十歳で東京高等師範学校へ進むが、無断欠席が理由で除籍される。
苦労して入学した第一高等学校(現・東京大学)も、友人の窃盗の罪をかぶり退学、人生に虚無感を抱いたという。
同情した同級生の父の経済的援助を受け、京都帝国大学に入学、一高で知り合った芥川龍之介に誘われ、同人雑誌『新思潮』に戯曲を幾つか発表する。しかし、ほとんど注目されなかった。
二十八歳で卒業し、東京で新聞記者と創作の二足のわらじを履くが、知人宅に居候の身で、少ない給料の半分を実家に仕送りし、主人のお古の洋服を着ていた。
菊池は考えた。高尚な理想や思想もいいが、ちゃんと生活できなかったら、意味がない。
貧苦を脱する第一歩は、金持ちの娘との結婚だった。故郷で見合い相手を募集すると、秀才の誉れ高い菊池に五、六人が応募した。菊池は、持参金の額だけで相手を決めた。
翌年、長女が生まれると、一家の主としての責任を感じ、猛烈な勢いで作品を発表する。それらが評価され、やがて新進作家としての地位を確立し、原稿料はうなぎ登り。
同じころ、夏目漱石門下の久米正雄が、漱石令嬢との大失恋で苦しんでいた。芥川ら仲間が、しんみりと同情する中、菊池だけが、こう言ってのけたという。
「久米の失恋なんかそんなに大したものじゃないよ。金さえ入りゃかんたんに片がついてしまうよ。(略)この際、久米にとって一ばん必要なのは原稿料だ」(江口渙「その頃の菊池寛」)
このように「生活第一、芸術第二」の人生を歩んでいったのです。
大正八年(31歳)、創作一本の身となり、翌年、新聞小説『真珠夫人』を始めた。
「清貧なんてこりごりだ」と言い、芸術的価値よりも"売れるもの"を目指したのである。主に女性読者の圧倒的支持を受け、掲載紙は部数を三倍に伸ばし、連載半ばにして異例の舞台化が決定する。劇場はどこも大入りの熱狂ぶりで、菊池は一躍、時代の寵児となる。
しかし、「成り金作家」と陰口をたたく者も増え始め、自由に反論できる場として大正十二年、雑誌『文藝春秋』を創刊する。芥川や川端康成などの錚々たる執筆陣ながら、定価は、うどん一杯分の十銭。破格の安さで、三千部から始まり、四年目には十一万部発行を記録する。菊池の個人所得もむろん、作家のトップクラスだった。
"文壇の大御所"の地位を不動にしたが、「生活の安定」「金がすべて」という青年期からの考え方は変わらなかった。絶頂期の大正十二年、関東大震災で感じたことを、こう書いている。
「人生に於て何が一番必要であるかと云うことが今更ながら分った。生死の境に於ては、ただ寝食の外必要のものはない」(「災後雑感」)
昭和十六年、太平洋戦争が始まると、『文藝春秋』で戦意高揚に努めた。軍部に逆らわず、生活を守るためという発想だったのだろうか。それが災いし、敗戦後、戦犯としてGHQから公職追放令が発せられた。
翌二十三年、失意のうちに狭心症で急逝。六十年の生涯だった。
「人生恋すれば憂患多しと 恋せざるも亦憂患多きを」
生前、色紙に残した言葉である。心の奥底では、金で解決できない苦しみに、終生、おびえていたのかもしれない。