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2005.10/22開設

贈与としての現代詩―汝の喪失とモノの快楽―

2006年05月03日 23時05分27秒 | 好きな詩と詩論抄
贈与としての現代詩
―汝の喪失とモノの快楽―


 「金で買えないものはない」と豪語していた青年起業家を、軽薄に拍手していると、あっけなくお上が捕まえてしまった。彼だって、街の本屋さんで買えなかったモノがあるだろう。私どものつつましい詩集である。
 原稿用紙二枚の制約で、現代詩とは何かを、その多様な内容からは答えにくい。が、流通のフォルムから述べると余ってしまう。「贈与」とその返礼の往還として、現代詩は存在している。つまり消費の時代に、市場の流通から現代詩はほとんど閉め出されてしまった。
 誇り高い詩人の側からいうと、詩とは値段などつけられない。かくして詩の現在は、その値打ちの分かる詩人の間を、詩が往還することでなりたっている。読み手は書き手であり、書き手は読み手であり、両者はほぼ同数である。純粋な読者はいない。最近流行のブログの詩まで、「読みました―読んでください」というような、往還の現象としてある。
 売れないことは致し方ないことだが、その理由は知っておいたほうがよいだろう。
 マルティン・ブーバーの思想を借りて述べると、近代とは「われ―汝」という世界から、「われーそれ」の世界への移行である。現代詩は「汝」の喪失を哀しむことと、「それ」(商品・物・情報)の獲得の快楽の間で引き裂かれている。日本の詩の歴史にあてはめると、四季派の抒情詩の流れが前者をモチーフにし、モダニズムから戦後の言語派の流れが後者をモチーフにしてきた。詩の表層の様々な意匠をはがしてみると、いわゆる「近代の超克」を言葉で行うことを、私どもの自由詩は無意識的に強いられている。現在がいつまでも戦後であり、同時にいつも戦前であることを知っているわけである。エンターテイメントを求める人々に、面白いはずがない。
大切なことは書き続けることだろう。もっと大切なことは読み続けることだろう。そう自分を励ましながら、少しは面白い工夫もして、誰も買わない詩どころか、誰も読まない詩を今日も書いている。

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