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2005.10/22開設

荒川洋治「詩とことば」

2005年12月22日 13時30分26秒 | 好きな詩と詩論抄
  「詩と散文」

「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこももある。(中略)
 散文そのものが操作、創作によるものなのだ。それは人間の正直なありさまを打ち消すもの、おしころすものだから、人間の表現とはいえないと思う人は、散文だけでなく詩のことばにも価値を見る。(中略)
 散文は、果して現実的なものなのか。多くの人たちに、こちらの考えを伝えるためには、多くの人たちにその原理と機能が理解されている散文がふさわしいことは明らかだ。だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない。ぼくはそのように思いたい。

 (以上は岩波書店から発売されたばかりの荒川洋治著「詩とことば」p.42から引用させていただきました。「詩と散文」としたのは、僕が仮につけた表題です。
 僕自身と見聞きする経験から云うことですが、詩を書き始めた人々は、まじめであるほど、およそ一年で「詩とはなにか?」というような原理的なことで行き詰ってしまうことが多いと思います。そのときに最適な、詩をほんとうに愛する数少ない詩人の一人、荒川さんのこの本を、お勧めします。「現代詩手帳」「詩と思想」など月刊の詩誌や同人誌では、あいかわらず「あれは詩ではない、我等のこれこそが詩である」と異質なものの排除と仲間褒めで、貧しい現代詩をより貧しくしている傾向があります。ほとんど読み手を失っているなかで、それでも本気で詩をやっていく人には荒川さんのこの本が強い味方になるとおもいます。
 さて、僕が詩を書き始めた契機の一つに、日常生活をほぼ全面的に支配している「散文」にたいして怒りに近い深い「懐疑」のようなものがありました。多少図式的になりますが、散文には近代市民社会を成立させている形而上学的な土台があると思います。本来なら二律背反の人間の「自由」と世界の「因果律」です。現在では科学文明の成果をまのあたりにして、無批判にうけいられている、いわばわれわれの共有する「神学」になっているように思います。‥‥ということを書いていくと、ますます僕は原理的においつめられていきます。というのは、散文で反散文的な自分の論理を展開していくからです。(笑)
このように詩を書く以外どうしようもない人が、めったに読まれないことを覚悟しながら、ひっそり書いて、ますます貧乏になってゆくものが詩なのかもしれませんね。(2005.1月記)

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