アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

元寇は侵略ではない?だったら何!

2011年11月26日 | Weblog
 「12メートルの竜骨が見つかった」…一瞬、何が何だか分からなくなりました。「竜」は想像上の生き物…骨が見つかるはずないだろう!?えっ?ブータン国王は竜を見たと言っていたって?それは、心の中の竜の話ですから!
 生薬に、「竜骨」というものがありますが…12メートルの生薬はない。
 「竜骨」は、船舶構造材ということで…元寇の沈没船が、長崎県松浦市の鷹島付近で見つかった。マジスカ?と思わず声を出してしまいましたよ。泥に埋まった竜骨(キールと呼ぶのだそうで)の長さは12メートル。竜骨からの推定で、全長20メートルを超える大型船であったらしい。その船が神風で沈没したのですから、神風って凄かったんですねえ!

 1281年「弘安の役(二度の元寇の二度目のこと)」では、元軍の艦隊が鷹島に集結した。元軍は朝鮮半島を出た「東路軍」と中国浙江省寧波(ニンポー)を出た「江南軍」に分かれていた。両軍は平戸島の沖で合流した。計4400隻の船団に将兵14万人。

 朝青龍や白鵬みたいな男が、14万人ですから…これは、ニッポン危うしですよ。当時の日本は鎌倉時代で、文永の役(一度目の元寇)のときも弘安の役のときも執権は北条時宗。モンゴル帝国のほうは、皇帝フビライでした。
 マルコポーロも、当時モンゴルに滞在していました。東方見聞録に、「元が日本を襲撃したが、台風によって壊滅したため退いた」と、書かれています。(東方見聞録は、イタリアに帰国してから、1292年に著した)

 二度にわたる元寇…これって、「侵略戦争」…じゃないのか?なぜそんなことをいうかというと…、
 「モンゴル軍との戦いの後、北条時宗は、日本人、モンゴル人を問わずに、戦死した人々を供養した。しかし、二度にわたる元寇は侵略戦争ではなかったため、鎌倉幕府は防衛にあたった武士たちに十分な恩賞を与えることができなかった」
 このような書き方をした本があるものですから…。どの本かって?いちいち記憶しておりません。「侵略戦争ではない」…では、元寇って何?「侵攻?」「遠征?」どちらにしても、侵略ですよ。北条時宗がどんな解釈をしたかは分かりませんが、単に鎌倉幕府にお金がなかったというだけの話じゃなかったのか?その後、鎌倉幕府の統治能力が急速に衰えていったところから当たっているかと。

 竜骨については、先に博多を攻めた東路軍(4万)の船は竜骨がない船だったという。東路軍は、太宰府の「防塁」に阻まれ上陸できずにいるうちに、日本軍の猛攻を受けて沖合へ撤退。そのあとは、10万人の江南軍が竜骨がある船で登場。
 長崎県鷹島付近で見つかった竜骨は、江南軍の船のものだということが分かります。

 ここで台風のため、東路軍、江南軍の4400隻が壊滅。次々と沈んだ。竜骨があるということは、復元力がかなり高いと思われるが…台風の場合、むしろ、竜骨なしのほうが波にもてあそばれるけど転覆しづらかったりして。素人が勝手なことを書くなって?お言葉ですが、小型船舶2級を持っています。過去に、遭難しかけたけど生還した経験があります。これは、自慢にならないか…。

 閑話休題。「モンゴル軍の船は粗製濫造だった」という説がありますが、正しいと思います。諸説の中には、停船の際の間隔をとらなかったので、船同士が衝突したというのもある。これも正しいでしょう。つまり、複合的な原因で船が次々と壊れていった。

元寇に関わる本は、日本にとってハッピーエンドであることが分かっているので、安心して読めてかつおもしろい。白石一郎「蒙古襲来 海から見た歴史(講談社)」、佐伯弘次「モンゴル襲来の衝撃(中央公論新社)」、加来耕三・水谷俊樹「蒙古襲来 歴史を変えた日本の戦い(ポプラ社)」などなど。
 だが、「蒙古の侵略戦争」という名の本を見つけることはできない。なぜ?時宗が考えたとおり、元寇は侵略ではないのか?…勝手な想像を、ふくらませ放題ですなあ!
 なぬ?「寇」は強盗行為の意味で、(国権の発動たる)戦争のことではないだって?…勝手な解釈するなーっ!