人だすけ、世だすけ、けんすけのブログ

愛知13区(安城市・刈谷市・碧南市、知立市、高浜市)
衆議院議員 おおにし健介

元富士櫻、中村親方

2010年05月20日 | 日常
 私の地元刈谷の方が大相撲の中村部屋の後援者というご縁で、中村親方(元富士櫻)と一緒に、新小岩の「すま」でちゃんこをご一緒させていただきました。

 現役時代の親方は、小柄ながらも、突き相撲で相撲ファンを魅了し、昭和天皇も富士櫻の取り組みを好まれたそうです。

ウィキペディアには、富士櫻について、次のような興味深い記述があります。
 昭和天皇も富士櫻の土俵を好んだという。同じ押し相撲の麒麟児との対決は特に人気があり、東京場所では天覧相撲用のとっておきの割として重宝された。中でも1975年5月場所の8日目、東小結麒麟児対西前頭筆頭富士櫻の一番は、激しい突っ張りの応酬となった。富士櫻の口の中が切れるほどの激戦で、昭和天皇も身を乗り出し固唾を呑むように勝負の行方を見守った。2003年に日本経済新聞が掲載した「大相撲の名勝負ベスト10」で第5位に選ばれたこの一番を富士櫻は落としたが、思い出に残る相撲としてこれをあげている。
 四つに組むと弱い小柄な力士であったが、人一倍稽古に励み関脇にまで昇進した。その稽古熱心は師匠の砂親方がやめろと言わない限りいつまでも稽古するため、他の力士が「もっと稽古せんか」と注意される中で彼だけは「稽古熱心もいい加減にしろ」と注意を受ける程だったという。同部屋で、同じく関脇まで昇進した高見山との三番稽古は高砂部屋の名物であり、若い衆にとっては、そばで2人の稽古を見ているだけでいい勉強になるといわれた。富士櫻の稽古熱心ぶりを伝えるエピソードであるとともに、稽古の質の高さも伺わせるものである。そして負けると「まだ稽古が足りない」と言って稽古量を増やしていた。そのような力士であったため、角界きっての毒舌家として今でも名高い天竜三郎や玉ノ海梅吉が「あれほどの力士はいない」「富士櫻を褒めないわけにはいかない」と絶賛したほどであり、特に角界ナンバーワンの毒舌家だった天竜から褒められた力士は数多くの力士の中で彼一人である。」

 そんな中村親方ですが、お話をしていて、私が政策秘書を務めた馬淵澄夫国土交通副大臣と知り合いだと言うことが分かりました。副大臣が若い頃から通っているジム「サンプレイ」の宮畑会長と親方は30年来のおつきあいだそうです。世間は狭い。


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