人だすけ、世だすけ、けんすけのブログ

愛知13区(安城市・刈谷市・碧南市、知立市、高浜市)
衆議院議員 おおにし健介

自然は正直

2004年10月31日 | Weblog
 我が家のバルコニーに少しだけだが花を植えている。
 植物の正直なのには、今更のように驚かされる。少し水をやり忘れると元気がなくなるし、向きによって陽のあたりが悪いところはすぐに元気がなくなるので分かる。

 永平寺の禅師がこんなことを言っていた。
「毎年、いつ花が咲いたか、いつ虫が鳴いたかを日記につけていると、どんなに残暑が厳しい年でもちゃんと時が来ると虫が鳴き始め。その時期というのは毎年えらい変わりはせん。自然のリズム、宇宙のリズムは偉大や。」
 人間も生き物の一つ、宇宙の一部と考えると、自然のリズムに正直に生きていくのが一番いいんだという教えである。

 私は、これは真理を言い当てていると思う。
 先日は、睡眠障害の治療として、1日決まった時間、目の中に一定の光度以上の光を入れるようにするという実験をテレビでやっていた。正確な数値は忘れてしまったが、必要な光度は室内の明るさでは足りないが、日中の窓際であれば必要な光度を得られるので、なるべく窓際にいくようにとのアドバイスをしていた。
 これは、人間の体内時計が自然のリズム、つまりお天道様のリズムと連動していることの証左であろう。

 少し飛躍するが、何事においても、自然のリズムによって動かされている人間の本性というものを意識することが重要であり、政治のあり方を考える場合も「人間の本性に根ざした政治」というものを意識する必要があるのかもしれない。

 

 

秘書制度の設計図

2004年10月31日 | Weblog
 ある勉強会で、政策秘書制度について、議論する機会があった。現役秘書や元秘書も参加し、短い時間であったが、活発な議論を行った。

 S氏は、政策秘書制度を論じる場合、資格試験合格者とそれ以外の政策秘書資格保持者、政策秘書と他の公設秘書(第一・第二)、公設秘書と私設秘書という諸層があり、どういう括りで論じるかによって、利害関係も異なり、そこが難しいと述べた。
 また、同じくS氏は、たかだか700名足らずの制度であり、その小さい集団がたとえ正論を吐いても自らの既得権益の擁護を主張しているとしか受け取られかねない。戦略論としても、政策秘書制度を立法補佐機構全体のあり方論の中で論じていくべきとの趣旨の発言をしていた。

 私は、S氏の意見に賛成である。
 ただし、政策秘書制度を論じる場合、立法補佐機構全体のあり方を論じることは避けては通れないが、そうなると整理がつかなくなる。
 私自身、自分の考えが整理しきれていないが、次の3つに分けて考えてはどうかと考える。
1.現行の政策秘書制度を基本にした改善策。
2.私設秘書を含めた秘書の労働環境をどうしたら近代的なものとできるか。
3.立法補佐機構全体のあるべき姿とは。

 1.については、あくまで対処療法、こうすれば、今よりましになるのではという案である。O氏は、政策秘書については勤務地を議員会館に限定すべきと述べていたが、それも一案だろう。
 1.で少し大胆な改革案としては、認定による政策秘書は、あくまで制度発足に伴う経過措置であり、試験による資格保持者以外は認めないこととする。その一方で、試験による資格保持者を政策秘書として採用しない議員には、第二秘書1名を代わりに採用することを認めるというもの。
 現在、試験による資格保持者を政策秘書として採用しているのは、全体の約1割である。議員の定数は、減ることはあっても増えることはない中で、毎年新たな試験合格者を出していけば、採用への途はますます狭くなっていく。そのことを反映してか、近年、試験の受験者は減る傾向にあると聞く。

 2.公設秘書は、特別職の国家公務員である。しかし、ただ特別職国家公務員であるということが謳われているだけで公務員としての身分保障はない。秘書には、労働法規による保護もないのが実態であり、私設秘書に至ってはきわめて劣悪な環境に置かれている現実がある。米国でも議会スタッフは「最後のプランテーション」と呼ばれていたことがあるようだが、ある程度は仕方ないとしても現状は最低限の保証もない状態といえる。労働協約の整備、不当な解雇等に対する苦情申し立て制度の創設等何らかの措置が必要であり、この点においては、施設も含めた秘書全体の問題として取り組むべき課題であろう。

 3.は、大きな課題であり、中長期的な課題であるが、最終的にはここまで含めた改革なくしては、この問題の解決はないだろう。この点に関しては、個人的には、政策スタッフというのは、個人にではなく、政党につけるべきであると考える。今後の進むべき方向を見極めていく必要はあるが、マニフェスト選挙に代表されるような政党本位の政治システムを目指す流れとも整合的である。私個人の意見としては、議員個人のスタッフについては、かならずしも政策立案能力を問う必要もないし、また、身分保障も多少緩やかでもしょうがないのではないかと思う。現実に、私設秘書に関しては、現状は、労働環境が厳しいにもかかわらず、人材の供給はある。それは、市議や県議を目指す野心抱く者に代表される人々は、修行と思い厳しい条件に耐えるからである。かく言う私も、もっと国会職員だったと言うと「何で秘書になんかなったの、そのままいた方がよかったんじゃない?」と言われるが、私が秘書になったのは、金のためでも、政策がやりたいからでもないので、私は、多少理不尽なことがあっても耐える覚悟をしている。米国議会でも、議会スタッフの待遇というのは必ずしもよくないが、私がワシントンで出会った若い議会スタッフの多くはとても野心的で、また、彼らは、キャピタル・ヒルでのキャリアを活かして、別のフィールドで経済的な
利益を得る道も開かれている。その点では、日本でも政策市場での人材の流動性が高まれば、リスクを侵して秘書をやることのハードルも少しは低くなるかもしれない。
 立法補佐機構全体の中で、政策秘書制度をいかに位置づけるかということに関して、衆参両院事務局、国立国会図書館、政党政策スタッフ横断的な国会統一試験という提案があった。行政府では、人事院で統一試験をしており、省庁間の人事交流を行っていることを意識したものだが、一考に価するのではないか。

 S氏からは、政権交代が実現した場合に、現行の官僚機構とは別に新たに政権の座につく政党が連れて行ける政策人材のバックアップの必要性の指摘があったが、ここまで考えると、話は、シンクタンク論にも及ぶ。

 いずれにしろ、一朝一夕には解決策を見出せない問題であるが、当事者だけでなく、よりオープンな議論が必要と感じる。
 





オーラル・ヒストリー

2004年10月28日 | Weblog
 27日、東京大学先端科学技術センターの御厨教授がオーラル・ヒストリーについて講演されると聞いて、構想日本のJ.I.フォーラムに行ってきた。
 オーラル・ヒストリーとは、歴史の証人である当事者から、専門家が口述記録を録ることで、文書による記録では明らかにならない事実や暗黙の了解のような部分を明らかにし、後世に伝えていこうとするものである。

 私は、以前からこのオーラル・ヒストリーに関心を抱いていた。
 私は、ワシントンの大使館に勤務していた時、米国議会を担当していたが、アメリカ上院には、Historian Officeという部署があり、そこでオーラルヒストリーを行っているのを知り、関心を持ったのだ。
http://www.senate.gov/pagelayout/history/g_three_sections_with_teasers/oralhistory.htm
 私は、国会職員として、本会議の運営を担当したこともある。
 議会運営というのは、国会法、議院規則、先例等に則って行われる。合議制機関であることから、特に先例が重視されるのが他の組織とは違った特徴である。
 先例には、例外がつきもので、わざわざ「先例とはしない」と断った上で行うことも多々ある。
 実際の会議運営は、先例として確立し「先例録」に収録されたもの以外に、さまざまな事例を参照しつつ行われる。従って、議院事務局では、無数の事例を蓄積し、日々更新している。
 ところが、それらの事例のデータを見ただけでは、どうして結果がそうなっているのかが分からない場合がよくある。そんな時、課に十年戦士のベテランが職員いて聞くとすぐに謎が解ける場合もあるし、同じ条件なのに違う対応をしていて古い記録をひっくりかえしても最後まで分からない場合もある。
 そのような経験から、米国議会の上院でオーラル・ヒストリー・プロジェクトが行われていることを知って、日本の国会事務局でもこれを行うべきと考え、以来、オーラル・ヒストリーに関心を持ち続けている。
 特に、議会運営においては、与野党が激突する「不正常」と呼ばれるような場面で、様々な水面下の交渉が行われるが、それは一部の人間にしか明らかにされず、結果だけを見たのでは、後になってその意味を正確に捉えることが困難と思われることが多々ある。
 例えば、先の通常国会では、年金改革関連法案をめぐる与野党の対決の中で、副議長による散会宣告とその無効宣告という前代未聞の事件があったが、これについても「秘中の秘」とされた議会戦術に関わる詳細な背景等は今も不明な部分が多い。後世のために、関係者の証言を整理しておくべきである。

 ディスカッションの中で、御厨教授がインタビュアーの3つの心得を紹介していた。
①評価をしない、②要約をしない、③うなずいたり、あいずちを打ったりしすぎない、
だそうだ。
 特に、②の要約しないというのが、「なるほど」と思った。
 「つまり、あなたの言いたいことはこういうことですよね」とともするとインタビュアーは、まどろっこしい話を要約したがる傾向があるが、行きつ戻りつ、まとまりのない話そのもの、その内心の迷いの顕れ、そこに真実があるということだ。

 今後の我が国におけるオーラルヒストリーの展開に期待したい。 

「世界の中心でリフレを叫ぶ」

2004年10月26日 | Weblog
 ある人を介して、うちの代議士とリフレ派と呼ばれる気鋭の若手経済学者の方々の間で親しいおつきあいがある。
 経済学になじみのない方の中には「デフレやインフレというのはよく聞くがリフレって何?」というかもしれない。手元の辞書を引くと、

リフレーション【reflation】
デフレーションから脱し、しかもインフレーションにまで至ってない状態。不況における物価下落を正常水準まで引き上げて生産を刺激し、景気を回復させることを目的とした計画的な通貨膨張政策。統制インフレーション。リフレーション政策。
とある。

 これだけ読んだだけでも、現在の日本経済の抱える問題を言い当てているようにも聞こえる。
 ところが、小泉政権の経済政策(とはたして呼べるのか)は、「構造改革なくして景気回復なし」を金科玉条としており、「マクロ経済政策は構造改革を先送りさせるにすぎない」として、リフレ派の主張というのは、受けがよくない。
 リフレ派は、構造改革そのものを否定しているわけではなく、構造改革はサプライサイドの効率性改善策で、わが国の長期停滞の原因は、バブル崩壊後の資産デフレに端を発するマクロ的な総供給に対する総需要の恒常的な不足にあり、今求められているのは、マクロ経済政策と金融政策であると主張しているだけなのに、マスコミからも公共事業誘導型の積極財政派と同列のように取り扱われて、誤解を受けている。
 リフレ派の学者たち方でも「経済学の教科書にも書いてあるような当たり前のことを主張しているだけなのに、どうして正当に評価されないのか」とフラストレーションがある。
 そんな中、「俺たちも自分たちの立場をもっと世の中にアピールしていかなきゃなあ」という話の流れで、「本の名前も『世界の中心でリフレを叫ぶ』とかもっと一般受けするもにしたら」という冗談が一人の先生の口から飛び出した。

 冗談はさておき、先般、発表された日銀の短観でも、日本経済は堅調な回復を見せている。日銀の量的緩和政策に対しても盛んに「出口戦略」が語られるようになってきたが、ここでわずかな舵取りを誤れば、またデフレスパイラルに逆戻りという微妙な時期にある。
 だからこそ、政府の適切な経済政策、金融政策というのが求められているのであり、「構造改革!、構造改革!」と念仏のように唱えるだけでは、政府は無策の謗りをまぬかれないだろう。

「三者」?!

2004年10月26日 | Weblog
 うちの代議士がある首長選の候補者を探していた時に、候補者に相応しいのは、「三者」だと言っていた。
 「三者」とは、「若者」、「よそ者」、「ばか者」の三つの「者」のことだ。
 まず、候補者となる者は、改革への情熱とエネルギーを備えた「若者」であること。
 次に、候補者は、しがらみにとらわれず、改革を断行できる「よそ者」であること。
 最後に、候補者は、誰もが無理だと思うことに果敢に挑戦していく「ばか者」であること。
 最初の二つは、客観的な条件だが、三つ目は、主観的な条件で、これが一番難しく、また最も重要な条件である。
 「所詮は勝ち目はないよ。無理、無理。磐石の体制の現職に立ち向かおうなんて、お前は馬鹿か。」と言われても、信念を持って戦いを挑む、そういう腹がくくれた候補者と言うのはそうそういない。
 しかし、周囲が無理と思うことに挑戦し、それを成し遂げてこそ、物事は変わっていくのであり、変革の歴史というのは、「ばか者」たちが築き上げてきたものと言えるかもしれない。
 私は、政治の世界に入ってまだ日が浅いが、ここぞと言うときに、いかに「ばか者」になれるが分かれ目となるような政治の潮目と言うのを感じることがいくつかあった。
 自分もここぞと言うときには「ばか者」となりたいものだ。
 

「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」と「心臓を貫かれて」

2004年10月25日 | Weblog
THE LIFE OF DAVID GALE
 2003年 アメリカ 131分
 監督:アラン・パーカー

をビデオで見た。スリリングなストーリー展開で最後まで楽しめるサスペンスだった。
 この映画では、死刑制度の是非が一つの重要なモチーフになっている。
 死刑制度反対論の有力な根拠の一つである「冤罪に対する死刑は殺人であり、冤罪は必ずある」というのがこの話の重要な鍵になっている。
 死刑制度に対する深い洞察を期待して観ると期待はずれかもしれないが、サスペンスとして楽しむなら、よい作品だと思う。

 この映画で思い出した死刑制度に関係する話で、自分が大きな衝撃を受けた作品がある。

「心臓を貫かれて」
 マイケル・ギルモア/村上春樹 訳
 文春文庫

 この本の著者、マイケル・ギルモアは、自らの銃殺刑を求めて、全米中に死刑制度の是非をめぐる議論を巻き起こした殺人犯ゲイリー・ギルモアの実弟である。
 当時、ゲイリーはニューズウィーク誌の表紙を飾るなどかなり大きな話題となったようだ。ノーマン・メイラーがこの事件を扱った「死刑執行人の歌」も当時、大変な反響をよんだ。
 しかし、「心臓を貫かれて」は、死刑制度の是非について論じた作品ではない。
 兄がどうして殺人を犯すに至ったかを、実弟がファミリーの暗い歴史をたどりながら解き明かしていくノンフィクションである。
 人間が人間の人生を台無しにしてしまう恐ろしい現実が克明に描かれており、くだらないホラーなんかよりもずっとぞっとする。
 近年、児童虐待に関するニュースが後を絶たないが、虐待が肉体だけでなく、人間の精神を損なっていく過程というのは身の毛がよだつものがある。
 私は、村上春樹が好きで、翻訳も含めて彼の作品のほとんどを読んでいるが、彼がこの本を翻訳しようと思ったのは分かるような気がする。
 村上ファンもそうでない人もぜひ読んでみてほしい。
 圧倒的な事実の力に打ちのめされる作品だ。

「国連改革議員連盟」の設立

2004年10月25日 | Weblog
日本の常任理事国入りを高評価…緒方JICA理事長 (読売新聞) - goo ニュース

 同じ日、国会では、自民党安倍晋三衆議院議員、民主党前原誠司衆議院議員、公明党高木陽介衆議院議員が呼びかけ人となって、「国連改革議員連盟」の設立総会が開かれた。
 議員の中には「日本は国連安保理常任理事国となって相応の役割を果たすべし」という声がかなり高まっている。
 気になるのは、世論はそれについて行っているのかということ。
 また、今日の設立総会でも再三強調されていたが、重要なのは「常任理事国となることではなく、なって何をするのか」である。
 日本は、今回、非常任理事国に選出された。任期中、どのような実績を示せるのだろうか。
 日本が常任理事国にふさわしいということを言葉ではなく、行動で示すことができるか、試金石となる。


「和の訳はrespect」

2004年10月25日 | Weblog
 先日、奈良に縁のある人を中心に集まったとき、奈良を代表するイメージの話になり、聖徳太子の話題になった。
 聖徳太子の十七条憲法の「和を以て貴しとし、忤うこと無きを宗と為せよ」にしめされた「和」の精神は、我が国の精神文化、国家の基本理念の一つであるということで意見が一致した。
 すると、アメリカへの留学経験のあるその場に居た一人が「アメリカ人にいつも和の精神を説明しようとするのだが、どうもうまく説明できない。和の訳をharmonyとすると、どうもしっくりしない。」と言い出した。
 それを聞いた別の人が「和の訳はrespectじゃない」と言い、それを聞いて、一同「なるほど」とうなずいた。

 「調和」という言葉もよい言葉だが、日本のイメージと重ね合わせると、どうも調和を重んじるあまりに自己主張しない日本というイメージがつきまとう。
 これをrespectとすると、それぞれ意見や立場は違っても、互いに尊重しあうという語感が伝わってくる。
 それは、とりもなおさず、民主主義の基礎であり、その精神を1400年も前に我々の先祖が説いていたというのは驚嘆に値する。

「政治とは鎮魂である」

2004年10月25日 | Weblog
 「政治とは鎮魂である」というのは、藤波孝生元官房長官の言葉だが、どこかでこの言葉を見て以来、ずっと記憶に残っている。
 先日、読んだ井沢元彦氏の「逆説の日本史」には、古代日本における怨霊信仰について詳しく説明がされており、奈良の大仏についても、怨霊を恐れる聖武天皇と光明皇后が建立したものとされている。
 怨霊はともかく、教科書でも大仏建立は、当時の疫病の流行等に対して、仏教による「国家鎮護」を目指したものと説明されている。
 国を鎮め、人心を安らかにするというのは、古来、政治の基本である。
 古代においては、現代であれば、科学的な根拠のある疫病の流行や天災を、祟りと考え、そのため、怨霊を鎮めるための方策が様々な形でとられたのである。
 時代が進み、戦国時代には、河川の氾濫等の自然の脅威に対しては、さすがに人知をもってこれに対応しようとするようになったが、治水は領国経営の基本であり、政治そのものであった。
 文明が高度に発達した現代社会においても、いまだ、人間は、台風による水害や地震に脅かされている。
 我々は、もう一度、国を鎮め、人心を安らかにすることこそが、政治の基本であることを肝にしっかりと銘じて、この事態に対処すべきではないだろうか。
 

生き方としての秘書、職業としての秘書

2004年10月25日 | Weblog
 先日、知人の議員から、議員会館で電話番や庶務をする女性が辞めてしまって、いい人がいないか探しているとの相談を受けた。適当な女性を思いついたので、紹介したが、後で話を聞いてみると、どうも事務所のなかでいろいろあって、大変らしい。
 日本では、国会議員の事務所といっても、所詮は「家内制手工業」の世界で、資金力がある有力議員を別にすれば、3名の公設秘書に加えて、数名の私設秘書、ボランティアといった体制で、地元事務所と議員会館事務所を回しているのが実情だ。
 少人数だが、担う責任、プレッシャーというのは大きい。事務所をうまくマネージメントするのは想像以上に難しい。一人が辞めれば、事務所に与えるダメージも大きな組織と違い甚大だ。私の知り合いの議員のように事務所運営に悩みを抱える議員は多いのではないか。
 仕える議員によって差はあるが、秘書には、労働基本権はないと思ったほうがよい。特に、私設秘書は、待遇にも恵まれないことが多い。秘書の立場からすると、政治家の秘書と言うのは、生活の糧を得るための「職業」と考えると、とても割に合わない。何らかの「思い」がなければできない「商売」だ。
 私も同じ秘書として、秘書の立場もよく分かる。しかし、議員から事務所の運営について相談を受け一緒に議論する中で、最近は、雇う側の議員の立場にも同情する。ただでさえ、人を雇うというのは難しいものだが、秘書の場合なおさらである。
 うちの議員は常々「政治家は職業でなく生き方だ」と言っている。だから、それを支える者も職業ではなく、生き方としてこの道を選んで欲しいと言う。
 「生き方としての政治」を選んだ者たちが、本当に信頼できる同志として、スタッフに同じ目線を持って欲しいと望む気持ちも私にはとてもよく分かる。
 しかし、必ずしもそういう人は多くはなく、現実には、家族や住宅ローンを抱えて、「職業としての」秘書という生き方を選らばなければならない人も多いはずである。
 「生き方としての秘書」を強調するばかりに、この世界をいつまでもアウトローなものにしておいてよいのかという考え方もある。秘書は、プロフェッショナルな政策スタッフであるべきという主張も一理ある。
 「生き方としての秘書」と「職業としての秘書」、この二つのバランスをいかにとるかが問題だ。
 この難問に簡単な答えはないが、一つの進むべき方向として、政策市場の流動性を高めていくことが考えられる。
 米国でも、議会スタッフの待遇と言うのは必ずしもよくない。しかし、彼らの多くは、キャピトル・ヒルでの経験をキャリアとし、その後、ロビイ団体等で多額の報酬を得る者もいれば、専門領域での知見を深めシンクタンクやアカデミアに進むべき者もいる、はたまた、政治の世界や政府機関での政治任用への野心を抱く者もある。
 秘書、さらには政治の世界がもっとオープンなものとなり、政策市場での人材の流動性が高まれば、秘書の身分の不安定さというのは、リスクが高い反面、多様なキャリア・パスを開くものと認識されるようになるかもしれない。
 私自身は、安定した公務員の身分を捨て(正確に言うと公設秘書も公務員だが)、秘書になった以上、「生き方として」政治の道を選んだ者の一人であると思っている。
 よくよく考えると、本来、生き方が職業と一致するのが、人間にとって幸福な姿といえるのではないだろうか。「天職」と言う言葉があるが、好きなこと、人生を賭けることができるものを見つけ、それを職業にできれば、そんな幸せなことはないだろう。
 たしかに、リスクはある。しかし、生き方を職業にできる喜びを感じながら、この世界で生きて行きたいと思う。
 
 

 

永田町の風景

2004年10月25日 | Weblog
 千代田区永田町1丁目7番地1は、国会議事堂の住所だ。
 私は、大学を卒業して、国会職員となり、現在は、国会議員の政策秘書をしており、この十余年というものここ永田町周辺に毎日通う生活をしている。
 十年前の春、上京してここにやって来た時は「ああ、ここが日本の政治の中心、永田町かぁ」という感慨もあったし、私にとっても「永田町」、「霞ヶ関」というのは、ある種特別な響きをもった言葉だった気がする。ここを訪れるお客の多くも、ここかしこに警官が立ち、黒塗りの車が往来する雰囲気を独特と感じるようだ。
 しかし、不思議なもので毎日通っていると、どんな独特の風景も日常の見慣れた風景となり、生活の一部となる。
 今日も窓から議事堂が見えているが、澄み切った秋空に映える議事堂の姿というのは、改めて見るとなかなかのものだ。
 もう少しすると、議事堂と議員会館の間の銀杏並木が黄金色に色づく。それはまた見事なものだ。毎年、この銀杏を見ると「金色の小さな鳥の形して銀杏散るなり夕日の丘に」という教科書に載っていた歌を想いだす。ただ、厄介なのは、大量の落ち葉と道に落ちた銀杏の実。銀杏の放つ独特の臭いもご愛嬌というところか。
 私は、アメリカのワシントンDCにいたことがある。DCでは議事堂のある辺りをCapitol Hillと呼ぶが、これは、文字通り議事堂のあるところが少し小高い丘になっているからだ。永田町という地名に特別な意味をこめるのは、むしろ英国の首相官邸がある「ダウニング街10番地」の使い方に近いかもしれない。
 ちなみに、この周辺が「永田町」と呼ばれるようになったのは、明治になってからのことらしい。一説には、江戸時代この辺りに旗本の永田伝十郎及び永田一族の屋敷があったためと言われているが定かでない。
 これから、ここ「永田町」で日々思うことを徒然なるままに記して行きたいと思う。