人だすけ、世だすけ、けんすけのブログ

愛知13区(安城市・刈谷市・碧南市、知立市、高浜市)
衆議院議員 おおにし健介

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【書評】やなせたかし 明日をひらく言葉

2012年09月06日 | 書評
「やなせたかし 明日をひらく言葉」
 PHP研究所編/PHP文庫


なんのために生まれて
なにをして生きるのか


この哲学的問いかけは、なんとアンパンマンのマーチの一節です。
幼児向けのアニメの主題歌アンパンマンのマーチの詩は、あらためて読み直すと、本当にいい詩です。
東日本大震災の時に、ラジオ番組に、アンパンマンのマーチのリクエストが殺到し、多くの被災者が勇気づけられました。

新幹線の駅のキオスクで偶然、手にしたこの本を読んで、これを作詞したアンパンマンの作者で漫画家のやなせたかしさんが詩人でもあることをはじめて知りました。皆さんは、子どもの頃に誰もが歌ったことのある「てのひらを太陽に」の作詞もやなせさんだと知っていましたか。

未熟児で生まれたやなせさんは、幼少期は劣等感に悩み、実はアンパンマンがブレイクしたのは、70歳の頃だそうです。「なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!」という詩には、やなせさんの懊悩が表現されています。
その一つの答えがこんな言葉として表れています。

人間が一番うれしいことはなんだろう?
長い間、ぼくは考えてきた。
そして、結局、人が一番うれしいのは、
人をよろこばせることだということがわかりました。
実に単純なことです。
ひとはひとをよろこばせることが一番うれしい。


私は、これはいい言葉だと思います。たとえば、一所懸命、料理を作って、「おいしい」と食べて、よろこんでくれる人の笑顔を見るのがうれしい。自分の仕事を通して、人をよろこばし、幸せにする、これは、人生の究極の目標かもしれません。

アンパンマンは、正義のヒーローです。やなせさんは「アンパンマンは世界最弱のヒーローだ」と言います。やなせさんの正義についての考え方がまたこれがいい。

悪人を倒すことよりも、
弱い人を助ける。
ぼくが望む正義は、それほど難しことではないのです。


アンパンマンは、自分の顔をちぎって人に食べさせる。
本人も傷つくんだけれど、それによって人を助ける。
そういう捨て身、献身の心なくしては
正義は行えない。


人をよろこばせることが人生の目的、身を捨ててもで弱い人を助ける、いずれも政治家として肝に銘じたい。

【書評】潜行三千里

2012年07月28日 | 書評
「潜行三千里」 
元大本営参謀 辻 政信 著
毎日ワンズ 刊


 新聞に広告が載っていたのを見て、興味をそそられ手にした。著者は、作戦の神様と言われたスター参謀で、戦後は、連続四期衆議院議員を務め、参議院議員をしていた時に、東南アジアで行方不明となっている。

 辻参謀の潜行と日華合作の工作については、かなり美化されているものと思われるが、事実は小説よりも奇なりで、冒険譚として十分に読み応えがある。ただ、一番、強い引用を受けたのは、戦勝国、中国の国民党政府の内部の腐敗ぶりについての記述だ。
 私は、当選後も何度か台湾を訪れているが、台湾では、現在も日本人が比較的、尊敬されている。それは、日本の敗戦後、大陸から来た本省人、国民党政府の腐敗と横暴ぶりがあまりにもひどかったことによる。比較的不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、台湾人たちは「犬去りて、豚来たる」(犬 [ 日本人 ] はうるさくても役に立つが、豚 [ 国民党 ] はただ貪り食うのみ)と揶揄したと言われる。

 辻は、日本が中国での占領政策に失敗したのは、中国民族の心理や歴史を理解しなかったことにあると指摘をしている。辻は、国民党国防部に潜行して日中合作を工作を行ったが、夢破れ、こう記している。
「中国四千年の歴史は、いずれの時代においても民衆の希望いかんにかかわらず権勢を争う集団の、個人の闘争史である。野心家が武力を駆使して、天命を勝手に作って王位をうかがう歴史の連続である。」
「赤い中国と白い中国と、二つの世界が対立し抗争するものと考えるのは、ホワイトハウスの見方であろう」
「上等兵は小学校を卒業しただけのせがれであるが、『なぜ中国は二つに分かれて戦うのか』と質問したらニコニコ笑いながら答えた。『有両個人、要一個東西』(二人の人がいる。一個のものを欲しがるからだ)と、日本のお客の無知を軽く笑うかのように無造作に答えた。これはまさに図星であろう。」
「中国の問題は中国人の良識に委す以外に解決の手はない。夫婦喧嘩は犬も食わないはずだ。手を出したものは必ず失敗する」

 重慶市党委書記を解任された薄煕来氏の失脚と粛清を見ていても、この中国政治の歴史を貫く激しい権力闘争の構図というのは現在も変わらない気がする。

【書評】トラオ 徳田虎雄不随の病院王

2012年07月06日 | 書評
「トラオ 徳田虎雄 不随の病院王」
 青木 理 著
 小学館 刊


 「週刊ポスト」に連載された記事を加筆・修正したものだが、週刊誌に連載されていた時にも気になっていたが、読んでいなかったので、手に取った。

 私は、子どもの頃から伝記が好きだ。また、(こう見えて?)人間が好きだ。だから、政治をやっている。政治や選挙は、人間が好きな人でないとできないと思う。過去にも、時々、世襲議員が「自分はこの世界には向かない」とあっさり引退してしまうことがあるが、政治家はとにかく人に会うのが仕事だ。人間の本性がむき出しになる政治や選挙は、人間好きな人でないと、嫌でしかたないだろうということは想像がつく。私の周囲にもとにかく面白い人、普通にサラリーマンをしていたのでは絶対会うことがないような個性的な人がたくさんいる。そして、そういう人々に支えれれている人も普通ではない人が多いかもしれない。私は、そういう「濃い」人々の中では、すごくノーマルだと自分では思っているが、うちの家内に言わせると「あなたも十分に変わっている」と言うが、そういう私と結婚する家内も人のことは言えない。

 話はそれたが、徳田虎雄氏は、そういう「濃い」人が多い政界の中にあって、まちがいなく、群を抜いた奇人、怪人と言える。「保徳戦争」と呼ばれる保岡興治代議士との激しい選挙戦や日本医師会との対立をめぐるエピソードには、常識人からすると眉をひそめたくなるような話も枚挙に暇がない。一方で、ALSという不治の病を患う徳田氏に涙を流す石原都知事や絶対の忠誠を誓う徳州会グループの人々のように徳田氏のエネルギーとその人間的魅力に惹きつけられる人も多い。そして、全身の筋肉が動かなくなって、眼球で意思を伝えることしかできなくなった今もなお、巨大、病院グループの経営を実質的に差配し、普天間移設問題でもその存在感を示すというのは、まさに、怪人と言える。

 私も、どちらかと言うと、こういう「濃い」人に魅かれるところがある。健康で、衆議院議員をされている時に、一度、お会いしたかったものだと思う。

 かつて、私は、小沢氏についても似たようなことを書いたことがあるが、政治をやっていると、目的と手段の関係と言うことを考えさせられる場面がある。「目的のためには手段を選ばない」という表現があるが、政治の世界は「結果がすべて」とも言われる。きれいごとを言っていても、選挙に落ちたら終わり、政権をとらなければ理想や政策も実現できない。一方で、権力奪取は、あくまで、理想の実現のためであり、それを失ったしまっては、政治家は、政治家ではなく政治屋に成り下がってしまう。「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の世代を考える」という言葉もある。

 この点、本書のエピローグで徳田氏の秘書が興味深いことを語っている。

 「理事長の場合、目的が正しければ、その手段もすべて正しいんです。一般的には間違っていると言われるようなことでも、正しい目的を成し遂げるためなら、そのために使った手段もすべて正しくなてしまうんですよ(笑)」

 もちろん、私はこの徳田イズムを全面肯定はしないが、こう考えると、徳田氏の奇行や常人には理解しがたい行動もある部分で筋が通っているようにも思えてくる。そして、徳田氏にとっての目標は、徳之島に生まれ育ち、病気で弟を失った原体験と「命だけは平等だ」というスローガンの下に、困っている人を救うために、離島に、そして、世界中に病院をつくることであり、政界進出もその手段だったのだ。

 

「木村雅彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

2012年03月29日 | 書評
 700頁の大作ですが、読み終えるのが惜しいくらい面白かった。
 「昭和の巌流島」と言われた力道山との一戦に敗れた柔道家、木村雅彦の数奇な人生に迫った渾身の書。本書の中には、いくつかのテーマがある。

 一つは、日本の柔道の歴史である。現在の日本の柔道は、講道館柔道とイコールである。しかし、柔道の源流は、武士が刀が折れても敵をねじ伏せる組討から発展した古流柔術にある。また、戦前、旧帝大を中心とした高専柔道の全盛期が寝技の発達をもたらした。しかし、戦後、GHQが武道を禁止したことで、講道館を中心にスポーツとしての柔道の発展がはかられ、現在の日本の柔道は一民間道場である講道館の独占状態になっている。そうした中で、古流柔術や高戦柔道の流れを汲む柔道家、木村雅彦の名は、戦前、13年連続日本一、天覧試合を制覇し、「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と最強を謳われたにもかかわらず、柔道の正史からは消されているのである。さらに、昨今の総合格闘技ブームの中で注目を集めるグレーシー柔術に日本柔道が与えた影響やプロレス草創期の歴史、極真空手の大山総裁についての記述も興味深い。
 柔道のスポーツ化は、時代の流れの中でしかたがないことだったのかもしれないが、本書に出てくる木村や師匠の牛島辰熊らの柔道家は、サムライである。この春から武道の必修化が始まるが、柔道の底流にある武士道精神について考えさせられた。
 さらに、「歴史」とは、勝者によってつくられるものであることを痛感した。

 二つ目のテーマは、敗者の生き方である。最強の柔道家と言われた木村が力道山に一方的につぶされたことで、転落していく。一方の力道山は、国民的英雄になるが、暴漢に刺されて、この世を去る。木村は、「負けたら腹を切る」という武道家としての矜持を持っていた。木村は、一時、力道山を殺して、切腹することも考えたと言われている。タイトルにあるように「なぜ、木村は力道山を殺さなかったのか」、なぜ、木村が簡単に負けたのか、本書は、その真相に鋭く迫っていく。力道山が殺された時、木村は「念力で自分が殺した」と言ったそうだ。木村がどんな思いを胸に抱いて、その後の人生を送ったのかを考えると胸をしめつけられる。

 三つ目のテーマは、師弟関係。「鬼」の称号を持つ柔道家、牛島辰熊は、自らが制することができなかった天覧試合を勝つために、木村を見出し、全身全霊で自らの分身として木村を育て上げる。戦争という時代を経て、師弟関係に微妙な亀裂が入るが、その後もこの師弟の関係は生涯、特別なものだった。木村が同じように岩釣兼生という弟子を育てたことも因縁を感じる。

 うまく、面白さを伝えられないのが悔しいが、絶対に面白いので、興味がある方は、ぜひ、読んでみてください。
 

【書評】AKB48の経済学

2011年08月04日 | 書評
「AKB48の経済学」
田中秀臣著/朝日新聞出版


 著者の田中先生は、リフレ派経済学の論客でありながら、韓流ブームの論評等などマルチな活躍をされています。私もモーニング娘までは分かりますが、AKB48になると正直、ついていけてませんが、本を読んで少し興味がわきました。
 サブカルチャー論として、アイドル論として読み易く面白かったです。
 
 経済学という点で言うと、アイドルは、世相や社会経済を反映しており、AKB48が象徴する「心の消費」、「嫌消費」が、若い世代が人間形成期に経験してきたデフレ不況に起因していることを指摘しています。つまり、デフレ経済が人々の行動パターンに影響し、長引く不況の下で身についた消費行動が日本全体にデフレカルチャーとして定着したと筆者は主張しています。

 デフレが経済問題にとどまらず、社会構造や文化にまで影響しているというのは、冷静に考えてみると恐ろしいことです。デフレ退治が政治課題としていかに重要であるかをあらためて認識しました。

 また、「会いにいけるアイドル」というコンセプト、相撲部屋や日本型雇用と芸能事務所の比較、「身近にいる女の子」の小さな物語というマーケティングについての話は、なるほどと思わせるところが多く、政治や選挙にも当てはまる部分があると感じました。

「悪党 小沢一郎に仕えて」

2011年07月20日 | 書評
「悪党―小沢一郎に仕えて」
石川知裕 (著)
朝日新聞出版


 「悪党」という強烈なタイトル、表紙の小沢さんのコワい顔の写真、帯の「破門覚悟の告白譚」という宣伝文句、この本が売れるのが分かるような気がする。しかし、当初、私は、この本を読む気がしなかった。うちの秘書が貸してくれたので読んだが、面白くて、一気に読んだ。私も馬淵澄夫代議士の秘書だったが、秘書としての石川議員のオヤジへの尊敬や畏怖の入り混じった複雑な想いは共感する部分が多いし、秘書、石川知裕を通して、「豪腕」という伝説が広く流布される一方で、謎のベールに包まれた小沢一郎という政治家の実像を垣間見れた気がする。

 「小沢さんをどう思うか?」という質問を地元でこれまで何度受けたことだろうか。私の地元にも熱烈な小沢ファンが多くいる一方で、多くの方から、小沢さんへの厳しい批判もいただく。正直、私の中での小沢一郎という政治家の評価は揺れて未だ定まっていないし、まともに口を聞いたのは当選前に選挙区に入ってもらった時の一度しかないので、人間、小沢一郎という人はよく分からない。ただ、あえて言えば、「悪党」の帯にもあるように、「小沢擁護でも小沢排除でもない」、そういうことに飽き飽きしているし、はっきり言ってどうでもいいことだと思っている。一期生の多くは私と同じような立場なのではないかと思う。

 同じ政治家として、間違いなく、小沢一郎という政治家は「凄い」政治家だと思う。ただ、言い方は、不適切かもしれないが、「凄い」先輩と「あんな風になりたい」と思う先輩は違うと思う。

 小沢さんの凄いと思うところは、自民党、新進党、自由党、民主党と党が変わろうが、刑事被告人になろうが、小沢待望論、「とにかく小沢」という多くの人に支えられていることだ。政治家が信念を貫くためには、自分を信じて、どこまでもついてきてくれる人が必要だ。小沢さんは、それをしっかり持っている。そして、それに応えるように、若くして「日本改造計画」という明確なビジョンを打ち出し、どんなバッシングを受けても、どんなに嫌われようと、一見、ぶれているように見えて、「自民党に代わる政権を担いうる保守政党を創り日本に二大政党的政治を根づかせる」という目標を一貫して追求し続けている「ぶれない」ところは凄いと思う。
 
 もう一つ見習わなければならないのは、選挙への執念。自戒を含め、民主党の若手議員の中には、選挙に対して「甘い」人が多いと思う。いい政策を掲げれば支持されるはずと単純に考えている節がある。我々、一期生が前回選挙で勝ち抜けたのは、もちろん風もあるが、小沢さんが民主党に選挙至上主義という文化を持ち込んだことの功績が大きいと思う。「悪党」にはこう書いてある。

 何のために選挙に勝ち、権力を掌握するのか。それは国民の暮らしを大事にするためだと思う。よく「小沢は選挙しか考えていない」と批判されるが、選挙に勝たないと権力は掌握できないし、法案も予算も通せない。

 これは真だ。理想だけ言っていても、実現できなければ意味がない。一方で、理想はかなぐり捨てても、とにかく選挙に勝てればいいというのでは、政治家ではなく、「政治屋」になってしまう。政治家なら誰もが感じるジレンマだと思う。

 もう一つ小沢さんが好きな人が共通して言うのは「政治家は清濁併せのまなければならない」ということだ。そこも理解できるところがある。この点、「悪党」ではもっとストレートに次のように書いている。

 いま、日本のリーダーにふさわしいのは、官僚を動かせないがカネに清い菅直人か、カネに汚いが官僚を動かせる小沢一郎か。

 もう、一つ小沢待望論の根底にあるのは「危機の時こそ小沢の出番」という考え方だ。「悪党」では、第二次大戦の危機と時に、76歳で返り咲いた英国首相のチャーチルになぞらえている。これもある部分では理解できる。
 しかし、一方で党内での小沢信奉者を見ていて、いつも気になるのは、「マニフェストの実行のための財源は?」→「小沢なら何とかしてくれる」、「景気、円高対策は?」→「小沢なら何とかしてくれる」、「ねじれ国会の打開策は?」→「小沢なら何とかしてくれる」という姿勢である。
 言葉は悪いが、「とにかく小沢なら何とかしてくれる」という盲目的な信奉には違和感をおぼえるし、もし、そうであるなら、首相という立場でなくても、どうして「一兵卒」としてその辣腕をふるわないのかという素直な疑問がある。

 この点、石川代議士は、冷静に見ていると思う。「悪党」には次のように書かれている。

 「小沢頼みから脱却しなければならない」よく仙谷さんはこう言っている。確かにそうである。我々一人ひとりの政治家は自分自身の考え方をまとめ小沢一郎への依存から脱却し自ら政策を掲げ、それが日本の指針となるような、または対立軸となるようなものを作り上げなければならない時期に来ている。

 さらに、「小沢の後継者は誰か。」ということについて、こうも書いている。

 私(石川)は『日本改造計画』に続く政策を示し、その内容が国民に受け入れられた人が「小沢一郎の後継者」と言われるべきだと思う。

 私も石川代議士のこの意見に賛成だ。もう、いい加減に小沢叩きをすることをやめて、我こそは次世代のリーダーたらんとする者は、「日本改造計画」を超えるような政策やビジョンを掲げて、小沢依存からの脱却を目指して、小沢という存在を乗り越えることに注力すべきだと思う。

 
 
 
 
 




【書評】YUIGON もはや最後だ。すべてを明かそう。

2011年06月23日 | 書評
「YUIGON もはや最後だ。すべてを明かそう。」浜田幸一/ポプラ社

ハマコーの遺言の書、ツイッターで「おもしろい!」という評判を見て、買い求めたが、発売当初、いくつかの書店で売り切れになっていて、なかなか手に灰らなった。そんなに売れているのか?

たしかに、気軽に読めて、読み物としては、それなりに面白い。しかし、「すべてを明かそう。」という副題に期待するほどの、「今だから言える」という衝撃の真実を期待していると、少し肩透かしである。

「最近の政治家は小粒になった」という声をよく聞くが、たしかにハマコーさんの快刀乱麻の活躍は痛快である。単なる「政界の暴れん坊」というだけでなく、そこにはやはり見習うべきものがある。
 
まず、分をわきまえていること。自分は陽の当たるポストとは無縁と、自分しかできない役割に徹している点が尊敬できる。

ハマコーさんは、政治主導や官僚ではできないこと、政治の力というのを理解していた人だと思う。

「YUIGON」にこんな一節が出てくる。

「そんなとき、融通の利かない役人の前で、私は机の上に寝転ぶのです。『この話を受けない限り、私はここからテコでも動かない』という意思表示です。そうです、この作戦しかないのです。理詰めでくる相手に理で返したところで埒があきません。理には体です。『この相手には、理は通用しない』と、相手に戦意喪失させることです。相手が折れるのを辛抱強く待つのです。」

アクアラインについて「地元利益誘導型政治をやりました。ごめんなさい。」と謝りながら、房総半島、木更津の人々のために仕方なかったとも言っている。ハマコーさんなくして、アクアラインができなかったのはたしかだと思う。自分が、国のためになる、地域のためになると信じることには体を張る姿、その迫力は、見習うべきところがあると思う。

政治主導に関するところでは、消費税の引き上げについて、
「財務省の官僚に国家財政の危機的な内容を諄々と説かれ、洗脳されたのだとする見方がありますが、当たらずとも遠からずでしょう。」、「私なら『そんなもん知らん』で押し通せるが、そうはいかないのがインテリなのでしょう。」
と述べている。

政治家が官僚に対して「俺はこんなことも知っているぞ」と知識をひけらかしても虚栄心を満たすことにしかなりません。それよりも、時には馬鹿なふりをして、「そんなもん、知らん」という方がよほど政治主導なのかもしれない。

今、この時代にハマコーさんに魅かれる人々が多くいることは理解できる気がする。 


【書評】招かれざる大臣

2011年03月02日 | 書評
「招かれざる大臣 政と官の新ルール」 
 長妻昭 著 朝日新書

 長妻大臣に新著「招かれざる大臣」をいただいたので、読みました。厚生労働大臣として官僚機構との「闘い」の記録だが、後半の第5章「政治家を志した理由」には影響を受けた書物なども書かれていて興味深い。

 私は、馬淵澄夫代議士の政策秘書として、長妻代議士とは一緒に仕事をさせていただいたこともあり、その人柄や仕事ぶりを少なからず知っているので、長妻大臣の厚生労働省での孤軍奮闘振りが目に浮かぶようだった。
 しかし、そんな私でも、長妻大臣と厚生労働省の役人の間に流れる何とも言えない冷たい空気を横目で見ながら「長妻さんももっとうまくやればいのに」と思っていたが、この本を読んでそんな風に見ていたことを反省した。

 長妻大臣のメッセージは極めてシンプルだ。それは「役所文化を変える」ということだ。
 私も参議院事務局や外務省に勤務した経験があるので分かる。たとえば、役所には朝礼がない。言われてみると不思議だ。私の事務所でさえ、毎朝、朝礼をするようにしている。長妻大臣は、まず、政務三役と局長以上の幹部を集めた朝礼を毎週月曜日の朝に定例化した。

 長妻大臣は、大臣室にスローガンや数値目標を書いた紙をベタベタと張ったそうだ。厚労省の役人はさぞ驚いただろう。想像して吹き出しそうになった。しかし、私の父は生保のサラリーマンだが、休日に時々父の職場についていくと、壁には営業成績をグラフにした紙やスローガンが張り出してあった。私の地元は製造業が多い地域だが、どこも現場にはスローガンが張り出してある。

 たしかに、役所は何を目標にして仕事をしているのかがはっきりしない。それは、これまで大臣をはじめとする政務の人間がビジョンを示してこなかったことにも責任がある。
 長妻大臣は、自著にかつて自分が書いた「政権交代後の20××年」というのを毎日チェックして、その理想の姿に至る手段、設計図を考えたという。まさに、ビジョンに向かって進む経営の基本の姿だ。
 また、職員にマニフェストを持ち歩け、熟読するよう指示した。マニフェストは政府と有権者の契約書であり、政権運営の基本となるものだからだ。(マニフェストの実行については、現在、国民の批判に晒されている部分でもある。)

 「目標を掲げても、目標達成への本気度が極めて低い」、「政策設計はするけれども、その後のフォローがない」という長妻さんの指摘は、まったくそのとおりである。

 ただ、リーダーシップのあり方については、やはり、少し疑問が残る。
 同じく、先日まで国土交通大臣をしていた馬淵代議士は、私の元上司であるが、民間でも経営者として辣腕を振るってきた。馬淵代議士はあるインタビューで次のように述べている。

 「企業に例えると、新任の社長が陥りやすい失敗は、自分のカラーを出そうと最初に高いハードルを設定したり、今の事業から一気に飛んで、新しい方向性を打ち出すことです。なぜ、それが失敗するかといえば、まだマネジメントの基礎ができていないうちに号令をかけても、部下はどうすればいいのかが分からず、組織全体がマヒ状態になるからです。つまり“笛吹けども踊らず”でしてね、それで墓穴を掘ってしまう」

 「官僚を巧く使う」ということがよく言われるが、「官僚にとりこまれる」というのと紙一重の部分があるのも事実だと思う。しかし、トップが何かしようと思ったときに組織がついてきてくれなければ何も進まない。その意味では、組織を構成するスタッフと良好な関係を築き、組織を掌握するということも必要ではないだろうか。

  

 

「党人河野一郎最後の10年」

2010年12月01日 | 書評
「党人河野一郎最後の10年」
河野洋平(監修)/小枝義人(著)
春風社/1800円(税込)

「豪腕」という冠のつく政治家は、今なら「小沢一郎」ですが、かつて「河野一郎」というもう一人の「一郎」がいたのをご存知でしょうか。
河野洋平前議長の実父であり、河野太郎代議士の祖父です。

河野一郎という政治家のすごいところは、大胆な決断と強引ともとれる抜群の行動力ですが、それが時代の先を読む構想力に裏打ちされているところがミソだと思います。

「政治は時代の先取り」、「政治というものは先手を取らなければならない。後始末ばかり、困ったからやるというのは政治じゃない」と河野一郎は言っています。まさに、そのとおりであり、時代を読む構想力を持ち、それを決断と行動で実現に結び付けていくのが、本当の政治主導というものです。

たとえば、河野一郎は、昭和32年に京都に国際会議場を建設するという構想を立て、実行に移しています。私は、大学が京都だったので、宝ヶ池の国際会議場は馴染みのある施設ですが、そんな昔に、あんな辺鄙なところによくも国際会議場を建設しようなんて考えたなあと思います。
スイスで開かれたガット総会に出席した河野一郎は「国際社会の仲間入りした日本は世界各国と盛んに交流を深めなければならない。そのためには同時通訳などの施設を完備した国際会議場が日本にも必要だ。」、そして、それは「必ずしも東京に設ける必要はなく、風光明媚な京都に建設すべきだ」と考えたのです。
実は、都心に近く風光明媚な地として、箱根も誘致競争に名乗りをあげていました。箱根は河野一郎の選挙区であるにもかかわらず「地元のための話じゃない。国全体の話だ。国際会議場は断じて京都。」と押し切ったというからさらにすごいと思います。「京都議定書」の例に見られるように、「京都」の持つブランド力を当時から見抜いていた先見性はさすがです。

本書の中に、河野一郎が9年にわたる閣僚・党役員を辞した後に関係者に宛てた手紙と言うのが出てきます。その中の一節が興味深い。
「私は戦前からの議員で、かつて軍事が政治に先行した時代の推移を身をもって知っておりますが、一言にしていえば現在は経済が政治に先行して政治が経済の後を追いかけているといった感を否めないように思います。」
河野一郎をしても、高度成長期には、経済がそんどん進んでいって、政治はそれを後追いしているという感じていたというのは興味深いと思います。反対に言えば、「政治は時代の先取り」と考える河野一郎は、政治は経済を後追いするのではなく、政治家自身が「将来、国をどのような方向に導きたいか」を考えて先手を打っていくべきだと考えていたのでしょう。


「政治家の人間力 江田三郎への手紙」

2008年08月15日 | 書評
先日、ある人に会うために刈谷の図書館に行ったついでに、本棚をざっと見て目についた本を数冊借りてきました。そのうち一冊がこれです。

「政治家の人間力 江田三郎への手紙」北岡和義 責任編集 明石書店 刊

分厚い本で時間がないので全部を読んだわけではありませんが、江田三郎元社会党書記長と縁のあった人々が没後30年、生誕100年の2007年に寄せた文章から成っている本なので興味あるものだけを拾い読みしました。
長男の江田五月現参議院議長や社民連で行動をともにした菅直人現民主党代表代行、土井たかこ社民党元党首といった政治家、松下圭一教授、山口次郎教授といった学者、榊原英資元財務官、山岸章元連合会長、評論家の塩田潮など実に多彩な人々が文章を寄せていています。

私は、参議院事務局の職員だったこともあり、また、大使館勤務時代に米国に来られた際にアテンドをさせていただいたこともあり、江田五月議長のことを勝手に身近に感じていますが、正直、江田三郎という政治家については晩年社会党を飛び出したというくらいしかほとんど知識がありませんでした。しかし、この本を読んで改めて「早すぎた改革者」であることを実感しました。

江田三郎氏が在職25年表彰の際に揮毫した色紙にはこうあります。
「議員二十五年 政権とれず 恥ずかしや」
また、晩年、地元の支援者に請われ書いた色紙には次のように書かれています。「政戦五十年 余生幾年ぞ 革新政権成らずして 入るべき墓場なし」
また、「路線とか政策とか、そういうものじゃない。政権を取るには、自分で政権をもぎ取ってくる人が必要」という言葉も残しています。
当時の野党政治家の中でここまで明確に政権を担う覚悟を示した政治家は他にはいませんでした。江田三郎が、時代に先駆けて、政権交代可能な政治の必要性を説いていたことには驚かされます。

奇しくも、昨年の参議院選挙では、参院で与野党が逆転し、ご子息の江田五月議長が誕生しました。今こそ、政権をとらなければ、労働者や社会的弱者のための公正な政治は実現できないのだ!という政権獲りにむけた江田三郎が示したようなのな覚悟と気概を我々民主党はもたなければならないと思います。

もう一つ感銘を受けたのは、江田三郎氏が示した「江田ビジョン」です。
①高いアメリカの生活水準
②ソ連の徹底した社会保障
③英国の議会制民主主義
④日本の平和主義

日本の国の目指すべき方向性を具体的なイメージを持って分り易く示したものとしてたいへん示唆的なものだと思います。現在も十分通用するものだと思います。

私は、2年間、大使館員としてアメリカで生活しましたが、物質的にも精神的にもアメリカの豊かさというものを実感しました。
また、マニフェストや政権交代可能な政治は、まさに英国の議会制民主主義を手本とするものです。
②のソ連はなくなりましたが、かつて、日本が「世界で一番成功した社会主義」と呼ばれたことは、現在の格差社会や社会保障の問題を見る時皮肉に思えてなりません。

元民社党委員長の西尾末広氏は「政権を取らない政党は、鼠を取らない猫と同じだ」という言葉を残しました。

政権を獲って、官僚政治を打破して、庶民、国民の側になった政治を実現できるか民主党がその正念場に立つ今だからこそ、江田三郎という政治家の存在感がズシリと重く感じられます。


【書評】「政権交代 この国を変える」岡田克也

2008年06月29日 | 書評
「政権交代 この国を変える」 岡田克也 講談社

 民主党の次世代を担うリーダーの筆頭格、岡田克也さんの最新刊です。車での移動中の時間を利用して読みました。
 失礼な言い方ですが、平板な表題が表しているように特別なことは書いてあるわけではないですが、岡田さんらしく素直に力まずに淡々と政権交代へのおもいを綴ってあって好感を持って読みました。

 「非自民政権成立と崩壊」、「新党の誕生と失敗」のくだりを読んで、あらためて細川政権誕生と新進党解体に至るあの数年が壮絶な日々であったかを思い知りとともに、その奔流の中にあって岡田克也という若き政治家が何を思い、そしていかに深い挫折感を味わったのかを感じました。そして、それが政治家、岡田克也の原点を形成していることを実感しました。
 私 おおにし健介にとっても国会職員として永田町に降り立って以来、政治と関わり続けてきたきっかけになったのは、平成5年、私が大学4年生の時に起きた細川・非自民政権の樹立であり、そして、その後、ワシントンでの外交官勤務を通して感じた政権交代可能な政治の必要性であり、「政権交代」の悲願には強い共感をおぼえました。

 岡田さんの代表辞任の両院議員総会の時のことを書いた部分では、私も秘書としてその場面に居合わせたので当時の記憶がよみがえってきました。
 岡田さんは「誰が代表になろうがみなで支える政党になって欲しい」、「自由な議論をできる民主党らしさを守りつつ、決まったことは守る政党であって欲しい」という2つのことを同志に訴えまた。新進党での苦い思い出があるからこそ、民主党が政党として組織として成熟した政党であって欲しいという思いは人一倍強いのだと思います。私も政策秘書として民主党を中から見てきましたが、組織としてのマネージメントの欠如が民主党の最大の弱点だと思っています。

 もう一つ岡田さんの主張で私が強い共感を持つのは「日本の国民は賢明で、大きな判断を誤らない。」という有権者、国民への厚い信頼です。
 「有権者なんて、国民なんて、どうせ、パフォーマンスに騙されて、マスコミに踊らされるものだ。」と心の中で有権者を馬鹿にして、テレビに出て顔を売って、地元行事に顔を出すことに躍起になっている政治家とはここがまったく違います。

 私も13区の有権者を信じています。国民の判断を信じています。だから、相手が強いとか何とかは関係ない、ただ信じて前に進むだけです。

「日本の10大新宗教」

2008年02月24日 | 書評
「日本の10大新宗教」 島田裕巳 幻冬舎新書

 候補者となって一番の悩みは、ゆっくりと机に座って考え事をする時間がほとんどないこと、特に本が読めなくなりました。寝る前に読もうと思っても疲れていつのまにか寝てしまいます。

 久しぶりに読破した本がこの「日本の10大新宗教」です。ちょうど電車で名古屋に行かなければならない用があり、面白くて一気に読み終えました。

 日ごろよく耳にするような新宗教の成り立ちや分裂の歴史や主な組織的特徴や協議の内容についてコンパクトにまとまっていてお薦めです。政治活動をしているとさまざまな宗教団体と関わりを持つことになりますが、意外に客観的に協議の内容や教祖について知識を得ることは難しいので、こんな本がないかと思っていたのでとても役立ちました。

 日本の新宗教の流れは、神道系、日蓮宗系、手かざし系等の系統があり、また、例えば、大本教の関係者がその後新宗教の開祖になっているなど背景を理解すると一見、混沌として映る新宗教を理解するのにたいへん役立ちます。

 過去の不幸な歴史から、政教分離を守ることは重要ですが、宗教と政治が歴史上密接な関わりを持ってきたことも事実です。人の幸せや幸福な社会を目指すという点や多くの人を一つの目的に向かってまとめあげるという点で宗教と政治は相通じるものがあると感じます。

 最近のスピリチュアルブーム等を見ていると、多くの人が物質的な幸福で満たされない何かを求めていることがよく分ります。宗教とは別のアプローチで政治は、幸福な社会とは何かを考えみなさんに提示しなければならないと思います。

「<スピリチュアル>はなぜ流行るのか」

2007年04月25日 | 書評
「<スピリチュアル>はなぜ流行るのか」 PHP新書 磯村健太郎

 先日、友人の一人が「江原さんの本を読んで心洗われた」と言うのを聞いてびっくりしました。というのも、その友人はどう考えてもそういうタイプではなかったからです。
 世は空前のスピリチュアル・ブームです。ブームの申し子である江原啓介氏もテレビ番組で引っ張りだことです。このスピリチュアル・ブームという社会現象の背景にあるものに考察を加えたのが本書です。

 政治の世界に身を置いてからというもの、「何が人をひきつけ、動かすのか」というのは、それがマーケティングであれ、宗教であれ私の最も関心の高いテーマの一つです。

 本書が、とても興味深かったのは、スピリチュアルというものを守護霊云々というものに限定せず、それこそ自己啓発からロハス・ブームまで広く捉えている点です。

 特に、私がポイントだと思ったのは、スピリチュアル・ブームを「『液状化する』宗教が社会のいたるところにしみだしている」と捉えているところです。

 スピリチュアルの根底にある「自己を超越した大きなものとつながっている感じを持ちたい」、「生の本質的痛みをケアして欲しい」というニーズに応えてきたのは従来は体系化された宗教でした。
 しかし、スピリチュアルに向かう人の多くは、教えをいただくスタイルの宗教を好まず、入信することで縛られることを嫌っているのです。宗教的信念の読み取りも、出入りもそれぞれの自由に任されている宗教的なるものがスピリチュアルなのです。

 つまり、ここで重要なのは、根底にある人々の欲求は変わらない一方で、既存の宗教がそれに応えていない状況があるということです。
 これは政治も同じではないでしょうか。「政治を変えて欲しい」と思う一方で既存政党に期待していないというのが政治の世界における無党派層の増加にあらわれているのです。

 政治の世界でも<スピリチュアル>的な受け皿が出てこないとは限りません。既存政党は危機感を持って、既存政党に拒否感を示している層のニーズを受けとめる努力が必要だと思います。


「座右の諭吉 才能より決断」

2007年04月23日 | 書評
「座右の諭吉 才能より決断」 斎藤孝(光文社新書)

 「声に出して読みたい日本語」で有名な斎藤孝が福沢諭吉について書いた新書です。
壱万円札や慶応義塾で日本人なら名前を知らない人はいない諭吉ですが、思想や生涯については意外に知らないように思います。

 福沢諭吉の生き方を改めて追ってみて、サブタイトルの「才能より決断」という福沢の生き方に感銘を受けました。

「人々才力有するも、進て事を為すべき目的あらざれば、ただ退きて身を守るの策を求むるのみ。」

 才能があるかないかは、やってみなければ分からない。何かをやるということは、自分に才能があるからやる、ないからやめるというものではない。まず、才能から考え始めると何も新しいチャレンジは始められない。

 これは、いつもわが師の言っていることです。「まず、やってみる!」、決断が人生を切り拓いていくのです。



「ロング・グッドバイ」

2007年03月28日 | 書評
「ロング・グッドバイ」 レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳 早川書房刊  
 読み進むにつれて、読み終わるのが惜しい気持ちになる、そんな本にたまに出会う。あとがきまで含めると600頁弱の本書もその一つだ。  
 出張帰りに、ふとのぞいた新幹線の駅の中の本屋で、ハードボイルド小説の不朽の名作「ロング・グッドバイ」の村上春樹新訳を見つけた時には心躍った。  
 学生時代に村上春樹を読み漁った人は多いと思うが、私もその一人である。村上作品にはまるにつれ、彼の翻訳も多く手にとるようになる。  レイモンド・カーヴァーやジョン・アーヴィングといったハルキが日本の読者に紹介してきた作家のほかにも、最近では、彼が大きな影響を受けたと思われるフィツジェラルドやサリンジャーの古典の新訳も手がけている。  サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の新訳の時のエピソードを書いた文春新書の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」には、翻訳家としての村上春樹の考え方が記されている。  
 私は、小説は好んで読むが、ミステリーというのはほとんど読まない。しかし、ハメットやチャンドラーのハードボイルドは、もはや古典であり、エンタテーメントとしてはもちろん独自の世界を構築していると思う。  チャンドラー小説の主人公、探偵のフィッリプ・マーロウは、本当にかっこいい!マーロウの「タフであること」、それは私にとっては、自分の流儀を貫くこと、金銭に人生の価値を置かないことだ。
 中身もさることながら、チャンドラー作品は、村上春樹も指摘しているように、その文章表現において独特の風合いがある。装飾的だけど、いやらしくない文章というのは本当に独特だと思う。
 この小説の中で私が特に気に入ったのが、主人公がコーヒーを入れるところを詳細に描写した部分。後に、主人公は死んだ友人(実は死んでいなかった)のために、2杯分のコーヒーを入れるという重要なシーンへの伏線になる部分でもある。こんな感じだ。
  湯を火にかけ、コーヒーメーカーを棚から下ろした。ロッドを水で濡らし、コーヒーの粉をはかってトップの部分に入れた。そのころにはもう湯が沸いていた。下段の容器にお湯を入れ、炎の上に置いた。そこにトップの部分をかさね、ひねって固定した。(中略)  コーヒーメーカーはぶくぶくと音を立て始めていた。私は炎を弱くし、湯が上にあがっていくのを見ていた。ガラス管の底の部分にいくらか湯が残っていたので、火力をさっと強くして上に押しやった。そしてすぐにまた火を弱めた。コーヒーをかきまわし、蓋をした。それからタイマーを三分に合わせた。細部をおろそかにしない男、マーロウ。なにをもってしても、彼のコーヒー作りの手順を乱すことはできない。拳銃を手に目を血走らせた男をもってしても。
 コーヒー一杯を入れる動作をここまで描写した小説があるだろうか!一見、どうでもいいようなことへのこだわり。これこそがハードボイルドの世界なのだ。