人だすけ、世だすけ、けんすけのブログ

愛知13区(安城市・刈谷市・碧南市、知立市、高浜市)
衆議院議員 おおにし健介

平成23年度 年頭所感

2010年12月31日 | 日常
 平成23年、新年あけましておめでとうございます。今年が皆さまにとって素晴らしい一年となりますよう心からご祈念申しあげます。

 さて、今年は、どんな年になるのか?2011年は辛卯(かのと・う)。十二支では、ウサギの年です。兜町の格言では「卯は跳ねる」、「辰巳天井」と言って株式相場にとってよい年と言われています。東証再開以来、61年間で卯年は最強の4勝1敗、年平均上昇率23.1%。ちなみに、辰年の29%がトップです。日本経済にとって、ウサギのようにジャンプの年になることを願っています。

 「辛」(かのと)は、植物が芽吹き、大きく成長していく様子を表しています。
 また、過去の卯年に起こった出来事を調べてみると、「最初の○○」や「第一回○○」というのが多く、時代が大きく変わる節目に当たると言えます。
 
 昨年は、1968年以来保ってきたGDP世界第二位の座を中国に譲りました。かつて、日本は「経済は一流、政治は三流」と言われました。経済がもはや一流ではなくなりつつある今、政治が三流のままだと国民生活の低下は免れません。
 
 昨年を表す漢字は「暑」。猛暑を指したものですが、私にとっては一昨年の政権交代のあの暑い夏の日です。あの暑い夏の日の思い、原点に戻って働いてまいります。

 今年は、私にとっては、40歳になる人生の節目の年となります。働き盛りのいま自分に与えられた使命を全うする決意です。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

平成23年元旦 衆議院議員 大西健介

中国の対日姿勢

2010年12月02日 | 政治
人民網日本語版ウェブサイトに11月26日付けで「日本を再発見」という記事が出ています。
http://j.people.com.cn/94476/7212873.html

記事は、日中両国民が相互に持っている悪感情と一方で、両国の歴史的な深い関わりを述べた上で、
「恨むことだけでなく、この国は中国が学ぶべきものが非常にたくさんある。歴史的に見ても。現在においてもしかりだ。」
「中国人の外国に関する話題のうち、日本に関する話題は大部分を占めている。しかし、一方で、民間人の日本に対する理解はまだ浅く、」全面的ではない。この『よく知る見知らぬ人』である日本に対して、我々はまず理解からスタートするべきだ。」
と書いています。

これは、尖閣問題をめぐるこの数ヶ月の日中関係の緊張と中国の強硬な態度とは、まったくトーンの異なるもので、どう受けとめてよいのか戸惑ってしまいます。

この記事が掲載されたのは、11月26日、北朝鮮が延坪島を砲撃したのが11月23日、このタイミングに何らかのメッセージが込められているのかどうか?
中国は、わが国との間の尖閣をめぐる対立、ノーベル平和賞受賞を通じて、国際社会での信頼を著しく傷つけたと言ってよいと思います。加えて、北朝鮮が中国のコントロールを超えた暴挙に出たことで、中国は、対日外交の修正を迫られていると受けとることはできないでしょうか?

判断が難しいところですが、いずれにしろ、わが国としても中国のシグナルを見逃さないように注意深く見守っていく必要があると思います。

「党人河野一郎最後の10年」

2010年12月01日 | 書評
「党人河野一郎最後の10年」
河野洋平(監修)/小枝義人(著)
春風社/1800円(税込)

「豪腕」という冠のつく政治家は、今なら「小沢一郎」ですが、かつて「河野一郎」というもう一人の「一郎」がいたのをご存知でしょうか。
河野洋平前議長の実父であり、河野太郎代議士の祖父です。

河野一郎という政治家のすごいところは、大胆な決断と強引ともとれる抜群の行動力ですが、それが時代の先を読む構想力に裏打ちされているところがミソだと思います。

「政治は時代の先取り」、「政治というものは先手を取らなければならない。後始末ばかり、困ったからやるというのは政治じゃない」と河野一郎は言っています。まさに、そのとおりであり、時代を読む構想力を持ち、それを決断と行動で実現に結び付けていくのが、本当の政治主導というものです。

たとえば、河野一郎は、昭和32年に京都に国際会議場を建設するという構想を立て、実行に移しています。私は、大学が京都だったので、宝ヶ池の国際会議場は馴染みのある施設ですが、そんな昔に、あんな辺鄙なところによくも国際会議場を建設しようなんて考えたなあと思います。
スイスで開かれたガット総会に出席した河野一郎は「国際社会の仲間入りした日本は世界各国と盛んに交流を深めなければならない。そのためには同時通訳などの施設を完備した国際会議場が日本にも必要だ。」、そして、それは「必ずしも東京に設ける必要はなく、風光明媚な京都に建設すべきだ」と考えたのです。
実は、都心に近く風光明媚な地として、箱根も誘致競争に名乗りをあげていました。箱根は河野一郎の選挙区であるにもかかわらず「地元のための話じゃない。国全体の話だ。国際会議場は断じて京都。」と押し切ったというからさらにすごいと思います。「京都議定書」の例に見られるように、「京都」の持つブランド力を当時から見抜いていた先見性はさすがです。

本書の中に、河野一郎が9年にわたる閣僚・党役員を辞した後に関係者に宛てた手紙と言うのが出てきます。その中の一節が興味深い。
「私は戦前からの議員で、かつて軍事が政治に先行した時代の推移を身をもって知っておりますが、一言にしていえば現在は経済が政治に先行して政治が経済の後を追いかけているといった感を否めないように思います。」
河野一郎をしても、高度成長期には、経済がそんどん進んでいって、政治はそれを後追いしているという感じていたというのは興味深いと思います。反対に言えば、「政治は時代の先取り」と考える河野一郎は、政治は経済を後追いするのではなく、政治家自身が「将来、国をどのような方向に導きたいか」を考えて先手を打っていくべきだと考えていたのでしょう。