南大橋を曲がり明治橋に向かう途中で、ふと右に曲がった。
前から何度かそのように右に曲がり、さらに本当に細い小道の角を折れると、そこに小さな古屋の暖簾を確認した。
時間が合わないのか、商売を畳んだのか、前回まではその暖簾がかかっているのを見なかった。
少しの期待に応えて、昨日はそのくぐり戸の割には大きい暖簾が、ようこそとばかりたなびいていて、ワタシはすぐ横の一台しかない駐車場に車を滑り込ませた。
暖簾をくぐり、戸を開ける。
テーブル三席の小さい店内。
記憶の通りのたたずまいであった。
カウンターの窓越しに厨房につながるその壁にメニューがかかってあり、そこに呼び鈴があった。
小さい響き。
そして、お昼でもとっていたのだろうか、あの、あのおばあちゃんの少し口の中に食べ物をはさんでいるような「は~い」という、年齢は感じさせられるがりんとした返事があった。
そう、もうかれこれ数年、いや十年近く来ていなかったあの記憶の中の、もうその頃からすっかりおばあちゃんであったその人が、記憶通りのその離れた年月を感じない風情で現れた。
「雨は降らないでがんすね」と、これも記憶通りの盛岡弁で挨拶されるおばあちゃん。
ええ、途中はけっこう土砂降りだったんですよと答ながら、「中華」を注文する。
もうここは「中華」しか頭に無いのである。
そう、「中華」。
いまや進化系の「ラーメン」とは一画をなし、まるでその本流を奪われながらも静かに川の淀みのように横の急流をよそ目にくるくると静かにたたずんでいる「中華」。
小さいころ、体の弱かった母方の実家に長く預けられていた。
年長の従兄弟たちの中で、一番年下のワタシは、彼らにも親戚のおばちゃんたちにも可愛がられていたと思う。
もう働いていたのだろうか、従兄弟の長男が居るとときどきはお昼に食堂で「中華」をごちそうになった。
国道から少し細い道を入ったその近辺は、そのころはまだ新しかった市営アパートが何棟もあったせいか、酒屋と万屋と食堂がならんでいた。
その食堂の「中華」が少年の頃はたいそうなごちそうに思えて、従兄弟の長兄がいると、今日はどうなのかなと心待ちしていた。
ワタシも、従兄弟の弟たちも、親分子分ではないがその長兄が「中華喰いさ行ぐが」という言葉が出るのを、それでもじっと待ちわびていたのだ。
そしてその「中華」のうまいことといったら!!
母は年越しは豚肉のすき焼きと年越し蕎麦、正月はなぜか中華を作った。
たぶん、それは切ないほどのご馳走だったのだろう。
家でその頃に「中華」を作ることは正月以外には無かったと思う。
いま思えば、花巻には花巻の麺屋さんがあり、縮れ細麺がいわば「地中華」の麺であったし、他の食堂も味付けは同じようであった。
その子供のじぶんの記憶と、当時の面影のままであった「神子田食堂」の「中華」が、ワタシの記憶の中で重なりながら時折、ほんのり目覚めて郷愁の味を探しにさまようのである。
記憶の情景と、現実の目の前が交差しながらゆったりとした雰囲気に包まれる。
おばちゃんは厨房に戻る。
その中華を作るおばちゃんの工程の音が、けっこうシャリッと聞こえ、手際のよさを感じながら待つ。
テーブルは3つ。
ワタシは一番前の雑誌が、しかしありがちな古い雑誌ではなく新しい「週刊新潮」なんかが置かれてあるテーブルに座る。
青い淡いビニールクロスが掛けてあって、かわいいと言えばいいのだろうか。
厨房前のショーケースは空だ。
何が入っていたのか今はただ飾りとして店に鎮座する。
お酒の小瓶やソフトドリンクの入った冷蔵ショーケース。
こんなところで、ラーメンをつまみに冷やをやるのは、とても素敵なことだと思うが、ワタシは運転手。
しばらくして記憶の通りの「中華」が来る。
スープをすする。
スープをすする。
記憶を確認するために、スープをすする。
記憶に浸るために、スープをすする。
記憶の中に溶け込むために、スープをすする。
いつまでも冷めないスープ。
記憶と同居する夢も覚めない。
少し麺を茹でる小麦粉の香りがする湯気が、さらに記憶をたどっていく。
この小麦粉の香る湯気が、たぶん、ワタシにはご馳走なのだ。
とても幸せだった少年の頃に戻る豪華なハーブとしての湯気の役割。
麺は縮れ細麺だ。
柔らかいがのど越しはしっかりして、その縮れたところに優しいスープを抱いてくる。
思ったより柔らかかったナルト。
「ラーメン」にはなく「中華」に入っているのがナルト、かな?
しっかりとした醤油ベースのゆで汁をしみこませたチャーシュー。
すっと通った繊維が豚モモとわからせる。
その案外にストレートな醤油の味が、全体に優しい麺とスープのアクセントとなり、「本当はワタシが中華の王子様なんだよ」と言わんばかりに気品を漂わせている。
メンマ。
短めで本数の多いメンマ。
決していい麻竹を厳選し何時間もこだわり醤油で煮込みましたよ、みたいなあの矢巾の名店や、ウチの松園店の中華名人と大通店のT嬢がつくる立派なソレではないが、まさしく「中華」のメンマとして正しい姿勢をとっている。
たくさんのネギが、これも小さいアクセントとしてハーブの役目を果たしているし、見た目は存在感があり、食べるときはもう記憶から外れる子役のノリも、まあついているなという感じ。
そして別皿の沢庵がさっぱりした味を保管して、箸休めの役割を担っている。
これどうぞと持ってきた四角い瓶のコショーは、ワタシが最初にお世話になった会社のライバル社のもので、そのマークを見るといまだに敵意を感じてしまうのだが、こいつは粒も細か目で味も穏やかであるからあんがいに「中華」にあったりするから不思議だ。
嗚呼、記憶の「中華」。
記憶と現実が汗まみれで食べるワタシの脳の襞襞の中でやんわりと同居する。
片づけを終えたおばあちゃんが隣のテーブルにお茶を持って座り、その優しい盛岡弁で話しかけてくる。
少年の頃のワタシは、話し下手で、親戚の人にもなかなか話しかけられなかったが、年月が頑な心を少しはほぐしてくれたのか、このおばあちゃんとここでお話しできるのをとても楽しく感じる。
緊張を強いられる「今」から、ほんの少し。
湯気が覚める間の時間くらい、夢の中に居させてくれるこの平和な空間を、あなたも感じてみませんか。
きっと誰でも優しくなれる。
時空を越えて、少年の頃の純朴な自分に帰る時。
その細い小路を右に曲がってごらん。
前から何度かそのように右に曲がり、さらに本当に細い小道の角を折れると、そこに小さな古屋の暖簾を確認した。
時間が合わないのか、商売を畳んだのか、前回まではその暖簾がかかっているのを見なかった。
少しの期待に応えて、昨日はそのくぐり戸の割には大きい暖簾が、ようこそとばかりたなびいていて、ワタシはすぐ横の一台しかない駐車場に車を滑り込ませた。
暖簾をくぐり、戸を開ける。
テーブル三席の小さい店内。
記憶の通りのたたずまいであった。
カウンターの窓越しに厨房につながるその壁にメニューがかかってあり、そこに呼び鈴があった。
小さい響き。
そして、お昼でもとっていたのだろうか、あの、あのおばあちゃんの少し口の中に食べ物をはさんでいるような「は~い」という、年齢は感じさせられるがりんとした返事があった。
そう、もうかれこれ数年、いや十年近く来ていなかったあの記憶の中の、もうその頃からすっかりおばあちゃんであったその人が、記憶通りのその離れた年月を感じない風情で現れた。
「雨は降らないでがんすね」と、これも記憶通りの盛岡弁で挨拶されるおばあちゃん。
ええ、途中はけっこう土砂降りだったんですよと答ながら、「中華」を注文する。
もうここは「中華」しか頭に無いのである。
そう、「中華」。
いまや進化系の「ラーメン」とは一画をなし、まるでその本流を奪われながらも静かに川の淀みのように横の急流をよそ目にくるくると静かにたたずんでいる「中華」。
小さいころ、体の弱かった母方の実家に長く預けられていた。
年長の従兄弟たちの中で、一番年下のワタシは、彼らにも親戚のおばちゃんたちにも可愛がられていたと思う。
もう働いていたのだろうか、従兄弟の長男が居るとときどきはお昼に食堂で「中華」をごちそうになった。
国道から少し細い道を入ったその近辺は、そのころはまだ新しかった市営アパートが何棟もあったせいか、酒屋と万屋と食堂がならんでいた。
その食堂の「中華」が少年の頃はたいそうなごちそうに思えて、従兄弟の長兄がいると、今日はどうなのかなと心待ちしていた。
ワタシも、従兄弟の弟たちも、親分子分ではないがその長兄が「中華喰いさ行ぐが」という言葉が出るのを、それでもじっと待ちわびていたのだ。
そしてその「中華」のうまいことといったら!!
母は年越しは豚肉のすき焼きと年越し蕎麦、正月はなぜか中華を作った。
たぶん、それは切ないほどのご馳走だったのだろう。
家でその頃に「中華」を作ることは正月以外には無かったと思う。
いま思えば、花巻には花巻の麺屋さんがあり、縮れ細麺がいわば「地中華」の麺であったし、他の食堂も味付けは同じようであった。
その子供のじぶんの記憶と、当時の面影のままであった「神子田食堂」の「中華」が、ワタシの記憶の中で重なりながら時折、ほんのり目覚めて郷愁の味を探しにさまようのである。
記憶の情景と、現実の目の前が交差しながらゆったりとした雰囲気に包まれる。
おばちゃんは厨房に戻る。
その中華を作るおばちゃんの工程の音が、けっこうシャリッと聞こえ、手際のよさを感じながら待つ。
テーブルは3つ。
ワタシは一番前の雑誌が、しかしありがちな古い雑誌ではなく新しい「週刊新潮」なんかが置かれてあるテーブルに座る。
青い淡いビニールクロスが掛けてあって、かわいいと言えばいいのだろうか。
厨房前のショーケースは空だ。
何が入っていたのか今はただ飾りとして店に鎮座する。
お酒の小瓶やソフトドリンクの入った冷蔵ショーケース。
こんなところで、ラーメンをつまみに冷やをやるのは、とても素敵なことだと思うが、ワタシは運転手。
しばらくして記憶の通りの「中華」が来る。
スープをすする。
スープをすする。
記憶を確認するために、スープをすする。
記憶に浸るために、スープをすする。
記憶の中に溶け込むために、スープをすする。
いつまでも冷めないスープ。
記憶と同居する夢も覚めない。
少し麺を茹でる小麦粉の香りがする湯気が、さらに記憶をたどっていく。
この小麦粉の香る湯気が、たぶん、ワタシにはご馳走なのだ。
とても幸せだった少年の頃に戻る豪華なハーブとしての湯気の役割。
麺は縮れ細麺だ。
柔らかいがのど越しはしっかりして、その縮れたところに優しいスープを抱いてくる。
思ったより柔らかかったナルト。
「ラーメン」にはなく「中華」に入っているのがナルト、かな?
しっかりとした醤油ベースのゆで汁をしみこませたチャーシュー。
すっと通った繊維が豚モモとわからせる。
その案外にストレートな醤油の味が、全体に優しい麺とスープのアクセントとなり、「本当はワタシが中華の王子様なんだよ」と言わんばかりに気品を漂わせている。
メンマ。
短めで本数の多いメンマ。
決していい麻竹を厳選し何時間もこだわり醤油で煮込みましたよ、みたいなあの矢巾の名店や、ウチの松園店の中華名人と大通店のT嬢がつくる立派なソレではないが、まさしく「中華」のメンマとして正しい姿勢をとっている。
たくさんのネギが、これも小さいアクセントとしてハーブの役目を果たしているし、見た目は存在感があり、食べるときはもう記憶から外れる子役のノリも、まあついているなという感じ。
そして別皿の沢庵がさっぱりした味を保管して、箸休めの役割を担っている。
これどうぞと持ってきた四角い瓶のコショーは、ワタシが最初にお世話になった会社のライバル社のもので、そのマークを見るといまだに敵意を感じてしまうのだが、こいつは粒も細か目で味も穏やかであるからあんがいに「中華」にあったりするから不思議だ。
嗚呼、記憶の「中華」。
記憶と現実が汗まみれで食べるワタシの脳の襞襞の中でやんわりと同居する。
片づけを終えたおばあちゃんが隣のテーブルにお茶を持って座り、その優しい盛岡弁で話しかけてくる。
少年の頃のワタシは、話し下手で、親戚の人にもなかなか話しかけられなかったが、年月が頑な心を少しはほぐしてくれたのか、このおばあちゃんとここでお話しできるのをとても楽しく感じる。
緊張を強いられる「今」から、ほんの少し。
湯気が覚める間の時間くらい、夢の中に居させてくれるこの平和な空間を、あなたも感じてみませんか。
きっと誰でも優しくなれる。
時空を越えて、少年の頃の純朴な自分に帰る時。
その細い小路を右に曲がってごらん。