ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

御礼かたがた

2010-06-26 09:08:32 | 第1紀 をかしら屋
昨夜はやはり給料日。

ワールドカップの余韻をみんなで確かめようという想いもあってか、盛岡の繁華街は久々の賑わいだった。

当「をかしら屋大通店」も早々に女子会2組10名様はじめ、ごっしり満卓となった。

いつもの給料日は最近の傾向で自宅でくつろぐようなので大通は暇だから、ちょっと喜ばしい。


しかしお調子者はこうなると、つい欲が出る。

確かに、常連さん含め数組、それも「二十人入りますか」とか「いま十人ですけど」なんて、たぶん総勢四十数名ほどにお帰りいただくと、心穏やかでないわけである。

最近、平日はめっこり静かだし、夜10時以降にこう団体で続けざまに来られるのは類まれなこと。

いらぬ頭勘定するのは許していただきたい。

いや、お一人、ふらりと来られる常連さんも入れないというのは、ワタシのような店にはやはり致命傷であると恥じる。

めったにない繁盛に喜んではいられないのが本音である。


あ~あ、店が広ければな~(27坪40席もない)とか、カウンターをもう少し長くしてれば常連さんも安心して来られるのにな~とか、下の階が空いたんだから思い切って借りれば良かった、などとあらぬ妄想に入る。

平日の暇な時は「鬱」に浸って、もう店なんか止めよう、従業員には悪いけど俺一人でこじんまりやっていこうなどとおもうので、こうなると毎週、躁鬱状態の小規模経営者なのであります。


まあ・・・と、こんな時にふと人生なんかを少し振り返ってしまうんですな、小心者は。

考えれば、一言、「平凡」でそしてある意味で「恵まれた」日々でありました。

幼少の頃はいまでは考えられないほどひ弱でありましたが、大きな病気は小学校高学年の一ヶ月の入院だけ。

両親も穏やかな人で、昭和の時代だから決して恵まれてはいなかったが、自家用車もテレビも揃ってくるという経済の成長期に、それなりの暮らしを手にしていたんだとおもう。

学校も、予備校に一年は通ったが、学園闘争の嵐に乗じて無事4年で卒業したし、今のような就職難の時代になんとか就職できた。

その入社一週間目の研修で「おいら帰る」と研修官ともめたが当時の社長に止められ、そのまま十数年在社した。

そんな平凡な誰にでも数個はある武勇伝は、ワタシにもあるが、決して致命傷ではない、あとで笑い話の一つとなるものである。

なぜか普通に結婚したし、子供も大きくなったし、毎日小さな衝突は起こすが浮気もせず別れず、家も建てて大きな借金に四苦八苦し、庭を造って、ポチも来た。

まあこれでサラリーマンを続けて年金暮らしに入ればいいのだが、ちょこっと曲がって個人経営者になってしまった。

平凡な人生の、その大きな防波堤の中のさざ波くらいの出来事なのだが、金槌のワタシはもう小さな手漕ぎボートの中で毎日、小さな波に必死でこらえている。

平凡というのはそういうものなのかもしれないが、しかし予期せぬ明日がいつ来るかもしれないという不安があるのも土につかない生活の行く末である。


なんて、まあ満席の夜は案外タフな気持ちで振り返ったりするのだ。

さて、ワタシの躁鬱症、今夜はどうなりますか。

またまた人生を振り返るなんて境地になるんかいな?