トドの小部屋

写真付き日記帳です。旅行記、本や美術展の紹介、俳句など好きなことをつれづれに。お気軽にどうぞ。

長崎旅行3日目:平和公園、原爆資料館、永井隆記念館、亀山社中、崇福寺

2014-12-09 15:37:14 | 旅行
12月3日(水)。朝の部屋からの眺めです。まだ灯りが少し灯っています。



長崎の街は三方を山に囲まれ、山の上の方まで家やホテルがぎっしりと建っているので、夜になると星のようにきらめく無数の灯りが山の上まで灯りました。三日目の今日は、平和公園と原爆資料館に最初に行きました。駅で路面電車の1日乗車券を買い、電停、松山町で降りてすぐのところに平和公園はありました。最初に見たのが平和の泉。原爆投下後、多くの人が水を求めて苦しみながら亡くなったことから、犠牲者の霊を慰めるために作られた噴水です。



平和公園は修学旅行生の団体が途切れなくおとづれていて、平和の泉の周りにも人が一杯だったので、1枚しか写真が撮れませんでした。更に歩くと公園の奥に平和祈念像が高くそびえていました。平和祈念像は南島原市出身の彫刻家、北村西望さんによる作品で、昭和30年に完成したそうです。空をさす右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は世界平和を表し、犠牲者の冥福を祈っているのだそうです。祈念像の両サイドに折鶴の塔があり、千羽鶴がたくさん下がっていました。平和祈念像に花や水が供えられていました。



そして公園入口に向かう通路に、33回忌の昭和52年に犠牲者の冥福を祈るために建てられた「長崎の鐘」がありました。また外国から送られた平和を祈念する像がいくつか公園内にありました。その後、原爆資料館に行きました。原爆が投下された午前11時2分でとまったままの壊れた柱時計や、数々の遺品、熱で溶け、ぐにゃぐにゃにくっついたガラス瓶や、泡を吹いたようにブツブツになった原爆瓦など。生き残った人たちも長い間、原爆症に苦しんだ様子が写真と説明で示されていました。原爆の恐ろしさ、放射線の脅威を思うと、絶対に核戦争をおこしてはならない、核爆弾を使ってはならないと強く思いました。原爆落下中心地には、黒い御影石の石碑がありました。そのそばに原爆で壊れた浦上天主堂の一部が残されていました。



その次に浦上天主堂に行きました。レンガ造りの天主堂は原爆で全壊し、昭和39年に再建され、昭和55年に改装されたものです。



教会内部は写真撮影禁止。脱帽して静粛に見学しました。教会を見た後、フルーツいわながでイチゴのジュースを飲んで休憩。その後、永井隆記念館に行きました。永井博士は放射線の研究者で放射線による慢性白血病にかかり、余命3年と診断された矢先、原爆で被爆し、家も奥さんも亡くし、2人の幼子と残されました。病を押して患者の治療にあたり、原爆症のために寝たきりになった後も、自分のできることをと多くの著作を残した人です。晩年、2人の幼子と暮らした如己堂(己の如く人を愛すという意味)という小さな家も見学しました。
午後は、亀山社中記念館に行きました。晩年に坂本龍馬が設立した貿易会社「亀山社中」の遺構といわれる場所を長崎市が当時に近い形に復元した建物で、ブーツや着物など龍馬ゆかりの品々が座敷を中心に展示されてました。床柱は龍馬がもたれたものと言われています。





亀山社中は電停、大工町で下車し、急な坂道をかなり登ったところにありました。亀山社中は脱藩者の集まりだったので、当時はおそらく山中の隠れ家のようなところではなかったかと思います。
その後、坂道をまた電車通りまで戻り、電停、正覚寺下で降りて、唐寺の崇福寺に行きました。崇福寺は創建が1629年。長崎に在留していた中国の福建省の人(福州人)たちによって建てられたのが始まりだそうです。第一峰門と大雄宝殿は国宝です。本尊は釈迦如来。





たくさん見学していっぱい移動し、体力的に疲れた1日でした。
他の写真はフォトチャンネルをご覧ください。




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