しととんの音のほがらや 寝し耳を鍵盤にする雨垂れの指 薬王華蔵
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雨垂れに指がある。細い白い指が。耳の奥にピアノの鍵盤が設置されているので、ここまで指が這って来て、叩く。しととん、しととん。湿っぽくない、乾いた音だ。朗らかな性分のピアニストなんだろう。雨垂れは、人の形を取らないが、人に似ている。朗らかな感情を携えている。夜中、寝付こうとしているところに、雨の音。さ、生きている今をそっくり楽しんでご覧、と白い指が誘い水をして来る。
しととんの音のほがらや 寝し耳を鍵盤にする雨垂れの指 薬王華蔵
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雨垂れに指がある。細い白い指が。耳の奥にピアノの鍵盤が設置されているので、ここまで指が這って来て、叩く。しととん、しととん。湿っぽくない、乾いた音だ。朗らかな性分のピアニストなんだろう。雨垂れは、人の形を取らないが、人に似ている。朗らかな感情を携えている。夜中、寝付こうとしているところに、雨の音。さ、生きている今をそっくり楽しんでご覧、と白い指が誘い水をして来る。
寝付いてから2時間というところ。ご不浄へ。すたたたた廊下を歩く。お蒲団に戻って来る。ここまでに目がばっちり開いてしまう。長い長い夜になる。晩酌した芋焼酎の酔いが切れる。
ハタと考える。生きているという尊い事実に、オレの今は相応しいか、と。生きたくても生きられないこともあるのに、オレはそこを難なくクリアーしている。そしてそれをなんとも思わず平然としている。
難があったはずだ。そこでストップを掛けられてしまうところを、そこを回避するために骨を折ってくれた様々な善意が働いていたはず。その善意のご苦労があったので、オレはその間を何食わぬ顔が出来ていたのだ、そうに違いないと。
オレは大きな道を歩いている。オレが大きな道を歩いていけるように、陰に回って働き、苦心惨憺し、整え、汗を流し、ヘトヘトになりながら、それを厭わなかった影の功労者がゴマンといたはずだ。
守護者がいたのだ、ここへ辿り着けるまでに次々とその者が現れ、引き継ぎ引き継ぎ、わたしに泣きをさせないようにしてくれたのだ。それをオレは知らない。まるで知らない。
じゃ、知っていたら? オレはいったいどうしたのだろう。どうすべきだったのだろう? ふっと考える。考えても無力のオレは結局は何にも出来ない。その全課程を眺めても、何にも出来ずに呆然と立ち尽くしているだけだ。
オレは眠らされる。余計なことは考えないでいいよというふうに、目を閉じらされる。
☆☆☆
0時を過ぎた。新しい今日になった。
目を盗むこのあたたかさうつくしさ しかし断じて気づかれぬやう 薬王華蔵
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あなたの目を盗む。この快感は凄(すさ)まじ。美しいあなたには美しい目がある。それを盗んで来る。わたしの眼の中にそれを置く。こころの中にそれを移植する。これで意中の人にする。ひそかな窃盗。そこに火が灯る。あたたかな火がとろとろ灯る。人間がもう一人の人間へ愛を運搬する。そこへ根付かせる。無意識であろうと意識下であろうと。愛という火はあたたかいのだ。人をひたひたとあたためるのだ。でも、窃盗だから、断じて気付かれてはならない。
窃盗しないで堂々とすればいいじゃないか。然り。そうであるべきだ。しかし、わたしにはそれをするだけの、堂々のたくましさがもはやすっかり欠落している。迷惑が及んではならない。慎ましやかでなければならない。執着してはならない。すぐに捨ててしまわねばならない。常に空気を送り込んで新鮮を保つようにしておかねばならない。
あなたというのは人でなくてもいい。風景であってもいい。絵の中であってもいい。非実在であってもいい。ただし、それを美しいものとしておく、それが大前提だ。
汝(なれ)はわれ この延長におさまれる空と地平の交差融合 薬王華蔵
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風景が入っていない歌でも歌だろうか? どうであろう。空と地平が風景となれるか。
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汝=我。という方程式を立てる。二人称は一人称である。一人称がそこにいなければ二人称は成立しない。だから、二人称は一人称の付属物である。などという傲慢ではない。わたしとあなたとの間に壁を設けないことにしたのである。だから、あなたはわたしであって、わたしはあなたである。こういう方程式をグラフにして直線を延ばしていけばどうなるか。延長線上の空と地平が、平行線を曲げて、交差する。融合してしまう。「わたしはわたし」「あなたはあなた」を破棄通告して、さっさと止めてしまったのである。
いいんじゃない。行く先の永遠という未来では、すべては融合しているのである。個体を主張せず、仲良く暮らし合っているのである。
並列だった延長線が仲良く合意合体して一つに輝いている図。これは堂々の風景になれるはずである。
菊薫る月下対酌 現代の李白のわれの黄金孤独 薬王華蔵
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「月下独酌」 李白
花間一壼酒 獨酌無相親 舉杯邀明月 對影成三人 月既不解飮
影徒隨我身 暫伴月將影 行樂須及春 我歌月徘徊 我舞影零亂
醒時同交歡 醉後各分散 永結無情遊 相期遥雲漢
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花の間に一壺の酒がある。独りで酒を酌んで、相親しむ者なし。盃を挙げて明月を迎えれば、影に対して三人を成す。月は既に飲むを解せず、影は徒(いたずら)に我が身に随(したが)うのみ。暫くは月と影とを伴って、行楽すれば須(すべから)く春に及ぶべし。我が歌えば月は徘徊し、我が舞えば影は零乱す。酒の醒めたる時に、同(ひと)しく歓を交えんか。酔った後は、各々分散すれども、永く無情の遊を結ばん。相期して雲漢遙かなり。(さぶろうの読み下し文)
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李白殿は「月下独酌」としたが、わたしは敢えて「月下対酌」としたい。李白殿とわたしと月とこの3人で飲み交わそう。といっても、なかなか李白殿はお見えにならない。そこでわたしが一人二役することにした。現代の李白殿とわたしを、わたしが演じる。そしてそこへ月が照る。菊花が薫る。これでまんまと「黄金孤独」が成立したのだ。李白殿をどうやって演じるのか。酒を飲んで歌って舞えば、それで李白殿。歌は? この詩を吟じればよし。
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おいおい、これでも短歌になっているのかい? どうだろうかなあ。「黄金孤独」は高い塔。わたしが建ててわたしがそこに棲むところ。高殿の楼である。月が朗々と輝き渡る。
一週間ほど前に、武雄の廣福寺に、龍の天井画を見に行った。釈迦堂に釈迦が祀られていた。それほど廣い堂ではない。ほぼ目算で4間真四角くらい。両隣に二体、二体の四天王像。いずれも鎌倉時代の慶派の作らしい。古めかしい。釈迦像の真上の天井に龍が舞っている。仏陀を守護するためだ。四天王像も釈迦を守護している。ここは禅宗南禅寺派のお寺である。中央に講堂がある。向かって右手に修行道場がある。大きい。その他に観音堂もある。鐘楼もある。苔庭に小径が走っている。モミジがちょうどいいくらいに焼けて見頃だ。幼木もある。黄色いモミジが珍しくて目を引く。入園料300円。紅葉を見に来る客が次々と長い坂道を上がってくる。
わたしは龍が好きだ。ことのほか好きだ。好きだなんていう表現では修飾できないかも知れない。畏敬しているとすべきだろう。仰ぎ奉っていると言うべきだろう。法華経の中にも龍が登場する。竜王の娘が8歳にして悟りを開いて、あっさり女人成仏を果たす。ナンダ・バツナンダ・シャカラ・ワシュキツ・トクシャカ・アナバダッタ・マナシ・ウハツラの8大龍王が、法華経の会座(えざ)に列して護法する。
わたしは、これを想像上の動物とは思っていない。実在していると思っている。我が眼にはしかし見えないようにしてある。見えたら、あまりにも畏れ多くて、眼が開けられないのだ。こうして法華経の行者の一人一人、仏陀の法を携えて行くところ行くところを守っていてくれるのである。危険に遭わさないようにしてくれているのである。
リルルとふ女人は器(うつわ) なめらかな背中に雨を降らせて秋日(あきび) 薬王華蔵
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リルルは女人である。美しく化粧をしている。わたしの方を向いている。細い目をしている。しかしこの女人は口をきかない。それはそうだろう。磁器だからである。一人では動けないので、わたしが手に捧げ持っている。秋日。雨がそぼ降っている。彼女の背中に雨が降って流れる。なめらかな背中に流れ下る。それがなぜか悲しい。悲話のヒロインのように、わたしの目の前で悲しみを演じている。リルルは外国製の磁器。名前はわたしが勝手につけた。わたしの愛人である。
すこやかな命もらひて人憎む 風に順ふキスゲのとなり 薬王華蔵
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キスゲはユウスゲの別称。黄色い花を咲かせる。ユリの仲間。山地の草原に自生する。多年草。草丈は1mにもなる。夏の一日花。夕方に花開いて翌日の午前中には萎んでしまう。終日、草原の風に靡いて過ごしている。南風の時には南に、西風の時には西に垂れて、逆らわない。
そのキスゲの花の隣りにわたしがやって来て夏日を送っているが、わたしのこころは人を憎んでいる。山道を登ってここまで歩いて来られるだけの健康を授かりながら、そのわたしは、なさざるべき抵抗を試みているのである。
人は人を愛するべきだ。であるのに、わたしは人を憎んでいる。汗がたらたら額を零れて落ちる。恥じらって内省をするのだが、またぞろ同じ鬼の心になっている。すこやかな身心を恵まれて今日を生きている者、であるのなら、感謝感恩の中に暮らしているべきだ。
カレー屋さんに来た。牡蠣フライのカレー。ほうれん草入りの。値が張るぞ。980円。雨は上がったようだ。
さ、出来てきた。イタダキマース。熱々で。
はひふへほハ行の娘(こ)らが秋祭り笑いに笑ふ 此処へみな来い 薬王華蔵
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はははは、と笑う。ひひひひ、と笑う。ふふふふ、と笑う。へへへへ、と笑う。ほほほほ、と笑う。ハ行を駆使して笑う。みな若い娘等である。秋祭りは楽しいのだ。こんなに楽しいところがあるのだ。鬱勃としていないで、此処へ来ればいいのだ。此処で一気に娘等の笑いの渦に飲まれてしまえばいいのだ。この娘等は、しかし、言葉の娘子たちである。でも色とりどりの浴衣を着ている。口には紅も刷(は)いている。白粉の匂いもする。
笑いの世界がある。此処へ来ればいいのだ。はとひとふとへとほの娘等を大勢引き連れて此処へ来ればいいのだ。そんなに暗い目をしていないで。