傘を差して街に出て夕食。街に人は多い。若い人の。それが嬉しい。生ビールと芋焼酎a、bを飲んだ。あっという間に5000円也。貧乏人なのに。今日は土曜日。仕事が休みだからだろうか、人が行き交う。人が行き交う分、それだけこちらの寂しさが募る。ふう、傘が吹き飛ばされそう。ホテルまでの帰り道を急ぐ。
足立美術館の新館で河合寛次郎の陶芸作品展を見た。彼の作品が主張する世界に呑み込まれた。そこに「饗応無尽」と題する詩文が掛けてあった。
....あらゆるものから歓待を受けている我等。この世へお客さまに招かれて来ている我等。見尽くせない程のもの、食べきれないご馳走。このままが往生でなかったら、寂光浄土など何処にあるのだろう。....
彼は芸術家であって道の達人であって、詩人であって宗教家であって、柔らかい。発想が柔らかい。さすがさすがさすが。
そうだったのか、我等はこの世へお客さまに招かれていたのか。道理で、ふんだんに最上級のもてなし、夜昼朝と王者扱いの歓待を受けていたのか。ここが我等の往生の場所であった、と彼は完了形にして受け止めたのだった。しかも、これから後も饗応無尽、尚々もてなしは尽きないのである。
お馴染み、泥鰌掬いの踊り。三味線と太鼓のお囃子が鳴って唄が披露される。頭のとっぺんから声が出ている。男性の高い声。とそこでもう足腰が浮き立ってしまう。花道から日本タオルでほっかむりした踊り手が、竹笊を右手に抱いて歩いてくる。足は動かしても上体は揺らさず、メロディに合わせて、オイチニオイチニ。観客の拍手が高まる園芸場。ムードが一挙に上がる。いっしょに歌い出したくてたまらなくなるのをぐぐぐっと抑える。舞台中央に泥鰌が跳ねる。外国人観光客もやんやの拍手だ。
来ている、雨の中を。日本庭園の美しさに、絶句した。日本という国はこんなにも美しい国だったのか。俄然、誇りが湧き上がった。横山大観の18ふくの絵ももちろん堪能した。館内の庭園レストランで昼食。ベジタブルカレーライス1200円也。庭園を愛でながら。雨は止んだようだ。
出雲大社の周辺の小高い丘の上に湧き出でる雲を見上げた。なるほどなるほどであった。縦横に走る細面の雲が十字を切って正確な編み目をなしていた。祭殿のずっと手前、向かって左手奥に、縄を張って四方清浄結界を結んだ四角な領域があった。ここへは踏み込めない。観光客も参拝客もここへは来ない。ひっそりと静まり返っている。出来るだけ躙り寄って、垣根の傍で両手を合わせ、開いた花の形に作り、これをアンテナにし、雲揚がる天空の明るいパワーを受信した。元気百倍した。広い参道の右手にはクニビキの大国主命の像があり、広げた両手のパワーにより沖島と大波が引き込まれていた。
おはようございます。ビジネスホテルの狭い息苦しい部屋の夜明け。5時半。やっぱり広い方がいいなあ。気分的にのびのびしない。昨夜は狭い狭いバスタブに体を曲げて入り、温まってからやすんだ。朝方は寒い。暖房をオンにした。朝食は1階のレストランで。その後、しばらく街を回ってみようかな、自転車で。ここは宍道湖の近く。ホテル周辺は飲み屋街になっている。僕も居酒屋で飲んだ。女将さんが玄関前の道路で見送ってくれた。杖を突いたよろよろ老爺が心配になったのだろう。
今日は境港から米子に向かう。独りは寂しい。でもそれは承知の上のはず。