「無仏無衆生」現代中国の禅僧の言である。月刊誌「在家仏教」の巻頭言にこれを見つけた。
仏なくんば衆生なし、と読んでみた。二重否定は強い肯定だろう。だから、これは、仏有って衆生あり、と読める。また更に、衆生有って仏有り、とも読める。
ここからは推論である。邪論かもしれない。
「はじめに仏有り」なのか、それとも、「はじめに衆生有り」なのか。
はじめに仏有り、故に衆生有り
はじめに衆生有り、故に仏有り
この二つがセットになっているととるべきか。
仏有りと押さえてしまへば、ここに衆生がふうと息を吐くのだ。
衆生とはこの地上に生きとし生けるものの全てで、ひとり人間のみを指すのではない。この衆生界の成り立ちを思う。成り立たせているファクター、これを仏とする。成り立っている衆生と成り立たしめている仏の、相互扶助。この不可思議調和。調和があってさぶろうがふうと息を吐いている。
仏なくんば衆生なし、と読んでみた。二重否定は強い肯定だろう。だから、これは、仏有って衆生あり、と読める。また更に、衆生有って仏有り、とも読める。
ここからは推論である。邪論かもしれない。
「はじめに仏有り」なのか、それとも、「はじめに衆生有り」なのか。
はじめに仏有り、故に衆生有り
はじめに衆生有り、故に仏有り
この二つがセットになっているととるべきか。
仏有りと押さえてしまへば、ここに衆生がふうと息を吐くのだ。
衆生とはこの地上に生きとし生けるものの全てで、ひとり人間のみを指すのではない。この衆生界の成り立ちを思う。成り立たせているファクター、これを仏とする。成り立っている衆生と成り立たしめている仏の、相互扶助。この不可思議調和。調和があってさぶろうがふうと息を吐いている。
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