わはは、難しいことを書いた。疲れた。
そのお盆も過ぎ去った。
しかし、父も母も弟も此処にずっといるようにも思う。わがこころの中にいる。
☆
阿弥陀如来は誓ってある。死者はみなを仏国土=お浄土に迎えて、往生成仏を完成することができる、と。
仏様が、地獄を造られるはずはないではないか。
よしんば地獄界があったとしても、そこで苦しむ者をまず一番に救済されるはずである。お慈悲のかたまりである仏様が、苦しむ者を苦しませたままにはなさるまい。
この老爺はそう思う。
わはは、難しいことを書いた。疲れた。
そのお盆も過ぎ去った。
しかし、父も母も弟も此処にずっといるようにも思う。わがこころの中にいる。
☆
阿弥陀如来は誓ってある。死者はみなを仏国土=お浄土に迎えて、往生成仏を完成することができる、と。
仏様が、地獄を造られるはずはないではないか。
よしんば地獄界があったとしても、そこで苦しむ者をまず一番に救済されるはずである。お慈悲のかたまりである仏様が、苦しむ者を苦しませたままにはなさるまい。
この老爺はそう思う。
12
地獄はあるか。極楽はあるか。天界はあるか。あるという人もいる。無いという人もいる。あった方が気が楽になるのなら、「ある」を尊重していいだろう。「ない」とした方が科学的、近代的だと思うなら、そうしていいだろう。死ぬ実験なんかできないのだから。
臨済禅の白隠禅師は、あるとき、信者に問われた。「和尚さん、あなたは死んだ後でどちらに行かれますか」禅師は、「己は、地獄に行く」と答えられた。「それはまたどうしてですか?」「一生仏道修行をしても地獄行きですか」、信者さんが尋ねる。「己が地獄に行っていないと、もしもあなたたちが地獄へ堕ちたときに困るだろう」「儂は坊主だから地獄に堕ちた者を救うのが役目だ」と答えられた。
地獄があるのなら地獄へ行く。これが救済を任務としている僧侶の仕事である。いや、これは仏道修行者だけが選ぶ選択肢ではない。慈悲の行は此処で、地獄でこそ、実践がなされるのだ。それができる力が具わっているのなら、人間修行が一気に進むだろう。
天界、極楽界はおのれひとりの快楽をむさぼるところではあるまい。
11
そういう救済策があるという。此を聞いた遺族たちはさぞかし喜んだことだろうと思う。愛する人を地獄界から救い出して上げられるのだ。お盆の間は地獄の釜の蓋が外されるらしい。子孫のもとに戻って来てご馳走が食べられるらしい。
お盆。お盆が来て、お坊さんたちに布施をした功徳を廻向されて極楽界に移住ができることになったのだから、先祖様も子孫のみんなもさぞかし安心をしたことだろう。
この慈悲の実践、布施行がお盆となって日本に伝えられてきた。奈良時代にはすでに公家たちの上流貴族の間ではそういう行事を組んでいたらしい。以後民間信仰となって流布拡大して行った。
10
木蓮尊者はお釈迦様に救いを求めた。お釈迦様は、あなたのお母さんはあなたが自慢であなただけが可愛くて、集まってくる他の子供たち、出来損ないの子供たちを愛することができなかった。おいしいものを我が子だけに隠して与えているその生前のお母さんをお見せになった。溺愛は愛情のむさぼり、つまり慳貪の罪に当たる。その罰を受けて償っておられるのだとお話になった。(このあたりは僕の脚色が濃いめだから、8掛けくらいに受け取って下さいね)
では解決策はないのか。あるのだ。それがお盆だ。お盆の行事だ。お釈迦様は雨安居を追えた修行者たちに、お母さんに代わって布施をしなさい。慈悲の行を実行しなさい。そう教えられた。托鉢する者に食べ物を与えなさいと教えられた。この功徳を積めば死者に廻向ができる、供養ができるという方策を教えられた。お盆はだから布施の実践行をするときなのだ。修行僧たちにご馳走を振る舞って、その布施の行を死者たち、先祖たちに廻向(えこう=回し向ける)するのである。これで慳貪(愛情のむさぼり)を捨てる修行としたのである。(このあたりも8掛けで、差し引いてね)
9
お釈迦様のお弟子の一人に、木蓮尊者という方がおられた。神通第一と言われた人だ。ある日、その神通力を生かして、亡くなったお母さんは今どこにいてどんな暮らしをしておられるのか知りたくなった。姿を探して回った。極楽世界を探したが姿が見えない。あんなに自分を大切に可愛がってくれた母親なら、極楽に生まれていてもよかったはずなのだ。木蓮尊者は、もしかしてという不安に襲われた。地獄界まで降りて行って探したら、あろうことか、お母さんが骨と皮ばかりに痩せ細って、逆さ吊りにあっていた。鬼どもが集まって百叩きの刑を執行していた。信じられない光景だった。悪いことは何もしていないと思い込んでいるので、お母さんは鬼どもに食ってかかるばかりで、懺悔に行き着けない。
ひもじがっているお母さんに食物を与えようとするが、口の中に入る前にそれが火になって燃えてしまうではないか。
8
よしんば最上最高最善の天界、天国に行けたとして、そこで己一人が幸福に酔って、地獄界の者に哀れみも催さなかったとしたら、そういう人間が善人といえるかどうか。最上最高の人間であれば、哀れみを催して即行動を起こすだろう。救済に乗り出すだろう。とてもじっとしてなんかいられないだろう。持ってきた善果は、たちまち人に分けて与えてしまうだろう。
地獄界に堕ちた人でも生涯悪事ばかりをして過ごしたというひとはいまい。徹底した善人もいないように、徹底した悪人もいないはず。己に悪を迎えて他者に善を譲って来たというケースもあるだろう。己一人を善人にして過ごすことに虚偽を覚えて偽悪に走ったという例もあるだろう。人には辛く当たったがその分を善人よりも多く後悔した、懺悔したという悪人だっていただろう。
人間に生まれたことが善だったはず。生まれた子供は親を喜ばせたはず。人の存在そのものが善のはず。何かの使命をそこで果たしているのだ。そこにそうしているだけで、人知れず、まわりを慰め励していたことだってあったはず。無言のぬくもりを提供したことだってあったはず。
7
逆さ吊りは、地獄に落ちた者が受ける刑罰である。逆さに吊り下げられて地獄の鬼どもに百叩きの刑罰を受けて苦しんでいる。罪人の最期だ。
しかし、一生涯、罪を犯さないで暮らせた人というのは皆無だろう。魚の命、獣の命、野菜類の命を食って腹の足しにしてきたではないか。虚言、嘘、悪口雑言も数え切れまい。性欲が高まらなかったら子供は生めなかったはず。良いと思ってしたことが相手を追い詰めてしまっていた、苦痛を与えているだけだったということも無数にあるだろう。善悪なんて定まってはいないのだ。
懺悔の目を己に向けていけば、皆一様に地獄行きなのではないか。親鸞は「地獄は一定住処(すみか)ぞかし」といって己を悪人と見なしていた。
6
死者はあの世(霊界)に赴く。その説がある。行って戻ってきた前例がないから、あくまで仮説の域を出ないけれど。その仮説によれば、霊界には高いところと低いところと中間のところとがある。高いところは天界、天上界。善因を積み上げて善果に甘んじて安心していられるところ。低いところは地獄界。犯した罪や、背負った咎を此処で償う場所。中間は「中有界」で行く先がはっきりしていない場所。裁判を待っている場所。そういう設定がしてあるようだ。
これは生きている間には「いいことをしなさい」「功徳を積みなさい」という道徳に繋がっただろう。利用するには格好のセオリーだ。悪事を働こうとしたときにはブレーキにもなっただろう。
5
盂蘭盆会(うらぼんえ)の盂蘭盆は梵語ウランバナの音訳後。「倒懸」「逆さ吊り」のことらしい。古代イラン地方のペルシャ語の「ウルヴァン=霊魂の義」に由来するという説もある。祖霊信仰というのは万国共通なのかもしれない。
死者は何処へ行くのか。何処へ行ったのか。そこでどうやっているか。どうやって暮らしているか。幸福にしているのか。不幸になっているのか。苦しんでいるのか。楽しんでいるのか。生きているうちにできることはないか。生きている者が何かしてやれないか。やれるとしたら、どうすればいいのか。誰もがあれこれ考えて、気持ちの整理がつかなくなってしまう。
4
死者のことが気になってしようがないのだ。後に残されている人は、死者が苦しんでいないか悲しんでいないか、地獄に落ちていないか、心配でならないのだ。もしももしも地獄に落ちているのなら、地獄から救い上げてやりたいだろう。この世からそういうことができるとすれば、極楽に移住できるように取り計らってあげたくなるだろう。遺族たちは、こうやって供養をすることに熱を込めるようになった。この世からあの世へ功徳を廻向をすることができると信じるようになったのだ。