今まで左だったのに今度は右。右手が挙がらない。損傷を受けたわけではないのに、肩先に強い痛みがある。シャツが脱げない。着れない。50肩にしては遅すぎる。ともかく痛い(+。+)。困った。右は利き腕。何をするにも使う。
そうか。右腕がアピールをしたってわけだな。日頃なんとも思わず酷使に及んでいた。その反省を強いられたのかもしれない。しかし、そんな意地悪をするようにも思えないのだが。
痛い。ともかく痛い。撫でる。摩る。
今まで左だったのに今度は右。右手が挙がらない。損傷を受けたわけではないのに、肩先に強い痛みがある。シャツが脱げない。着れない。50肩にしては遅すぎる。ともかく痛い(+。+)。困った。右は利き腕。何をするにも使う。
そうか。右腕がアピールをしたってわけだな。日頃なんとも思わず酷使に及んでいた。その反省を強いられたのかもしれない。しかし、そんな意地悪をするようにも思えないのだが。
痛い。ともかく痛い。撫でる。摩る。
怠け者が夕方、日が翳ってから、とうとう牛蒡の種蒔きをした。ふふ、怠け者が。そろりそろり畑に出て。で、種蒔きは完了した。これでよし。後で水を散水した。これでよし。発芽するには10日はかかるだろう、よくは分からないが。まあ、猶予を見よう。発芽したら,若いうちに食べてしまおう。根も葉も茎も食べてしまおう。うん、それがいい。牛蒡は全身が薫りだ。薫りはおいしい。
作業を完了して空を見上げた。白い白い夕月が出ていた。半月だった。
風に触れていることは即大日如来に触れていることである。空気を吸っていることは即大日如来を吸っていることである。空に守られていることは即大日如来に守られていることである。何処を切り取ってもそこも大日如来の全身である。常に加護されているのである。常に引導されているのである。
風に触れる。空気を呑み込む。空を見上げる。さぶろうはこうして安心をもらう。
ふうううん。大きく息をつく。
死なないでいることが生きていること。その通りなんだが、生きているということは、じゃ、死なないでいるということなのか。それで説明が完了するのか。
じゃ、それ以上の何が欲しいのか。何が盛り込まれていなければならないか。足りないようにも、足りているようにも思える。
さぶろうはたしかにその二項目を満たしている。死んでいない。だから、生きている。
どういう風に生きているか。それは不問にしていてもいい。いいのかもしれない。それは、「どういう風に死なないでいるか」の問いに等しいのかもしれない。それに答えるのは難しい。
それはそうなんだが、さぶろうは大きく息をつく。生きているということはこういうことであると胸を張って答えるには何かが欠落しているようにも思えるからだ。
ああいい。いい気持ちだ。暑すぎもしない。寒すぎもしない。ちょうどいい気温。カジュアル服を着て寝椅子に寝そべっている。空は青空。網戸からひんやり南風が流れ込んでくる。僕は暫くとろとろとうたた寝をしたようだ。庭ではカサブランカの花が満開を迎えている。匂いが強烈だ。
電話の音で呼び覚まされた。高校時代のクラスメイトからだった。新聞の読者の欄に投稿していた今朝の僕の記事を、彼女は読んでくれたらしかった。声を聞いて懐かしくなった。何十年ぶりだろう。声が若かった。福岡に住んでいるらしい。彼女は優秀だった。県庁に勤めていた。
ヘリコプターが轟音をとどろかせて飛んでいる。寝覚めに、珈琲でも一杯飲みたいところだ。
お昼は、わざわざラーメンを食べに、30分掛けて、尼寺まで行って来た。豚骨スープ。麺が細麺。店は立て込んで繁盛していた。近隣ではやや高めの570円。おいしかった。熱いスープを飲むので、汗を掻いた。豚骨は口がいつまでも匂う。帰宅して急いで歯磨きをした、ゴシゴシ念入りに。
眠くなってきた。窓から涼しい風が入る。僕は寝椅子にゴロンとなった。日中は畑仕事はしない。
牛蒡を削いだ。合わせて2本。包丁を使ってすっすっすっすっ。こういう細かい手作業が大好き。時間が長くなっても、ちっとも苦にならない。妙な性格だ。で、手を挙げてやらせてもらう。手を挙げる前にもう、仕事が回ってきている。
今夜当たり、牛蒡入りの炊き込みご飯が食べられるかもしれない。スープになるだけかもしれない。きんぴら牛蒡に化けるかもしれない。煮物でもいい。牛蒡はくんと匂う。この匂いがたまらない。削いだ手先が、ちゃんとしっかり洗っておいたのに、まだ匂って来る。鼻が効く。
パソコンのメンテナンスをしてもらったら、さすがに動きが速い。何だか気持ちがいい。で、今朝はブログを矢継ぎ早に書いている。
旅に出て行くより安価だ,こっちの方が。旅先の宿泊代がなにしろ高い。実際の所、白状するがお金の工面がなかなかつかない。でも、やはり、尚且つ、旅に出て行きたい。気がはやる。ふくらむ。困ったものだ。
打ち消すにはブログだ。これを書いていたら忘れてしまうだろう。旅に出たいなんて言わなくなるだろう。
空は明るくなったり曇ったりしている。雨ではない。でも、降りそうにもしている。畑に出て牛蒡の種を蒔く計画をしているのに、怠け者はどっかり腰を下ろしたままだ。
収獲されたズッキーニ、胡瓜、隠元豆が,台所のテーブル上に山盛りになっている。とても我が家だけで消化できるものではない。他所さまにお分けしなくてはならない。電話をしたら、そこもここも、「ええ、我が家でも収獲が出来ています」の返事。愛する野菜たちの引き取り手がない。
「我が念願」
夏山の季節である。山開きも近い。山道を辿って行くと、登山者は礼儀を重んじて挨拶を交わすので、暑い夏でも涼風を感じる。
わたしの贔屓の山は地元の八天山である。標高は約430mほど。嘗ての修験者の山らしく道は細く急峻である。中宮付近に石仏がある。山好きの人の山で、頂上までほぼ雑木林の木陰を歩く。高校登山部の練習の場でもある。山頂近くには、もたれ合う二つの巨大な巌がある。ここが八天神社上の宮で、巌がご神体である。岩と岩の隙間に土器が奉納されているので土器山とも呼ぶ。ここまで登ると、眼下を流れ下る城原川を一望できる。
或る時、以後100回登頂を決断した。ところが54回目を前にして病を得た。残りを断念した。病は順次回復傾向にあるが、断念は覆らない。空が夏を映すと山が気になって来る。老体に鞭打ち且つは手助けを仰ぎつつ、我が足でもう一度、白雲起こり南風薫る山頂に立ちたい。これが我が念願である。
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今朝の西日本新聞、オピニオンこだま欄にこれが載った。掲載されたのはこれが初めてである。6月8日に原稿用紙に手書きして投稿した。嬉しい。
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今年の夏は実現をしてみたい。屈強の人の肩を借りて、とぼとぼとぼと数時間を掛けて。炎天の夏であっても、山頂の風は涼しいだろう。眺望すれば風景はすべて涼しいだろう。
わがそばにいてほしい人どこかこうふんわり白い夏雲に似る 薬王華蔵
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少年のわたしに、いてほしい人がいる。ここにいてほしいという人がいる。そういう人がそこにいてくれるだけで,少年のこころが安らげる。恋人と呼んでもいい。呼ばなくたっていい。見知らぬ人だっていい。まったくの架空の、イリュージョンだっていい。そこにその人の位置を確保しておきたい。少年は中々大人になれない。独り立ちが出来ない。
わたしの「傍」といってもくっついていて呉れなくともいい。遠く離れた夏雲であったっていい。青い山であったっていい。もちろんエンジェルだったっていい。天邪鬼だったってかまわない。やさしい会話が成立すればいい。言葉も要らず、以心伝心だったらもっといい。
その人の勝手なイメージを抱く。一、ふんわりしている。二、ほんのり白い。三、実体がない。
一人はつまらない。わたしの傍に誰かいてほしい。やさしい雲のようにふんわりとして。老爺になっても、これは変わらない。外見は老いていても、その内容物は老成せず、少年の日のまま。まったく成長をしていないからだ。
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ふ。これもやっぱり落選歌だった。