野甘草の花は季節の花である。田植えの時季になるとこれが咲き出してくる。今日は城原川の川土手を、ドライブして南へ南へ下りていった。川土手にそれが咲き出していた。黄色い。茎がすういと伸び上がってそのトッペンに花を着ける。藪甘草もある。どちらかが八重咲きである。葉っぱは太刀のようにして長い。ひっそりとした風情だ。車を止めて眺めた。
シャワーを浴びた。さっぱりした。気持ちがいい。うっししーうしし、したくなる。それ、どうすること? うん、グルグル、グルグル回すこと。何を? タオルを。片手で端っこを握って。ふーん。そんなこと。
ドライブが趣味だ。よくよく車に乗りたがる。ぶらりぶらりする。遠くへ行くのも苦にならない。疲れを覚えない。
下半身麻痺だったのが、長いリハビリを経過して、右足の機能を取り戻した。閉じ籠もり、寝た切りでなくてすむようになった。鬱屈が解けた。活動できるようになった。それもあるかもしれない。
短歌に歌い込む風景は、実景ではない。あくまで想像の域だ。謂わば、作られた風景だ。こんな風景の中に身を置いてみたいという願望も入っているのかもしれない。所詮、遊びである。何処かへ行けばそういう風景が開けてくるというものではない。
そういうことでいえば、作者は想像を委ねられた神々の独りである。自由に作る。作り出す。登場人物もそうだ。そんな人がいるわけではない。絵描きさんの絵だ。絵の中の人物である。だから簡単に恋人も作れる。超美人だってすいすい出入りさせる。いい気なものだ。
雲が薄く張り出してきて日光が遮られているけれども、暑いのは暑い。
怠け男は、例によって、縁側の寝椅子にゴロンとなって、CDのクラシック音楽を聞いている。いったん寝入ってしまっていた。だからもう一度初めから聞き直し。若い頃に全集ものを色々買い込んだ。それを引き出してきて。
いい気なものだ。音楽の知識なんかまるでゼロに等しいのに、とろりとろりして金の油に溶けている。こうして家の中にひとり閉じ籠もっているのが一番の安上がりだ。お金を使わずに済む。軒端に雀の声がしている。楽しい声になっている。
さあて、そろそろ外に出るとするか。北の畑に行って西瓜がなりついたかどうか見てこよう。実のつきが気掛かりだ。
近くに吉野ヶ里遺跡国立公園がある。新聞に、ベニバナと大賀蓮が咲いているという記事が載ったので、見に行ってきた。とも古代を引き継いでいる花らしい。広大な敷地である。障害のある足では、歩いては回れない。シャトルバスに乗って、花が咲いている場所、遺跡、資料館、体験施設などを見て回った。客はわりかし少なかった。関西弁を使っている一団もいた。園児二人を連れた家族もいた。蓮もベニバナも見応えがあった。楽しんだ。明日、ベニバナを収穫するらしい。それを使って染色体験もするらしい。体験施設には蚕が飼われていた。繭を作っていた。
シャトルバスを乗り継いで西口に戻ってきた。広大な施設を誇る国定公園である。それにしては、公園を訪れている人が少ない。それが気になった。
1
人生は悲しくしているところではありません。
2
ふむふむふむふむ。たしかにそうかもしれぬ。
3
でもそうであってもいいのではないか。悲しくしているところでもあるはず。
4
ずっとずっとそうではいられないけど。
5
悲しくないでいられるところへ移住をして来たくもなるだろう。
6
人生の規定はない。自由に過ごしていていい。適宜にしていればいい。
7
悲しくなったときに、それが耐えられないなら?
8
耐えられる場所を探せばいい。
9
探し当ててもそこへの移住がままならないのなら?
10
まずは、こころだけを移住させておくといい。
にんげんが「にんげん憎む戦争」は八月でみな終わったのだった 薬王華蔵
*
8月15日は終戦記念日。終戦したのだ。戦いを終えたのだ。だから、記念日になっているだけである。ところがにんげんはにんげんを憎み続けてもいる。国と国との戦争ではない、イデオロギーとイデオロギーの戦争、宗教と宗教の戦争、党派と党派との戦争もある。一番の主流は「人と人との戦争」である。人は人を愛することが出来るけれども同時に、憎むことも、それと並行してやってのける。歴史上では1945年の8月で終わっているが、「にんげん憎む戦争」はまだ終わっていない。
*
これも落選したもの。短歌の部類には入らないかもしれない。
シジュウガラは昼の配達 ホトトギスは夜の配達 ポストふくらむ 薬王華蔵
*
もちろん声の配達である。声はことば。ことばは意を伝達する。山里のわたしの家のポストは、パンパンに膨らんでいる。昼間はシジュウガラが鳴き通す。夜はホトトギスが鳴き通す。声のレターが配達されて来る。配達人は無論、それは夏の風である。
文面は多分こうだ。「外に出て遊びませんか」「楽しいことしませんか」「ねえ、ちょっとくらいはいいでしょう」「1時間? それで長いなら30分」「人生は悲しくしているところではありません」などなどと。彼らは案外、楽天家。或いはそれ以上に「オマセさん」なのかもしれない。
山の小鳥たちに人生を案内されること多し。
*
これも例によって落選の作品である。これは短歌とは言えないのかも知れない。
「ねえ、教えて」と言いたくなる。魂の空腹を満たす方法である。魂の胃袋がグウグウ鳴る。何を喰わせてあげれば、グウグウは止まるのか。大根や人参の蔕(へた)でもいいのか。それともやっぱり高価な鮪のトロでなければならぬのか。我が魂殿は、哀れ、今朝はことさら萎んで、重力圧力もうんと下がっている。で、革袋だけになってそれがたらんとしている。世の中を行き交いするどなた様も艶々してパリパリに満ちておられるご様子。羨ましい。傍へ近づいていって「ね、そのノウハウをわたしにも教えて」と言いたくなる。
もうすぐ朝の九時。南の空にぽっかり白い雲が浮かんでいる。この分だと、今日は雨は降らない。