草藪の闇夜。今夜は気温が下がり、流れてくる風がひんやりしている。草に虫が鳴いている。ロンリリ、リンリリ、チンリリ鳴いている。何という虫なのか。無学の爺には分からない。光の昼にも鳴いていたのかもしれないが、それにはまったく気が付かないでいた。夜の闇。此処は虫たちの、独自の世界のようである。誰に邪魔されることもなく、縦横無尽に、研ぎ澄まされた声でロンリリ、リンリリ、チンリリと鳴いている。
明日は別府温泉にでも行こうかなあ。ぶらりぶらり。ハートフルホテルからお誘いのハガキが来た。8800円一泊。別府までは遠い。せっかく行くのなら、3泊くらいは連泊したい。
問題はお金だ。世の中は金次第。ないなら、泊めてはもらえない。どうする?
ないから、価値が出る。あれば、金は薄っぺらだ。不思議なものだ。貧乏人には金の価値は高い。
誰が出してくれるわけでもない。質草抱えて質屋にでも行くか。では、その質草はあるのか。金目のものはない。なさそうだ。
そこをなんとかしろ。
なんとかなるかならないか。ならなければ、中止するしかない。
パソコンのメンテナンスが済んだ。引き取りに行った。メンテナンス代金12500円。ウイルス除去費用5000円。これに税金を支払った。
早速取り付けを完了した。なかなかすっきりしたようだ。使い勝手がよくなっているぞ。さかんに入り込んで来ていた邪魔が入らない。嬉しい。
あれはたしかにホトトギス。ホトトギスの鳴き声。日の熊山あたりから聞こえて来る。
雨が降っているのに。傘はあるか。蓑を着ているから濡れないですむのかもしれない。
あればただひたすらアイラブユーなのか。雌に対しておいでおいでの歓迎をしているのか。愛情表現歌なのか。
世の中、すべてアイラブユーだけですませられたら、どんなにいいだろう。
雄に対しての縄張り争いということもある。ならそうではあるまい。寄るな来るな入り込むなのヘイトスピーチということになる。
言葉の葉っぱ、思いの葉っぱは、愛と憎しみの裏表一枚の葉っぱなのか。
わたしは我が儘者。限りなく限りなく我が儘を押し通す。
やりたいことしかしない。やりたくないことはしない。努力をしない。勤勉をしない。
好きなことしかしない。それも嫌いになれば、そこで終わり。後は見向きもしない。
すまないすまないと口の中だけでブツクサ詫びてはいるが、改善をしたためしはない。
人様からすれば、まことに付き合えぬ人物であろう。だろうなあだろうなあ。
☆
近くの木の藪に来て小鳥が頻りに鳴いている。雲雀によく似た鳴き声だが、こんな山の中に雲雀が来るはずはない。
こういう我が儘者を慰問に来てくれている。小鳥のお慈悲を尊重しなくてはなるまい。
朝はパンを囓って済ませた。自家製手製の固いパンを。で、ムシャムシャ噛み砕いた。
そろそろお昼が近い。
腹は減ったか。減っているはずはないのに、ごろごろと腹雷さまが鳴っている。
朝顔の花はまだ咲かない。支柱いっぱいに蔓を伸ばしているけれど、知らんぷりを通している。花を咲かせると、さぶろう爺が喜ぶと知っているのに、知らんぷりを通している。葉っぱは青々として大きくて勢いがいい。庭先で雨に打たれている。
さぶろうは花の咲くのを急いている。種を蒔いたのは誰だ、水撒きを続けてきたのは誰だ。などと恩を着せている。こういう爺を前にすれば、朝顔は、さぞ、暑苦しかろう。
罪滅ぼし。と、言うけれど、罪って滅ぼせるのかなあ? 償えるのかなあ。
他者に対して悪を為せばそれは罪となる。処罰を受けねばならぬ。法の下に裁かれる。社会的には処罰される。
他者に対して善を為さなかった場合でも、実は同様なのではないか。
善を己の牧場だけで栽培していたことになる。それでそれの悉くを自利に費やしてきたことになる。しかしこれは処罰の対象にはならない。
善人の顔は保たれる。罪滅ぼしも、なくてすむことになる。
☆
利他の行いへ進まねばならね。大乗仏教はその考えに進んだ。実践を重んじるようになった。経典を読んで悟りへ近付いても、菩薩道とは言えないとした。社会性を持った菩薩道である。悟りの洞窟を出て、社会の中へ、現実社会の奥へ奥へと進んでいく。
実践でしか、罪滅ぼしができない。そういうことなのだろうか。災害が勃発すると、災害地へ赴いてボランティア活動をする人たちが増えているようだ。
☆
さぶろうはそれもしない。寝椅子に寝て、不善を為して、ごろんごろんとしている。
弟は死んだ。兄のわたしは生きている。死なないで生きていれば毎日よいことをして過ごしていても良さそうだが、そうはなっていない。くだらなく兄は生きている。弟にそう中傷されそうだ。オレは生きたかったのに死んだ。生きていればこれもしたかった、あれもしてみたかった。どれも出来なくなった。兄貴はそこが違う。あれもこれも何でも出来る。しようとすればできるじゃないか。などといわれてしまいそうである。ところが、何もしないでごろんとしている。寝椅子にゴロンと転がっている。雨を眺めている。進歩もない。向上もない。だらりだらりして怠け者を通している。これで申し訳が立つか。立たない。まるっきり立たない。だらしなく生きている兄貴で済まぬなあと言うしかない。
よいことが出来る人は、この同じ分量だけ悪いことも出来る。住んでいるフィールドには善悪が混在しているからだ。善と悪の互いの隙間に、それぞれが隙入ってくる。油断をすると領地を占領される。高気圧低気圧も互いを好敵手としている。晴れているかと思うと曇る。やがて雨になる。
善悪ともに、行動をしないでいればいいのだろうか。思いだけなら、善悪、白黒が形を取らず、はっきりしないので、結果を引き受けなくとも済む。思いは行動の手先。善の行い、悪の行い、行いに進む前に、思いの段階で思い止まればいいのである。
善によく似た悪もある。悪によく似た善もある。区別がつきそうだがつかないこともある。善に似せた悪もある。悪に似せた善もある。混じり合っているのかも知れぬ。沼地の底の泥の状態かもしれぬ。水面上の純粋培養善、純粋培養悪はほんの僅かかも知れぬ。