しきりにしきりに父が思われる。父をしてくれた人のことが思われる。この世にあってこのお方は、親しくわたしの父となられた方である。わたしを子として愛情を注がれた方である。その方が亡くなった年齢をわたしは過ぎている。父のことがしきりに思われる。外は雨のようだ。風が鳴っている。手術の日の夜にも彼はわたしの夢を訪ねて来た。心配だったのだろう。もう35年も逢っていない。それでもまだ繋がっている。その深さ長さを思って熱いものがこみ上げて来る。わたしはご覧の通りの怠け者だが、父は何度も何度も入退院を繰り返しながら、そもでも平然と仕事を続けていた。人様の面倒をみるのが好きだったようだ。そんなに勤勉だったが、お金儲けが上手ではなく、遺産はなしだった。若い頃には水泳と乗馬の選手だった。このわたしとは似てもにつかないほどの美男子だった。
父がひどく懐かしい。この朝はとりわけ。どうしてなんだろう。わたしの父をしてくれた人のことが思われる。わたしは5才。4つ年下の弟は母なる人の膝の上にいて遊んでいる。わたしはそれを傍らにいて見ている。するとそこへ父がやって来た。日頃は恐い検事の任務についている人である。わたしはその人の自転車に乗せられた。わたしは命令通り、父をうしろから両手を回して恐る恐る抱いた。蓮の花が咲き誇るところに着いた。蓮根栽培の田圃だ。自転車が止まった。わたしは父に列んで立った。泥の臭いに混じって蓮の清らかな匂いが風の中を流れて来た。空が赤く焼けてやがて夕暮れになった。
夜明け方ぴたりと蛙の鳴き声が止んだ。シュプレヒコールが止んだ。ぴたりと。指揮棒で指揮された如くに。どうしたのだ。何が起こったんだ。説明を求めたが見事に拒否された。それに代わったものがあった。静寂がまた破られた。雀が一斉に歌いだしたのである。6月12日がこうしてなごやかに祝われた。
わたしは火の中にはいない/わたしは土の中にはいない/わたしは光の中にいる/
わたしは鉄の中にはいない/わたしは泥の中にはいない/わたしは風の中にいる/
わたしは冷淡の中にはいない/わたしは疎外の中にはいない/わたしはすべての愛の存在のただ中にいる/
わたしは災いの中にはいない/わたしは壁の中にはいない/わたしは無限のひろがりの中にいる/
いっときの休憩もない。ずっと鳴き続けている。喉が張り裂けてしまうんじゃないかなあ、喉をつかって鳴いているのだとすると。小さな形をしているのに、あれだけ大きく平野を響き渡らせる。アイラブユウをこれだけ堂々と一晩ひっきりなしに広言できる蛙族。何千何万いるか。とにかくアイラブユウ。たったこれだけである。聞いている人間のわたしには、しかし、まったく個々の違いが読み取れない。だが耳のいい、発達した、健康なメスには、違いが読み取れて、「あ、この声だ、わたしの求めている声だ」などということになるのだろうか。めでたくその夜のうちに結婚式まであげてしまうのだろうか。そうだろう、きっと。何千組かのカップルがこうして一晩みんなから祝福を捧げられることにもなるのだろう。それに引き替え、さぶろうのようにもてないオスもいるだろう。たしかにあきらかに何から何まで劣っているという不運な輩もいるだろう。だがしかし、それをものともせずに、相手にされるまで、とにかく辛抱強く鳴く。引き下がらずアピールを続ける。めげない。この一手あるのみ。「わたしはいい男です」「あなたを幸せにします」こればっかしを唱え続ける。さぶろうよ、ちったあ真似したらどうだ。ふん、やれないね。この強引はオレには1gもない。