昼間うとうとうとと眠りこけてしまった。その間だけ、時計の針がいつもより数倍も早回りをしたようだった。惜しいことをした。その分、外に出る時間が短くなってしまった。その代わり、夕闇せまる直前まで懸命に、つまり怠けないで、農作業をした。
ジャガイモを掘り上げた。小さいのから食べることにした。茹でたのにバターを塗って、口に放り込む。もぐもぐもぐもぐ。咀嚼する。おいしいので唾液が地下水脈になって溢れ出る。
あなたのおいのちがこうしてわたしのいのちに合流して、統一される。あなたがわたしとなったのだ。死なずにわたしにあって生きたのだ。主宰者を歴程はするが、常に〈わたし〉となって活動をするだけなのだ。
わたしもこうであらねばならない。死なずに宇宙にあって生きるようになるのだ。大丈夫だよ。この宇宙にあっては、無駄になることは一つもないのだから。犬死にすることはないのだから。
すべてが生かし合う世界にわたしたちは生まれて来ていたのだった。生かし合うのは崇高な愛の活動である。さまざまに形を変えながらだが、愛の活動自体は不変なのだ。普遍といってもいい。
さ。またこれから外に出る。草取りをし残している。それから? それからは北の畑に里芋を植えに行く。なあに、すぐにすんでしまうけど。それからは? それからはしばらく休憩。休憩しながら風の音を聞く。静かにしていると聞ける。それからは? 夕方になったらサイクリングに行く。いろいろすることがあっていいね、さぶろうは。そうしていると楽しいんだろう? そりゃあね。楽しい時間が孤独を今夜の寝床まで運んで行ってくれる。ネズミモチの木に星を数えさせながら、僕はそれで寝てしまう。
こんな調子だ。さぶろうはいつもこうしてひとりでお喋りをしている。まるでそこに誰か人がいるようにしているけど、誰も人はいない。人はたしかにいないけど、だから誰もいないってことにはならないかもしれないが。
ちょっと静かにしててね。そう言って、いままでずっと聞いていたバッハの曲を消しちゃった。空を見ていたい。音楽が鳴っていると空に集中できない、なんだか。
そんなときもあるさ。
空を見ていて、さぶろう、それでどうするつもりなんだい?
どうにもしない。空に手は出せない。だから見ているだけ。それでいい。
空が好きなんだね。
うん。好きだ。どうしてだかは分からない。空がしきりに呼んでいるような気がする、いつも。
だからそうやっていつも見ている?
ほんとに呼んでいるかもしれない。
さぶろうにはもう一つのブログがあります。アメーバブログです。(8888waohで検索できます。)ここに今朝「死は死んだふりである」ということを書きました。(飛躍飛躍が多すぎたのですが) これが気になっています。いやね、案外ほんとうかもしれないと思ったりしているので。
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人間の死は実は死んだふりだったのではないか。このクエスチョンが気になっています。
ほんとにそうなのではないかと思って。でもうまくそれを言葉にすることが出来ません。証明不可だから。だから、ただのインスピレイションに過ぎないのですけど。
一つの変形なのではないか、と。バリエイションじゃないのか、と。模様替え、衣替え、場所替え、住む次元替えなんじゃないか、と。
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死んだフリをする賢い動物はいますよね。騙しです。敵をこれで欺くことが出来ます。一種の擬態ですよね、これって。すると敵は退散をする。それを見届けてからフリを解く。これで次の状況に進める。
フリなんかしないで堂々としている植物も居ます。いやに堂々と死んで行くのでこれには訳があるんじゃないかとも思います。大丈夫だというふうにすっかり安心しきっているのはそれなりの背景があるからなのではないか、と。裏事情があるのではないかと。それにふさわしい約束が出来上がっているからじゃないのか、と。
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人間はこうはいきません。死ぬ本人も見送る側も泣きの涙になります。恐がります。悲しみます。冷たくなっているのですからとても死んだふりには思えません。ご臨終ですと医者が宣うのを受け入れるしかありません。
それでも、死んだふりだと。その場逃れをしたに過ぎないのだと。たしかに呼吸は止めたけれど、肉体以外がそれに代わる呼吸をして、新しい生命体・霊体になって、次の新しい命をもらいうけに行って来る。その間も生命体はしっかり持続している。停電にはなっていない。
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肉体が死んだことは、肉体が代わって死を引き受けたことであって、生命体の本質はその間にまんまと擦り抜けて、次の打つ手を打っている。次の新しい活動に入っている。死んでなんかいない。影武者は死んでしまうがほんものはちゃんと生きを図っている。・・・今日はそんなことを考えてみました。
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ここは仏界です。仏さま菩薩さまがおられる世界です。仏さまは無闇に殺人をなさいません。人間を殺しておられるはずはないのです。ちゃんと生かしておられるはずです。
日本男子バレーボールはなかなか勝てないねえ。世界の壁は高いねえ。オリンピック出場の希望が消えかけている。応援はしているけど、負け試合を見ているのが辛いので、途中でテレビ観戦を止めてしまった。こんなときこそ応援しなくちゃならないのにねえ。でもたしかに1勝は勝ちを制したんだからオール日本よ胸を張ろう。うううううん。それじゃ、胸のつかえがとれないかなあ。女子のオリンピック出場権獲得はおめでとう。男子へのあてつけに聞こえてしまうのかもしれないが、おめでとうはおめでとうだ。男子の分までがんばってくれるにちがいない。
夜が明けた。ごそごそごそした。明るい青い空だ。こんなに祝われているというのに、このまま家の中に籠もってなんかいられない。農作業用の上下に着替えて6時にはもう畑にいた。草取りに励んだ。硬くなっていた土を掘り起こして耕した。土は嬉しそうにふかふかとなった。気温が低いのに、あたたまった。それから庭へ回り、ほっかぶりをして松の剪定にかかった。たくさんの新芽を切り落としたら、足の踏み場がなくなってしまった。枝に積もっていた枯れ葉が首に入り込んで刺すのでチクチクした。それでもたしかに祝祭の日だった。こころは大空になってからりと晴れ渡っていた。
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祝われている我が身かな 澄み渡る空をし見ればそれと知らるる 李 白黄
祝われているということは祝う者がいるということだ。一方的ではないはずだ。受け止めたということは放つ者がいたということだ。その行為が具体化されているということだ。感情というのは両者がいて初めて成立が出来ることなのだ。能動者がいるので受動ができるのだ。
泣いちゃった。さぶろうは泣きべそ屋だ。テレビの映像で泣く。サリドマイド児童だった彼女はいまは大学2年生。ハンデイを乗り越えて乗り越えて来た。いま陸上部で走っている。片腕が臂で止まっているので、スタートの時に背中が斜めになってしまう。思い切って人工の手をつけるようになった。重さ500g。こうするとスタートの姿勢がよくなってダッシュが早くなった。100m走で自己新が出せた。グランドに照りつける日射しの中の彼女は、いかにも嬉しそうだった。ここまでの道程のことを、僕は推測した。辛かったろうなあと思った。支えてきた周囲があったはずだ。この日家族がこの栄光を見ていたら泣いているはずだと、そう思ったらもうダメだった。涙のダムの放流が始まった。眼からだけでなく、鼻からも流れて来た。ひとしきり泣いた。泣いたら、なぜだかひょいと大空の神さまになったような気持ちになった。神さまも嬉し泣きに泣いておられるだろう。光に遇うまでの闇だったのだ。歯を食いしばってここを歩きしめてきたお陰で、光が光として輝き出して来ているのだと思った。明るい顔の彼女と神さまを讃えたくなった。
夕暮れになって往復1時間のサイクリングをしました。川土手を南へ南へ下って行きました。帰りは登り。それに向かい風。ペダルが軋みました。風はもうほとんど突風という感じでした。
行き掛けに恐い目に遭いました。カラスが襲って来たのです。数羽で後ろから。土手に降りていたのが近づいてもなかなか動きません。やっと飛び退いたかと思うと今度は真後ろからばたばたばたと羽音を立てて近づいてきます。背中をつつかれるかと思いました。まったく横暴です。ヒッチコックの映画のシーンでした。とっさに腰に垂らしたタオルを大きく振りました。
我が家の隣に大きくなった枇杷の木があります。ここには90才を越えた姨様がひとりで住んでおられます。ここ数年管理が行き届いていません。枇杷の実が熟れて来ました。そうすると夥しい数のカラスががあがあ鳴きながら集まって来て、瞬く間に食い尽くしてしまいました。我が家の畑には色づいたトマトがあります。カラスは金属音が嫌いです。それで炊飯器の古くなったのを鍋の古くなったので叩いて追い散らしました。これを恨みにおもったようです。
サイクリングから戻って来たら赤いトマトは食いちぎられていました。