5階の病室にやっと夜風が流れて来るようになった。顎の下に汗がじっとりして留まっている。9時半。もう消灯時間だ。
同入円寂 平等大智 仏教経典「舎利礼文」より
どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち
同じく円寂して、平等の大智に入らん。
死んだ後にはともにともに安らぎの涅槃を体現して、何人も絶対平等の仏さまの智慧を授かります。生前も死後も変わりなく絶対平等の仏の世界に遊んでいるばかりなのですから。
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これはさぶろうの受け取りです。さぶろう流の解釈ですから、正確度が薄弱です。
生きているときと死んだ後とで違いが有るはずがありません。仏さまのお慈悲は貫かれているはずです。
よね。
仏加持故 我証菩提
「舎利礼文」より
仏は加持したまふが故に、我は菩提を証するのみ。
ここは仏さまのおはからいの世界ですから、仏さまがわたしを徹頭徹尾守り導かれています。だからここでのわたしの仕事はただ仏さまの菩提、安らぎをこの身に体現していくばかりなのです。はい、わたしごときのはからうところではないのです。
(..;)(..;)(..;)
これはさぶろうの解釈ですから、当てにはなりません。
仏の世界である法界を離れていることなどなかったのである。わたしがそれを知っていようといまいと、どの道わたしがそこを離れていることはなかったのである。一息一息を確かめるようにしてわたしはこの法界の王であり続けた。
為我現身 入我我入
舎利礼文より
いがげんしん にゅうががにゅう
我が為に身を現して、我に入りたまひ我をば入らせたまふなり。
釈迦如来はわたしのために法身を現してわたしの真身にお入りになられ、またわたしを法界に入らせたまうのである。
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息を吸う。するとわたしの中に仏がお入りになった。するとそこで、たちまちわたしは仏身となった。
息を出す。するとわたしは今度は仏の法身の中に広がって行った。するとそこで、たちまちわたしは法界の仏身となった。
吸う息、吐く息のふたつながらがわたしとブッダとを密接にして結びつけていた。
わたしはこうして常に仏の法界にあった。
よいところへ、よいところへ導かれている。わたしはそう思って来た。いまでもそう思っている。だとすると? だとすると、わたしはもう随分いいところまで来ているという計算になるのだ。10年前よりも20年前よりも30年前よりも、ずっとずっといいところへ、遙かにいいところへ。格段にいいところへ。ここがそこだということになる。わたしは最もいいところにまでたどり着いている、ということになるのである。より高いところへ、より高いところへ導かれて来た、そう思うのは間違っていないという確信がある。だが、その結果についてはまるで自信がないのである。高い位置にあるとは夢ほども思っていない。そんなふうに自己診断をするのは間違っている。横着が過ぎると思う。では、最初の仮説が間違っていたのだろうか? そういうことになるではないか。よい結果を得ていないのだとすれば。
さみしい。さみしいところに手を当ててあげるから、出してごらん。翼の白い大きな天使が言いました。さぶろうは、そこを、さみしいところを静かに差し出しました。大きな手がそこにかぶさってきました。さみしいところは胸の下あたりでしたので、そこらがあたたかくなりました。やがてぽとりとあたたかい滴もそこへ落ちました。それが誰のだったかはわかりませんでした。見上げるまではわかりませんでした。夏が近づいて来ていましたので、空にはあふれるばかりに雲が涌いて黄金の光と踊っているのでした。
へっへっへ。巧くいったぞ。やれやれだ。しめしめ。泣き寝入りしたぞ。赤ん坊め。泣きながら寝てしまったぞ。この赤ん坊、己という赤ん坊をあやすには骨が折れるわい。言って聞かせて道理が通るというわけじゃない。なんのかのと玩具をかざして誤魔化してやるだけだ。寝かしつけてやるだけだ。しかし、そろそろまた目を覚ます頃合いだ。午前7時を過ぎた。やつ、また泣き出すぞ。飴玉はないか。特効薬はないか。ある! おっぱいだ。ふくよかな白いおっぱい。これをしゃぶらせていると、やつはおだやかになる。やなやつだ。それにしても、よくよくの赤ん坊ぶり。あきれる。
賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
万葉集341 大伴旅人
「賢しみ」は「さかしみ」、つまり賢く生きている人、もしくはそう思いこんでいる人、そう振る舞ってすまし顔をしている人。偽装賢人をからかっているのだろう。あるいは己のある時の姿か。それを引きずり下ろしにかかる。爆破しにかかる。そういう衝動がこみ上げて来ることもあるはずである。偽装のままではいられなくなってしまう。
賢者にとどまろうとしている不逞の輩に向き合っているよりは酒を煽っている方がまだ己に正直ではないか。しかし酔いが深くなると泣けて来てしまうことがある。この世の無常さにひとり泣けて来ることがある。悲しいことばかりじゃないか、実際。だったら泣けばいいじゃないか。賢者を通しているよりはよほどいい。よほどそれが己に正直だ。
しかしデカダンの旅人さんよ、この世の無常をそれほどにじっと見つめていて、しかし、どうするのだ? どうなるものでもあるまいに。
聴法底。ちょうぼうてい。いまここで法を聴いている。法を聴いているときは法に聞き惚れているのがいい。法というのはこの世ということだ。ここで繰り広げられている万物自然の営みのことだ。真如界の真如、その具体的なハタラキのことだ。滝の水音がしている。蛙の鳴き声がしている。赤子が泣きわめく泣き声がしている。ここを聞き漏らさずに、耳をこれに傾けている。底とはわたしの立ち位置のことか。法を聴いているだけで、わたしははや、万法に証されている。暑苦しいわたしの、涼。これがわたしの涼の取り方だ。