さ、お昼休みが終わった。畑に出よう。ブロッコリーの根もとに牛糞を施肥しよう。ゆっくりゆっくりでいいぞ。休み休みでいいぞ。でも、あんまり休み休みでもいけないぞ。どうやら夕方から雨が降るらしいな。
わたしをわたしにしてくださっている宇宙の法(ダンマ)がわたしにはございました。
わたしがわたしであることをよろこべというのが宇宙の法でありました。
威張ったり蔑んだりしないでもいいのでありました。
わたしがわたしのままにしていることが、宇宙の法にかなったことでありました。
他の人はいざ知らず、これがさぶろうを生かす宇宙の法でありました。
本来無一物。
無一物でいいものを、さぶろうはどさりどさり所有してかかる。
本来無所有。
所有したと思い込んでもその実それを所有していなかったことを知るときが来る。
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無一物でいい。無所有でいい。これがらくちんだ。
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さぶろう、お前、仏さまのものを我が物とするな。
仏さまのものは仏さまのもの。さぶろうは無一物無所有でよかったのだ。
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来るときも無一物であったから帰るときも無一物。これもらくちん。
さぶろうは、所有にこだわることなしで、輝いていればよかったのである。
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ここでの所有は物の所有ではない。独見という所有である。独解釈という所有である。
宇宙はご存じの通りどんどこ拡大膨張をしている。
なぜか?
楽しみが拡大膨張をしているからである。
数限りない楽しみが新たに誕生するので、その場所を提供しなければならないのだ。
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さぶろう、おまえの内なる宇宙はどうだ?
どんどこ拡大膨張をしているか。
数限りない楽しみが新たに誕生しているか。
それがそうしていないとすれば、それは何故なのか。
縮小収縮しているとすればそれはどんな固定観念によるものなのか。そこに縛り付けているものはなんであるか。
内なる宇宙の膨張を阻止している頑固者がいるとすれば、まずはこのコンクリートの頑固壁を打破することから始めねばなるまい。
さぶろうは欲張りである。これがよくない。欲が張った分は執着になって残ってしまうからだ。できるだけ、だから、淡泊がいい。さらりさらりがいい。水が流れるように、流れて行った方がいい。欲張りは欲を残してしまうので、水のようには流れない。欲の解消がすむまで一点に止まってしまうことになる。
わはは。次の地点にも楽しみがあるのに、結局は、いまの欲望の消費に時を費やしてしまうことになる。それで次の地点の楽しみにまで至り着かない。宇宙はご存じの通りどんどこ膨張をしている。なぜか? 楽しみが膨張をしているからである。数限りない楽しみが新たに誕生するので、その場所を提供しなければならないのだ。
一定点の楽しみに固執するのが悪いわけではないが、楽しむべきはそれだけではないのである。倍の倍、そのまた倍の倍という具合に次々と楽しみは質量ともに倍加するのである。
さぶろうは、楽しんだ分は輝くのだと想像している。輝きの単位がなんだか知らないが、地球にいて楽しんだ分、つまり今生で楽しめた分が、仮に100輝きだったとすると、次の飛行地点の星では100の倍の200輝きになる計算である。或いは、100輝きの100倍かもしれない。そうすると200輝きどころではない。
欲張りはそれを知らない。今生でお金持ちになることが唯一最大だと勘違いしてしまう。今生の幸福量が唯一最高だと勘違いしてしまう。次の地点へ行ってみてはじめて、なあんだ俺の欲なんてのは実は限りなく小さいものだったなあ、とそこでやっと気づくことになる。
今生の生を終わることを悲しみだとしている向きがあるけれども、この認識にしても同様である。悲しいは悲しいけれども、それを打ち消して余りあるほどの楽しみが次章、ネックスチャプターで待っているのである。それを悲しみとしないでもよかったんだということを後で知るので、これもやっぱり「なあんだそんなことだったのか」ということになる。
今生の価値基準を唯一最上最高とはしなくていいのである。生死を繰り返すたびごとに命の輝きが増してくる。命の哲学が深くなる。魂の充足が強くなる。あっけらかんとなる。気宇広大になる。軽々となる。爽快になる。そういう風に考えると、それがまた楽しいのである。
はい、もうすぐここを去って行く者でございます。後に残すべきはありません。ですから執着をできるかぎり少なくしておいた方がいいように思います。後は未来行きの汽車に乗るばかりです。乗ったら、汽車は前へ前へ走ります。忘れ物を取りに戻ることはありません。旅は続きます。地球の旅もなかなか楽しかったのですが、これから先の旅もこれに劣ることはありません。わくわくする旅が続きます。楽しいことが次へ次へと続きます。忘れ物をしていたとしてもそれを思い出すことすらないはずです。
さぶろうが午前中にしたこと。7時半、朝ご飯。間引きした高菜の一夜漬けに鰹節をまぶして、それをあたたかいご飯の上によそって、いただいた。高菜の匂いがぷんとした。それがすんだら、作業着に着替えて外に出た。頭にタオルを巻いて。前日耕して柔らかくしておいた畑の土に、ブロッコリーやキャベツの苗を植え付ける作業に入った。この苗は種から育てていたものだ。丁度いいくらいに成長をしていたので植え付けに入った。有機石灰と化学肥料を撒いて土になじませたあとで。お風呂用の座り椅子に座してだから、そうそう仕事が捗るものではない。ゆっくりゆっくり。そしてホースで水撒きをした。日が高くなって暑くなった。汗が背中を流れた。11時半になって、一段落付いたので、ここまでにした。家に入る前に小葱を摘んだ。これはお昼におうどんを茹でてもらって、そのスメ(スープ)に小葱をたっぷり浮かばせるためだ。
家に入ってきてまず下着を脱ぎ捨てた。裸になって濡れたタオルで、汗が出た上半身を拭き上げた。これですっきりした。着替えを済まして、パソコンの前に座った。
おだやかでいたい。あれもこれも調えてもらっているのだから、もうこれ以上の請求事項は取り下げにしていいのではないか。少なくとも不満不平は取り下げにしていいはずである。
おだやかでいたい。欲しいと思ったものは与えられている。欲しいと思わなかったものすらも与えられている。それだけふんだんに与えられているのだから、暗い顔や尖った目つきは止めにして、しばらくおだやかでいたい。
秋の日がさぶろうに訪れている。これはさぶろうが欲しいと思ったからではない。少なくともそれを請求はしなかったのだが、無条件で与えられている。百舌鳥が来ている。石蕗の花が咲いている。さぶろうはこの秋の調和のただ中にいることが許されている。
ここまで調えられているのだから、もうさぶろうの個人的な欲求はそのトーンを大幅に下げてもいいように思える。そうした方がずっとおだやかでいられるようだ。
「おでいげにおいでおいで」の他にも、さぶろうはこれまでに幾つか(たしか、4~5ブログくらいある)のブログを書いて来ました。「おでいげ」で検索をして下さると今でもこれらを読むことができます。途中で書き込み不能になったのもあります。