<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしもその中にあった

2014年10月05日 13時54分22秒 | Weblog
我亦在彼摂取中 がやくざいひせっしゅちゅう

我も亦、彼〈か〉の摂取の中に在り

わたしも同様にみ仏の摂取の中にありました

(/_;)

摂取というのはお救いということである。抱き上げてもらうことである。

救われ難いわたしが、差別なしに無条件に、救いあげる仏のみ手の中に収まっておりました。

どうしてそんなことが分かるか。

はい、わたしにも風が吹いておりました。わたしにも光が差しておりました。わたしにも秋が来ておりました。わたしにも高い高い秋の空が広がっておりました。

それがそうならなかった状況を考えてみるといい。そしてその後それがそうなっている現況を見て、その理由を思ってみるといい。こちらがそれを願うより早くそうなっいるこの無作為を思ってみるといい。

さぶろうはこれを思って涙した。彼は罪悪人だったからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穏やかな生き方があるはずだった

2014年10月05日 08時53分44秒 | Weblog
傲岸な目をして見下ろしちゃいけないよ。尊大の顔をしちゃいけないよ。でもね、卑屈の腰つきをしてふらふら歩いてもいけないよ。柿の木の下を通り過ぎる風がさぶろうに語った。傲岸な目と尊大な顔と卑屈の腰をしていたからである。そうしなくてもいいおだやかな生き方がきっとあるはずだった。柿の実が夕日に照らされて静かに熟れていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阻害し合って生きているところではない

2014年10月05日 08時19分53秒 | Weblog
草を抜くと土の中からでっかいミミズが飛び出してきた。おれさまの宮殿を荒らしてかかるのは何処のどいつだ。くにょくにょと身体をくねらせている。武器はない。抗議のしようがない。口がない。詰りようがない。足がない。逃げようがない。しかし、それが短所だとは思えない。欠点だとは思えない。さぶろうはしばらくこれを眺めた後、穴を掘ってミミズを埋めて、草の布団を掛けてやった。ここは共同生活の場なのである。人間だけが威張っていて権勢をほしいままにしているが、この地上には多くの多くの生き物が生きて、仲良く助け合って共同生活をしている。さぶろうはそれを思って、少し変なのだが、仲良くというところで何かしらあたたかいものを感じた。阻害しあって生きているところではないのだ、というところで、神の崇高な意思みたいなものを感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地上には人間以外の生き物も生きていた

2014年10月05日 07時58分41秒 | Weblog
藪の草を払っていると、太ったカマキリ殿がお出ましになった。蟷螂の斧を振りかざして。藪の平和を乱している人間は侵略者にほかならない。藪の何処かにカマキリの居住地があったのかもしれない。団欒の家族といっしょだったかもしれない。やあ、すまんすまん。草地は広い。お引っ越しをお願いした。三角の頭が、人間の都合優先をなじっていた。これから寒くなる。やがて寒風が吹き荒ぶ。冬籠もりの用意もせねばなるまいて。この地上には人間以外にもいろいろな生き物が、それぞれの生き方で懸命に生きているのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほかに手立てを知らぬ

2014年10月05日 04時52分10秒 | Weblog
家の回りの庭や畑にいるばかりなので、視野が狭い。めっぽう狭い。視野狭窄もいいところだ。無学習だ。無教養だ。世間で何が起こっているかも知らない。これでいいのか。よかあないが、よしとしよう。ほかに手立てを知らぬ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱燗に合う

2014年10月05日 04時40分34秒 | Weblog
サラダにしたニガウリがうまい。病み付きになってきた。さっと茹でて刻んで鰹節をまぶす。マヨネーズによし、ごまだれによし、酢によし、醤油によし。これが熱燗に合う。カリカリとやって、そこへ日本酒をちびりと含む。材料は自家産である。ふんだんにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生駒高原のあたりまで

2014年10月05日 04時37分06秒 | Weblog
コスモスが奇麗だなあ。生駒高原のあたりまで行ってみたらいいだろうなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空に夕月が掛かっていた

2014年10月05日 04時27分20秒 | Weblog
ほかにすることがないので、さぶろうは日長一日、無言で土いじりをして過ごしている。幼稚園の園児のように、しゃがみこんで、これで遊ぶ。草をとったり、耕したり、種蒔きをしたり、育った野菜の間引きをしたりして。遊び終えたころには夕月が掛かっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己主張をしないので

2014年10月05日 04時15分13秒 | Weblog
ちょいと寒くなったら、隼人瓜がもう実をつけだした。勢いがある。大木を上り詰めて藪をなしている。ぷらりぷらりと垂れている。明日には長い竹竿でもいで、薄く切って、これを味噌汁にして食べるとしよう。薄緑の隼人瓜は自己主張をしないので、あっさり味噌に馴染む。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不可思議調和

2014年10月05日 03時40分18秒 | Weblog
「無仏無衆生」現代中国の禅僧の言である。月刊誌「在家仏教」の巻頭言にこれを見つけた。

仏なくんば衆生なし、と読んでみた。二重否定は強い肯定だろう。だから、これは、仏有って衆生あり、と読める。また更に、衆生有って仏有り、とも読める。

ここからは推論である。邪論かもしれない。

「はじめに仏有り」なのか、それとも、「はじめに衆生有り」なのか。

はじめに仏有り、故に衆生有り
はじめに衆生有り、故に仏有り

この二つがセットになっているととるべきか。

仏有りと押さえてしまへば、ここに衆生がふうと息を吐くのだ。

衆生とはこの地上に生きとし生けるものの全てで、ひとり人間のみを指すのではない。この衆生界の成り立ちを思う。成り立たせているファクター、これを仏とする。成り立っている衆生と成り立たしめている仏の、相互扶助。この不可思議調和。調和があってさぶろうがふうと息を吐いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする