お子さんの発達で、皆さんが 特に気になさるのは「言葉」ではないかと思う。
健診や その他の場所でも 必ず調べられるし、
遊びの場ですら、「言葉の発達が早い子」が 注目を浴び、
時には他の子のリーダーになったりもする。
場に会った、年齢相応の言葉の理解、そして会話ができるかどうか、が
子どもの品定めになっている場面を見ると、心が痛む。
私自身は、話し言葉の遅れはないが、人との会話、特に
家族以外の人との会話や、子どもとの会話は苦手で
何も 話せない事が多かった。
文字を読むことは 早くからでき、「この子は教えもしないのに字が読める」と
父親が喜んで 本を買ってくれた。読み書きの能力は 同じ年頃の子どもより
早かったけれど、話し言葉は からきしだめだった。
母親や 他の大人に 何かの説明を求められた時。
集団の中での一斉指示が、自分にも向けられている事が長い事わからなかったし、
わかるようになっても、自分が何をすればいいのかは、聞いた言葉からは
読み取れなかった。
会話が 成り立たない子でも、言葉を理解できていないとは言えないし、
会話ができていても、「Aと言われたらB]というように
パターン化して 覚えた言葉で 乗り切っているだけの子もいる。
私の長男は、文字には 慣れても、家族以外の人との会話が苦手だった。
次男は、文字も読めないし、会話も 成り立たず、私が 次男の動きや
表情、意味のある言葉だとは 他の人が気づかない「意味不明な発音」から、
意思を 汲み取って 他の人に「通訳」をした。
次男が 「自分の名前」や 「物の名前」の発音ができるようになっても、
私は 手放しでは 喜ばなかった。次男には、それは「単なる音」でしかなくて、
まだ「言葉の芽」にすらなっていない事がわかっていたからだ。
単語や 二語文、あいさつの言葉も 自動ドアの前に立てば開くのと同じで、
次男にとっては 反射的に「この時はこの音を出す」という行動に過ぎなかった。
それを 見抜いていたのは 私だけで、健診の場でも、小児科医に相談しても、
「これだけ話せて、何が心配なんですか?」と言われた。
話しているように見えるだけ、という事は 誰も気づかなかった。
逆に「言葉がない」「言葉が遅い」と 言われるお子さんと一緒になった時、
その子たちの いきいきした表情や 身体表現や目線に注目する事なく、
「言葉(音声言語)」にだけ こだわる親御さんを見て不思議に思った。
部屋に入ってきた 私達親子に さっと視線を向け、
緊張した様子になり、目をそらし、別な方向へ行き、「嫌だ」「知らない人だ」という
音声以外の言葉を 私に投げかけてくれた。
興味を持って 関わろうというお子さんは、私の上着の裾に触ってみたり、
そーっとこちらに近づいてきて、私が 動くと 一歩下がりながら、
(おばさんこわくないね)という顔をして、目を合わせてくれた。
その子たちが「言葉が無い子」と呼ばれ、言葉を話す事ができるように見える次男が
「言葉のある子」といわれる事に、違和感を感じた。
音声言語でのつながりだけを、コミュニケーションだと思う人が
大多数である事は、あの頃から 変わっていないように思い、
悲しくなる。
健診や その他の場所でも 必ず調べられるし、
遊びの場ですら、「言葉の発達が早い子」が 注目を浴び、
時には他の子のリーダーになったりもする。
場に会った、年齢相応の言葉の理解、そして会話ができるかどうか、が
子どもの品定めになっている場面を見ると、心が痛む。
私自身は、話し言葉の遅れはないが、人との会話、特に
家族以外の人との会話や、子どもとの会話は苦手で
何も 話せない事が多かった。
文字を読むことは 早くからでき、「この子は教えもしないのに字が読める」と
父親が喜んで 本を買ってくれた。読み書きの能力は 同じ年頃の子どもより
早かったけれど、話し言葉は からきしだめだった。
母親や 他の大人に 何かの説明を求められた時。
集団の中での一斉指示が、自分にも向けられている事が長い事わからなかったし、
わかるようになっても、自分が何をすればいいのかは、聞いた言葉からは
読み取れなかった。
会話が 成り立たない子でも、言葉を理解できていないとは言えないし、
会話ができていても、「Aと言われたらB]というように
パターン化して 覚えた言葉で 乗り切っているだけの子もいる。
私の長男は、文字には 慣れても、家族以外の人との会話が苦手だった。
次男は、文字も読めないし、会話も 成り立たず、私が 次男の動きや
表情、意味のある言葉だとは 他の人が気づかない「意味不明な発音」から、
意思を 汲み取って 他の人に「通訳」をした。
次男が 「自分の名前」や 「物の名前」の発音ができるようになっても、
私は 手放しでは 喜ばなかった。次男には、それは「単なる音」でしかなくて、
まだ「言葉の芽」にすらなっていない事がわかっていたからだ。
単語や 二語文、あいさつの言葉も 自動ドアの前に立てば開くのと同じで、
次男にとっては 反射的に「この時はこの音を出す」という行動に過ぎなかった。
それを 見抜いていたのは 私だけで、健診の場でも、小児科医に相談しても、
「これだけ話せて、何が心配なんですか?」と言われた。
話しているように見えるだけ、という事は 誰も気づかなかった。
逆に「言葉がない」「言葉が遅い」と 言われるお子さんと一緒になった時、
その子たちの いきいきした表情や 身体表現や目線に注目する事なく、
「言葉(音声言語)」にだけ こだわる親御さんを見て不思議に思った。
部屋に入ってきた 私達親子に さっと視線を向け、
緊張した様子になり、目をそらし、別な方向へ行き、「嫌だ」「知らない人だ」という
音声以外の言葉を 私に投げかけてくれた。
興味を持って 関わろうというお子さんは、私の上着の裾に触ってみたり、
そーっとこちらに近づいてきて、私が 動くと 一歩下がりながら、
(おばさんこわくないね)という顔をして、目を合わせてくれた。
その子たちが「言葉が無い子」と呼ばれ、言葉を話す事ができるように見える次男が
「言葉のある子」といわれる事に、違和感を感じた。
音声言語でのつながりだけを、コミュニケーションだと思う人が
大多数である事は、あの頃から 変わっていないように思い、
悲しくなる。
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