ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その18)

2006-05-09 22:27:35 | 能楽
余談ですが、『朝長』の前シテの女長者が前場だけで退場してしまって後シテの回向の場に居合わせない、という事について、ぬえはあまり不都合を感じていません。

このブログで『鵜飼』について考察した際に「護法型」と言われる一連の能について言及しましたが、『朝長』も脚本上はその「護法型」の能の一つなのではないか、とも疑われる内容です。「護法型」とはすなわち主人公が事件の当事者か、またはそのごく身近な人物で、能の前半ではその主人公が事件を中心にして事件が起こるものの、後半では超自然的な力を持ったもう一人の主人公が登場して、閉塞する事件を一挙に救済する、という内容の能で、前半の主人公は後半にも居残って救済を受けるため一場物の能となります。能としては古い形と言われ、現行曲に残る「護法」型の能と考えられている『鵜飼』『昭君』『養老』などは近世以後の「シテ至上主義」の下では前後のシテが別人であることは許容されないため、脚本上は不合理ではあっても前半の主人公が中入して装束を改め、後半の主人公も兼ねるよう改作されたと考えられています。

『朝長』も後場に前シテの女長者が居残ってワキとともに朝長の霊と邂逅する方が理屈には合っているのかも知れませんが、ぬえは『朝長』は「護法型」の能ではなく、この能が作られた当初から現在のような形であったのではないかと思っていて、朝長の死を見届けた事によって心に深い傷を負った女長者が居残っていない方が演出上の効果が高いのではないか、と考えています。

前場の中入で女長者が召し使う者にワキ僧の世話を命じて去る事は、彼女が僧の回向には参加せずに日常の生活に戻っていく事を意味し、すなわちワキ僧と会ったその日が彼女にとって特別の日ではなかった、という事を意味します。彼女にとって朝長の墓に「七日七日に参り」跡を弔うことはすでに日常なのであって、朝長の「とりわきたる御馴染」であるワキ僧も彼女の心を動かして、生前の朝長の有様を問うなどの行動を起こさせません。いわば彼女は朝長の死そのものに呪縛された存在で、その死を見届けた事によって彼女が受けた心の傷のために、彼女はこの場を離れられずに朝長の墓を守る事に生涯を費やしているのです。そこがこの前シテの女長者の哀れなはかなさであるし、絶望的な美しさなのではないでしょうか。

さてそこで ぬえは後シテが登場する意義を見いだすのです。この曲の前場に登場する前シテの女長者とワキ僧は、ともに朝長への追想という点で結びつき、その死によって深い心の傷を受けた者同士なのです。後場で朝長の霊が現れてワキの回向によって成仏できる事を謝す、という形式は、ほかの多くの複式夢幻能と共通するものなのですが、前シテとワキのこの立場が、ほかの一般的な複式夢幻能と一線を画している舞台設定となっています。すなわち、後シテが登場して、ワキの回向やとりわけ女長者の弔いが冥土に届き、成仏する事が出来る、と告げる事は、朝長が救われると同時に、ワキや前シテが心に負った傷を癒す事に繋がっているのではないか、と思うのです。

とすれば、『朝長』は死者としての後シテが救済される立場でありながら、同時にワキ(や前シテをも)救済する立場でもある、という非常に特異な能だといえるでしょう。。そこで ぬえは、『朝長』の後シテの型の「少なさ」も、そんなところに理由があるのではないか、と気づきました。ぬえがこのブログで『朝長』について書いた最初の稿でも言ったのですが、この後シテは、どうも型が少ないのです。普通の修羅能と比べて、あちらこちらで一つずつ型が少ない印象です。

前シテは「哀傷」であるし、何と言っても前半の全体が「弔い」で終始しているのですから型が少ないのは当然でしょう。ところが、回向を受けて成仏を謝するべき若い後シテが颯爽、溌剌と登場して舞台を縦横に駆使して喜びを示すのではない事は、稽古を始めたばかりの ぬえにはとっても不審でした。しかし、上記のように考えてくると、朝長は一人自分が成仏できる事を喜ぶばかりにはとどまらない存在なのだと ぬえは感じています。なんだか説明は難しいですが、この後シテは凛々しい若武者でありながら、もっとずっと精神的な部分が重要な役なのだと思います。そして、そんな役であるからこそ動きが制約してあるのではないか…そう考えると作者…というかこの能を発展させてきた先人の心を見る思いです。

さて次回から『朝長』の本文に沿って型付けの解説をしてみようと思います。
ご鑑賞の参考になるかも。。お待ちどうさまでした~ m(__)m

→次の記事 『朝長』について(その19=舞台の実際その1)
→前の記事 『朝長』について(その17)

→保元の乱 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)

『朝長』について(その17)

2006-05-07 03:10:54 | 能楽
突き詰めれば「四番目物」の能のように、一人の人間の死がもたらした残された者たちの哀傷、これが『朝長』の主たるテーマでありましょう。前シテもワキも、朝長の人となりの全貌を知っていたわけではなかったけれど、それでも朝長の死は彼らの人生を左右するような大事件でした。朝長は愛されていたのです。

では後場はこの曲の中でどのような位置を占めるのでしょうか。『謡曲大観』(佐成謙太郎 昭和6明治書院)の『朝長』の【概評】欄には次のように書かれています。

 修羅物のワキを後ジテと関係の深い人物とした劇的夢幻能(又は
 夢幻的劇能)には…普通の複式夢幻能よりも興味深い効果を挙げ
 たものが少なくない。本曲もその一で、殊に前段に朝長の傳と
 朝長の自害した宿の女とが、墓所に参り合はせて、その最期の様
 を物語ることとしたのは、誠に面白い趣向である。しかしその女
 を前ジテとして、前段のみで退場せしめ、後ジテにはこの前ジテ
 から回向される朝長の霊を登場せしめるのは、劇的葛藤の対者を
 失つた、空疎な脚色法といはなければならない。なるほど、この
 ワキも後ジテを回向する一人ではあるが、回向の力強さに於て前
 ジテよりも劣つたものと見られ、現にクセの文に於ても、後ジテ
 はワキの回向を問題としないで、前ジテの回向を感謝して成仏の
 喜びを述べているのであるから、ワキが甚だしく蔑視せられて
 ゐるばかりでなく、後ジテは見当外れな科白を述べることとなつ
 てゐるのである。宿の女をツレとして後段まで留まらせて、
 〔俊成忠度〕のやうな形をとるか、でなければ、寧ろ最初から
 これを出さないで、前ジテを普通の夢幻能のやうな里人か何かに
 した方がよかったと思ふ。

。。これはいくらなんでも言い過ぎで、後シテの存在意義そのものを疑ってしまっては能そのものが成立しなくなっちゃう。そんな能は、どんなに前シテの場面がすばらしくても600年の風雪を耐えて現行曲として生き残ることはなかったでしょう。なぜその曲に魅力があるのか言葉にして説明するのが難しい場合があるにせよ、すべての現行曲は後シテまでを見終えて「良い曲だな」と観客や演者がともに思ったからこそ現代にまで生き残ったのだと ぬえは信じたい。

『謡曲大観』の記述で「後ジテはワキの回向を問題としないで、前ジテの回向を感謝して成仏の喜びを述べているのであるから」とあるのは事実誤認だと、ぬえは思います。たしかにクセの文章ではその通りなんだけれども、後シテは登場してすぐにワキの唱えた「観音懺法」に「あらありがたの懺法やな」と謝辞を述べているし、その後もシテは「頼もしや、聞けば妙なる法の御声」「心耳を澄ませる玉文の瑞諷 感応肝に銘ずる折から、あら尊の弔ひやな」「なほなほ御法を講じ給へ」「声を力に頼り来る」「ただ何事もうち捨てて御法を説かせ給へや」とワキへの信頼を述べ、曲の最後には「亡き跡弔ひて賜び給へ」とワキヘ合掌して終わるのですから。

クセの文句にしても、このクセそのものが、ほかならぬワキに向けて語られている文だという点を見逃してはならないでしょう。シテ朝長は自分を回向してくれた僧体のワキに対して謝辞を述べながら、俗体の身でありながら同じように自分を厚く弔ってくれた宿の女長者に対して賛嘆したもので、クセの末尾の「さながら親子の如くに御嘆きあれば弔ひも真に深き志請け喜び申すなり。朝長が後生をも御心安く思し召せ」も、ワキの回向が自分の成仏に強い影響を与えたのは、言うなれば仏に仕える僧の力として「自明」のこととして、さらに女主人の回向の力強さがそれと同等の功力を自分の死後の運命に与えたのだ、とワキを通じて女長者に伝えたかったのだ、と読むべきでしょう。

言うなれば後シテの朝長の霊にしてみれば、幼少の頃から傳として自分を慈しんでくれ、また出家した後には平家の追求の目を逃れながらも自分の終焉の地を訪れて回向してくれるワキの重要性は言うまでもないことで、前シテの女長者が自分を思うその志は、「それに匹敵する」と言っているのです。ここに於いて、後シテの眼から見たワキと前シテは同一視される事になり、そのため、前シテが僧の回向の場に居合わせない事もなんら不合理ではなくなるのではないかと思います。

→次の記事 『朝長』について(その18)
→前の記事 『朝長』について(その16)

→保元の乱 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)

『朝長』について(その16)

2006-05-05 17:05:56 | 能楽
結局ゴールデンウィークはどこにも遊びに行かずに稽古に励む事にしました。もっとも能楽師ってのは休日に催しがあって、平日が休みの事が多いので、たまに休日にスケジュールが空いていても、人混みの中に遊びに行く気は起こらないなー。。ちなみにこういう「大型連休」という時には、ぬえのほかにもヒマな能楽師は多いと思います。なんせ世間の皆様がこぞってお出かけになるこの時期は、公演はもとよりお弟子さんの稽古もしにくいのです。さあ、ヒマな能楽師の仲間のキミ! お互いにブログにコメントでもつけ合って、ヒマな時間を有意義に過ごそうぜ! 。。(;_:)/ シゴトクレ-

さて『朝長』が修羅能ではないのではないか、という点について。

前述の通り、源朝長という若い公達武者の物語と言うにはあまりにその主人公の人となりを深く掘り下げることをしない能『朝長』。修羅能が源平の武将の物語を描いた能とするならば、『朝長』はそれとはあまりに異質と言わざるを得ません。我々は、つい能『朝長』は修羅能の中の一曲として作られた能であるかのように思ってしまいがちですが、しかし能の曲目が神・男・女・狂・鬼のいわゆる「五番立て」に分類されたのは江戸中期頃とされていて、多くの能はその分類を意識して作られた能ではない事もまた事実なのです。

金春禅竹の『歌舞髄脳記』に引用があって、禅竹時代以前に成立したのは確実な能『朝長』は、「五番立て」とは違う、言うなれば世阿弥・禅竹時代のある種の規範に従って作られた能だったでしょう。世阿弥は『五音曲条々』の冒頭に「音曲ニ祝言・幽曲・恋慕・哀傷・闌曲 是アリ」と記していて、当時曲目を分類する意識はあったと思われますが、『二曲三体人形図』に「児姿遊舞、老体・老舞、女体・女舞、軍体、砕鬼風鬼、力動風鬼、天女、砕動之足踏」と、演技を身体の使い方によって分類したりもしていて、曲目を一つのグループに分類する「五番立て」とは少し違ったスタンスであるようです。

また禅竹は前掲書に演技の分類として「老体、軍体、女体、雑体」と、『二曲三体人形図』よりも「五番立て」に近い分類法が採られているのですが、一方『五音三曲集』では、世阿弥の分類を継承した「祝言・幽玄・恋慕・哀傷・闌曲」をさらに細分化しようとする記述があるなど、観念的な点も多く見られます。

いずれにせよ『朝長』が「源平の武将」を描いている能だからといって、「修羅能」として作られた能ではない事は確かでしょう。さらに上記 世阿弥の『五音曲条々』の分類に「音曲ニ」とある事や、禅竹の『五音三曲集』の「幽玄」の項に『田村』の前場のクセが載せられている事などを考えると、これらの分類は曲目のそれではなくて、場面ごとの「謡」のあり方を分類したものなのではないか、と考えられます。もしそうであるならば、これらは『二曲三体人形図』の演技法の分類と対を成すものなのかも知れません。

こう考えると、『朝長』は後シテこそ「軍体」の演技法で勤めるべき修羅能なのでしょうが、前シテは「女体」の演技で、「哀傷」の謡い方をする曲、と考える事ができそうです。これは当たり前のようですが、「五番立て」に基づいて一つの能をただ一つの分類に分けて、その範囲の中だけで演じる事と、世阿弥時代のように主人公の心境の変化によって場面ごとに独立して演技を考える事は大きな違いでしょう。

まあ、ぬえはさすがに「女体」「軍体」の定義づけはできないけれども。。少なくとも『朝長』は修羅能というジャンル分けに閉じこめる事は不可能ではないか、と思います。前シテは「四番目物」、と考えた方がよさそうで、『隅田川』や『木賊』のような味わいの曲なのではなかろうか。そして、ぬえはその「四番目物」の前場がやはり主眼であって、そこに「修羅能としての後場が追加されている能」だと思うのです

→次の記事 『朝長』について(その17)
→前の記事 『朝長』について(その15)

→保元の乱 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)

明治神宮奉納能

2006-05-02 22:02:00 | 能楽
今日は明治神宮の大祭で、能楽協会からの奉納能狂言があり、ぬえも地謡で参加してきました。

じつは ぬえ。。明治神宮の中に入ったのは今日がはじめて。東京で生まれ育った ぬえは東京の事を知りません~。。ま、生まれた町の事ってのは、得てして詳しくは知らないものでしょうが。。

ぬえの自宅からの交通手段の関係で、今日は代々木駅から徒歩、明治神宮本殿へ向かいました。最初の画像は北参道の入口の鳥居。ところが一歩この鳥居から神域に入ると。。うわ、こんな密林が東京にあったのか!

少し以前にNHKのドキュメンタリー番組で「代々木の杜」というようなタイトルの番組を見て、その説明では「この明治神宮と神宮外苑の森は人工的に植林されたもので、しかしながら現代では貴重な森林となっている」というような事でしたが。。実際に見てみるとその鬱蒼とした森の深さに驚きます。

北参道は明治神宮の、いわば裏参道と言うべき参詣道なのですが、その分 歩く人も少なくて静かなたたずまいを堪能できました。およそ5分で本殿に到着します。どうやら原宿駅から向かう南参道(表参道に続く主たる参道はこちらになります)よりも本殿には近いらしい。



到着したこの場所は「御社殿」と呼ばれていて、内拝殿と外拝殿を持ちそれが回廊でつながれた正格なもの。この奥に明治天皇を祀った本殿があります。この拝殿の前の回廊で囲われた中庭で奉納能が執り行われました。ちなみにテレビでよく見る大相撲の横綱の奉納土俵入りが行われるのもここ。。ぬえもはじめて見たんですが。



やがて神官によって祭礼が執り行われ、神舞姫の「浦安の舞」も奉納されて、その後演能となりました。奉納されたのは狂言『酢薑』と能『吉野天人』。昨日は夏のような暑い日だったのに今日は残念ながらの荒天で、地謡に座っていたら寒かった。。それでも外国人観光客や(外国人はやたら多かったですね。どうやら明治神宮ではいつもそうらしく、東京の名所なのかしらん)参詣の多くの方々に見守られながら、良い奉納能だったと思っています。

ところが。。能には関係ないのですが、ちょっと気になった事が。

ぬえが明治神宮に到着してしばらくしてからの事。祭礼を行うために神官が拝殿の外から列をなして和傘をさして鳥居にさしかかったところ、たまたま鳥居の真下に立って拝殿の偉容を眺めている初老の男性がいました。神官の先頭に立つ警備の方がこの男性に「すいません、ちょっと道をあけてください~」と言ったところ、この男性はなんだか急に不機嫌そうな顔で警備の方を睨みつけてしまって。。

神官の入場に道を譲ろうとしない男性に、後ろから別の警備員が「すいません、ちょっと道を。。」と言いながら男性に手を掛けたら、あろう事かこの男性「触るなっ!!」とすごい剣幕で抗議。結局男性は不機嫌そうに歩き出して神官は鳥居を過ぎることができたのですが。。

神社の大祭に「お客さま気分」で来てご自分の権利ばかり主張したこの男性。。いや、ありふれた「事件」かも知れないのだけれど、ぬえはその前日にも若い人の気になる態度を町で見かけていたので、どうも気になる。今朝の新聞の一面では「東京裁判を知らない人が70%に達し、20代では9割にのぼる」という世論調査の結果が報道されていて。。この国はいったいどこに行っちゃうの。。?



『朝長』について(その15)

2006-05-01 21:58:52 | 能楽
一昨日は観世流の中の ぬえには後輩にあたる人の『道成寺』の披キを拝見してきました。荒削りだけれど良い声を持っているし、落ち着いてできたようで安心しました。また、この時の太鼓は、ぬえの『朝長』を打ってくださるKくんでした。Kくんは若手ながら大変優秀で評判も良いですね。彼を含めて ぬえの『朝長』は、ワキ方・囃子方・狂言方ともベストメンバーなのです。うう~、シテは…ぬえが能に傷をつけないようにしなきゃ。。(T.T)

またその前日は はじめて師匠に『朝長』の稽古をつけて頂きました。う~~~む。謡の発声から身体の構え、そして立ち位置まで。。徹底的に直されてしまった。でも普段ならば申合の少し前にに一度稽古をして頂いて、それから幾ばくもなく申合に望む、という場合がほとんどなのですが、今回はまだ公演の日まで一ヶ月以上を残すこの時期に ぬえから師匠に、あえてこの時期に最初のお稽古をお願いしました。二度以上のお稽古をして頂くのは『道成寺』以来ではなかろうか。それほど ぬえも今回の『朝長』を尊重していますし、師匠も普段よりもずっと厳しい指摘をして下さいました。

でも、いつの間にか公演まで一ヶ月、でもあります。すでにツレとは何度か稽古をしていますし、地頭にも一度だけ稽古におつきあいを願いました。5月のうちにもう何度か、地謡を揃えて稽古をしたいと思っています。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

さて能『朝長』について前回、前場では朝長を回想する形式でありながら、じつは前シテの青墓の女長者そのものを描きたかった、というのが作者の意図ではないか、と書きました。ぬえはいま、『朝長』という曲は、重い修羅能として扱われているけれど、じつは修羅能ではないのではないか? と思っています。

これまで見てきたように、この能の前場では自害におよぶ強い意志を持つ若者としての朝長の人となりは描かれていても、結局朝長その人の人生というものにはついに言及されていないのです(そして、じつは後場でも状況は同じようなものなのですが…)。とすれば、この能の前シテがこれほど深刻に語った「語り」の意味はどこにあるのでしょう。

ぬえにはこの「語り」は、前シテ=女長者によって語られる、というところに意味があるように思います。すなわち「戦語り」が女性によって、しかもその死を見届けた女性によって語られる事で、朝長の死そのものだけではなくて、彼の死によって周囲の人間の心までもが傷ついた、という事が語られているのではないかと思うのです。ひと晩の宿を貸した女長者ははからずも彼の死を目の前にする事になり、彼女はその後七日毎に墓に詣でて彼を弔う日々を送っています。そこに現れた元・朝長の傳であった僧。彼らは初対面でありながら、同じ今は亡き朝長という人物を中心に据えて心を通わせていきます。

彼らによる朝長の追憶。でも観客は彼らが持っている朝長の思い出というものが、ほんの断片でしかないことも承知しているのです。そしてその意味では観客も彼ら二人と同じ地平に立っていると言えるでしょう。ですから前シテの「語り」によって、ワキさえもが知らなかった事実=朝長の最期の様子=をワキとともに聞いた観客は、彼の境遇や運命に同情した瞬間に、彼ら前シテとワキによる弔いに同席する資格を持つ、とも言えるでしょう。

ところでこの前シテの「語り」が終わったあとの地謡は、朝長の最期を語り終わった前シテの自身が、朝長の死を受け入れる事を通して無常観に没入していく様を描いていきます。断片的でしかない朝長の印象と比べて、女長者の悲しみの深さの方が観客の心に迫ってきます。朝長は、このように短い時間の中で会った人たちに、これほど沈痛な思いを残してしまった。彼は愛されていたのだし、この能で鎮魂の祈りが必要なのは、亡くなった朝長自身であると同時に、前シテやワキのような朝長の周囲の人間たちなのではないでしょうか。
こう考えたとき、この能は若い公達の物語であるとばかりも言い切れないのではないか? と ぬえは強く感じています。

→次の記事 『朝長』について(その16)
→前の記事 『朝長』について(その14)

→保元の乱 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)