一昨日は観世流の中の ぬえには後輩にあたる人の『道成寺』の披キを拝見してきました。荒削りだけれど良い声を持っているし、落ち着いてできたようで安心しました。また、この時の太鼓は、ぬえの『朝長』を打ってくださるKくんでした。Kくんは若手ながら大変優秀で評判も良いですね。彼を含めて ぬえの『朝長』は、ワキ方・囃子方・狂言方ともベストメンバーなのです。うう~、シテは…ぬえが能に傷をつけないようにしなきゃ。。(T.T)
またその前日は はじめて師匠に『朝長』の稽古をつけて頂きました。う~~~む。謡の発声から身体の構え、そして立ち位置まで。。徹底的に直されてしまった。でも普段ならば申合の少し前にに一度稽古をして頂いて、それから幾ばくもなく申合に望む、という場合がほとんどなのですが、今回はまだ公演の日まで一ヶ月以上を残すこの時期に ぬえから師匠に、あえてこの時期に最初のお稽古をお願いしました。二度以上のお稽古をして頂くのは『道成寺』以来ではなかろうか。それほど ぬえも今回の『朝長』を尊重していますし、師匠も普段よりもずっと厳しい指摘をして下さいました。
でも、いつの間にか公演まで一ヶ月、でもあります。すでにツレとは何度か稽古をしていますし、地頭にも一度だけ稽古におつきあいを願いました。5月のうちにもう何度か、地謡を揃えて稽古をしたいと思っています。
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さて能『朝長』について前回、前場では朝長を回想する形式でありながら、じつは前シテの青墓の女長者そのものを描きたかった、というのが作者の意図ではないか、と書きました。ぬえはいま、『朝長』という曲は、重い修羅能として扱われているけれど、じつは修羅能ではないのではないか? と思っています。
これまで見てきたように、この能の前場では自害におよぶ強い意志を持つ若者としての朝長の人となりは描かれていても、結局朝長その人の人生というものにはついに言及されていないのです(そして、じつは後場でも状況は同じようなものなのですが…)。とすれば、この能の前シテがこれほど深刻に語った「語り」の意味はどこにあるのでしょう。
ぬえにはこの「語り」は、前シテ=女長者によって語られる、というところに意味があるように思います。すなわち「戦語り」が女性によって、しかもその死を見届けた女性によって語られる事で、朝長の死そのものだけではなくて、彼の死によって周囲の人間の心までもが傷ついた、という事が語られているのではないかと思うのです。ひと晩の宿を貸した女長者ははからずも彼の死を目の前にする事になり、彼女はその後七日毎に墓に詣でて彼を弔う日々を送っています。そこに現れた元・朝長の傳であった僧。彼らは初対面でありながら、同じ今は亡き朝長という人物を中心に据えて心を通わせていきます。
彼らによる朝長の追憶。でも観客は彼らが持っている朝長の思い出というものが、ほんの断片でしかないことも承知しているのです。そしてその意味では観客も彼ら二人と同じ地平に立っていると言えるでしょう。ですから前シテの「語り」によって、ワキさえもが知らなかった事実=朝長の最期の様子=をワキとともに聞いた観客は、彼の境遇や運命に同情した瞬間に、彼ら前シテとワキによる弔いに同席する資格を持つ、とも言えるでしょう。
ところでこの前シテの「語り」が終わったあとの地謡は、朝長の最期を語り終わった前シテの自身が、朝長の死を受け入れる事を通して無常観に没入していく様を描いていきます。断片的でしかない朝長の印象と比べて、女長者の悲しみの深さの方が観客の心に迫ってきます。朝長は、このように短い時間の中で会った人たちに、これほど沈痛な思いを残してしまった。彼は愛されていたのだし、この能で鎮魂の祈りが必要なのは、亡くなった朝長自身であると同時に、前シテやワキのような朝長の周囲の人間たちなのではないでしょうか。
こう考えたとき、この能は若い公達の物語であるとばかりも言い切れないのではないか? と ぬえは強く感じています。
→次の記事 『朝長』について(その16)
→前の記事 『朝長』について(その14)
→保元の乱 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)
またその前日は はじめて師匠に『朝長』の稽古をつけて頂きました。う~~~む。謡の発声から身体の構え、そして立ち位置まで。。徹底的に直されてしまった。でも普段ならば申合の少し前にに一度稽古をして頂いて、それから幾ばくもなく申合に望む、という場合がほとんどなのですが、今回はまだ公演の日まで一ヶ月以上を残すこの時期に ぬえから師匠に、あえてこの時期に最初のお稽古をお願いしました。二度以上のお稽古をして頂くのは『道成寺』以来ではなかろうか。それほど ぬえも今回の『朝長』を尊重していますし、師匠も普段よりもずっと厳しい指摘をして下さいました。
でも、いつの間にか公演まで一ヶ月、でもあります。すでにツレとは何度か稽古をしていますし、地頭にも一度だけ稽古におつきあいを願いました。5月のうちにもう何度か、地謡を揃えて稽古をしたいと思っています。
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さて能『朝長』について前回、前場では朝長を回想する形式でありながら、じつは前シテの青墓の女長者そのものを描きたかった、というのが作者の意図ではないか、と書きました。ぬえはいま、『朝長』という曲は、重い修羅能として扱われているけれど、じつは修羅能ではないのではないか? と思っています。
これまで見てきたように、この能の前場では自害におよぶ強い意志を持つ若者としての朝長の人となりは描かれていても、結局朝長その人の人生というものにはついに言及されていないのです(そして、じつは後場でも状況は同じようなものなのですが…)。とすれば、この能の前シテがこれほど深刻に語った「語り」の意味はどこにあるのでしょう。
ぬえにはこの「語り」は、前シテ=女長者によって語られる、というところに意味があるように思います。すなわち「戦語り」が女性によって、しかもその死を見届けた女性によって語られる事で、朝長の死そのものだけではなくて、彼の死によって周囲の人間の心までもが傷ついた、という事が語られているのではないかと思うのです。ひと晩の宿を貸した女長者ははからずも彼の死を目の前にする事になり、彼女はその後七日毎に墓に詣でて彼を弔う日々を送っています。そこに現れた元・朝長の傳であった僧。彼らは初対面でありながら、同じ今は亡き朝長という人物を中心に据えて心を通わせていきます。
彼らによる朝長の追憶。でも観客は彼らが持っている朝長の思い出というものが、ほんの断片でしかないことも承知しているのです。そしてその意味では観客も彼ら二人と同じ地平に立っていると言えるでしょう。ですから前シテの「語り」によって、ワキさえもが知らなかった事実=朝長の最期の様子=をワキとともに聞いた観客は、彼の境遇や運命に同情した瞬間に、彼ら前シテとワキによる弔いに同席する資格を持つ、とも言えるでしょう。
ところでこの前シテの「語り」が終わったあとの地謡は、朝長の最期を語り終わった前シテの自身が、朝長の死を受け入れる事を通して無常観に没入していく様を描いていきます。断片的でしかない朝長の印象と比べて、女長者の悲しみの深さの方が観客の心に迫ってきます。朝長は、このように短い時間の中で会った人たちに、これほど沈痛な思いを残してしまった。彼は愛されていたのだし、この能で鎮魂の祈りが必要なのは、亡くなった朝長自身であると同時に、前シテやワキのような朝長の周囲の人間たちなのではないでしょうか。
こう考えたとき、この能は若い公達の物語であるとばかりも言い切れないのではないか? と ぬえは強く感じています。
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→前の記事 『朝長』について(その14)
→保元の乱 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)