ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その19=舞台の実際その1)

2006-05-10 02:06:04 | 能楽
今回より実際の舞台の進行に即して能『朝長』の演技について解説を行っていこうと思います。

【注意】
◎ 本来、能の振り付け(型付け、といいます)は非公開が原則で、ぬえが師家から写させて頂いた型付けにもしっかり「他見不許」の文字が。。しかし過去には、おおまかながら型付けの概要がいくつかの書籍に紹介されてきたのも事実。そこで今回の解説は、師家から頂戴した型付けを ぬえが勝手に開陳したのではなくて、あくまでそのような書籍の類にすでに公開された部分を再紹介する、というスタンスで臨みたいと思います。諸事情ご賢察くださいましー (~~;)

◎ 同じく、ときには囃子やワキなど他の役の実技についても言及する場合もあるかと思いますが、それらについても「習い」に関する事などは ぬえが楽屋で友人の囃子方などに聞いた事をみだりに公開してはならない、とされていますので、ここで ぬえが言及する実技についての話題はすべて過去に公開された情報だとお考え下さい。

◎ 以下に掲出した謡曲(能の謡の本文)の底本は観世流大成版謡本に拠ります。このうちワキの謡の部分は、今回の橘香会での能『朝長』のワキが宝生流の演者であるため、下記の本文とは小異があります。

◎ 間狂言の詞章は割愛させて頂きました。

能『朝 長』

幕内で囃子方の「お調べ」が終わると、囃子方が笛・小鼓・大鼓・太鼓の順で橋掛りから登場し、舞台後座の所定の位置に着座します。同じく地謡も切戸口から登場して地謡座に横向きに着座します。今回は ぬえが所属する梅若研能会の「別会」の扱いの催しですので、囃子方・地謡とも威儀を正して裃を着用しています。

やがて笛が一管で独奏を始めます。「名宣リ笛」と呼ばれるワキの登場音楽で、幕を揚げてワキ・ワキツレ、そしてそれに続いて間狂言が登場します。ワキの姿を見て、着座していた小鼓・大鼓は床几に掛かり、地謡も扇を膝の前に置いて、すべての役者が能の上演に臨む体勢を取ります。

ワキは舞台に入り、シテ柱のあたりで「名宣リ」を謡います。ワキツレと間狂言は橋掛りに控えます。

ワキ「これは嵯峨清凉寺より出でたる僧にて候。さてもこの度平治の乱れに。義朝都を御ひらき候。中にも大夫進朝長は。美濃の国青墓の宿にて自害し果て給ひたる由承り候。我等も朝長の御ゆかりの者にて候ほどに。急ぎ彼の所に下り。御跡をも弔ひ申さんと思ひ立ちて候。

囃子方が打ち出し、ワキは脇座の方へ行き、ワキツレは舞台に入ってワキに向き合います。間狂言は橋掛りの狂言座に控えます。

【道行】ワキ・ワキツレ「近江路や。瀬田の長橋うち渡り。瀬田の長橋うち渡り。なほ行くすゑは鏡山。老曽の森を打ち過ぎて。末に伊吹の山風の。不破の関路を過ぎ行き。青墓の宿に着きにけり。青墓の宿に着きにけり。

【道行】とは紀行文を謡いながら旅行を体を示す小段で、このおわりにワキは正面に向き少し出、振り返って元の座に戻る事によって一行が青墓の宿に到着した事を示します。ワキは嵯峨・清涼寺から旅を始め、大津の名所「瀬田の橋」を渡り、歌枕の鏡山、老曽の森を過ぎて、岐阜との県境の伊吹山を望みながら不破の関を通って青墓(いまの大垣市内)に到着した事を示します。

ワキはこのところで朝長の墓を尋ねよう、と言い、ワキツレは脇座に着座します。ワキはシテ柱のあたりで橋掛りに向き、在所の人を呼び出します。間狂言は呼ばれて立ち上がり、ワキに乞われて朝長の墓の在処を教え、ワキは礼を言って舞台の真ん中あたりに行き、正面を向いて着座して、墓に詣で(朝長の墓は舞台の正面にある、という心)、やがて脇座に退いて着座します。

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