ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その26=舞台の実際その8)

2006-05-26 01:49:47 | 能楽
ここで ぬえは、かなり以前に太鼓方の某氏と『当麻』の話をしていたときの事を思い出しました。ちょっと長くなるのでかいつまんで結果だけ申せば、その先輩がおっしゃるには「当麻の後シテは舞ってはいけない」のだ、という事だったのです。これには若い ぬえはビックリしました。早舞を舞うのに「舞ってはいけない」。。これはもちろん舞を省略せよ、という事ではなくて、『当麻』の早舞は『融』や『玄象』とはまったく違っていて、仏教の哲理の象徴として機能しているのだから、「動作としては舞の型をしていても、舞(=ダンス)になってしまってはいけない」という事でした。型は普通の早舞と同じでありながら、どこかノリを殺して、舞の動作を「語り」として位置づける、とでも言うか。。

『朝長』の後シテは、その本人がそう思っていなくても、成仏を謝する、という行為そのものが前シテやワキ僧の心の傷を回復する「赦し」になっている、と ぬえは捉えました。その意味において、少なくとも戯曲上は後シテは自分の成仏の喜びを満面に表して喜びを表現する立場であってはならないのではないか。型付けはそのところを「動きを減らす」事で表現しようとしているのではないか? ぬえは今、そう考えています。

後シテは「出端」の囃子で登場して舞台に入り、ヒラいて謡い出します。

【サシ】後シテ「あらありがたの懺法やな。昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。三世利益同一体。まことなるかな。誠なるかな。(とワキヘ向き)

【一セイ】頼もしや。(と正へ直し)きけば妙なる法の御声。(と面を伏せて聞き) 地謡「吾今三点。(と右へウケ) シテ「楊枝浄水唯願薩埵と。(と拍子を踏み正へノリ込)
地謡「心耳を澄ませる。玉文の瑞諷。(と角へ行き直し)感応肝に銘ずる折から。(と脇座より常座へ到り) シテ「あら尊の弔ひやな。(と小廻りワキヘ向き合掌)

ワキ「不思議やな観音懺法声澄みて。灯の影ほのかなるに。見ればまさしく見れば朝長の。影の如くに見え給ふは。若しもし夢か幻か。
シテ「もとよりも夢幻の仮の世なり。その疑ひを止め給ひて。なほなほ御法を講じ給へ。
ワキ「げにげにかやうにま見え給ふも。偏へに法の力ぞと。念ひの珠の数繰りて。
シテ「声を力に頼り来るは。
ワキ「まことの姿か。シテ「幻かと。ワキ「見えつ。シテ「隠れつ。ワキ「面影の。(とワキヘ二足ツメ)

【上歌】地謡「あれはとも。言はゞ形や消えなまし。(と正へヒラキ据拍子)言はゞ形や消えなまし。消えずはいかで灯を。背くなよ朝長を共にあはれみて。(と正へ出ヒラキ)深夜の月も影そひて光陰を惜しみ給へや。(とワキの前へ行き左袖を返しワキを見込み)げにや時人を。待たぬ浮世の習ひなり。(と左へ廻り常座へ行き)唯何事もうち捨てゝ。御法を説かせ給へや。御法を説かせ給へや。(と小廻りワキヘ向きヒラキ)

う~~ん、やはりなんとも普通の修羅能と比べると型が少ない印象ですね。

地謡【上歌】の「光陰を惜しみ給へや」のところ、脇正のあたりで右へウケて左袖を出し、そのままワキの方へ出て、ワキの前で止まりながら左袖を返し、左を引いてワキの方へ見込む型は、修羅能には必ずある、定型の型です。しかし問題はそのあとで、曲によってそのあとに続く詞章の多少によって少し型が変わるのです。すなわち文章がまだ続くのであればシテは袖を払って角へ行き、正へ直してから左へ廻り、大きく舞台を廻って常座へ到って小廻り、ワキヘ向いてヒラキ(合掌する事も)。詞章が短ければ角へは行かず、袖を払ってすぐに左へ廻り、ただちに常座に到って小廻りの型につなげていくのです。

『朝長』の場合、ワキヘキメたあとに続く文句の長さを考えると、当然 角へ行く型になるはずなのですが。。稽古を始めてすぐに、この曲に型が少ない事には気づいたのですが、その理由にまでは思い至らなかった。もちろん意図的に型が少なくしてある、とも当初は感じなかったのですが、だんだんと稽古を重ねていくうちに、どうも意図的な力が働いていて、わざと型を少なくしてあるのではないか、と考えるようになりました。

この思いを決定的にしたのが先日拝見した「懺法」のお舞台で、なんとそこではさらに型が少なくなっていたのです。そのお舞台では、この【上歌】の部分では、シテはほとんど常座から動くことなく型をしておられました。シテを若武者、と捉えるだけならば、これはまことに不自然な演出でしょう。確証はないけれども、これは「懺法」という重厚無比な小書で登場をした後シテに釣り合うように、演技を動作ではなく「内面」で行うように仕組まれているのだと強く感じました。

『朝長』の後シテは若武者ではあるけれども、そのような内面の演技を許容するような幅がある役なのでしょう。そもそも「懺法」という重厚な小書が成立するところに、この曲の後シテが『敦盛』や『経正』などとは一線を画した心理劇の主役としての位置づけがあると思います。

演技として難しいのは、この後シテがあくまで若武者の姿であるところで、その若々しい姿と動かない、という演技が舞台のうえで整合させられないと、役者はただ「身体のキレが悪い」としか見てもらえないでしょう。ぬえはいまいろいろ工夫をしていますが、こんな難解な曲がある事にいまさらながら驚かされます。。

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