一日だらだらと雨が降り続けました。
3年前に植えた花モモの蕾が もう少しで開きそうです。イベントでもらった苗木です。
十数年前になりますが5月の連休明けに北京に行ったら桃の花の季節でした。万里の長城付近の岩山にも咲いており、最初は山桜かな?と思いました。
色合いの少ない中国の自然には桃の強い色が良く映えますが、緑が多い日本の自然の中ではあまりに強い桃の色が逆に不自然に見えてしまいます。桃ほど個性が強くない桜の淡い色合いが妙になじむ思いがします。
実はこの花モモ、果実の実る桃だと思ってもらってきました。昨年から花をつけ始め「桃栗三年とはよく言ったものだ」と感心していたんですが、近所の農家に「これは花モモで実はつかない。お前さんみたいなもんだ。」と教わりました。美しいけれど子供がいない私のような花なんですね。「そうじゃないよ、何をやっても身につかないってことさ。」一理あるようなないような。
実りがないという意味では もうすぐ咲きそうなこの八重桜もそうです。
知人が山形に旅行に行った時に買ってきた土産で、山形の物だからさくらんぼうが食えると言ってましたが、葉っぱが出てきたらさくらんぼうではなくてただの桜。花が咲いてみれば普通の八重桜でした。
この辺の八重桜の中では色が濃い花なので、花を摘んで塩漬けにして桜茶にしています。
陶淵明 山海経を読む 十三首
孟夏 草木長じ 屋を遶りて樹扶疏たり 衆鳥は託する有るを欣び 吾も亦吾が廬を愛す
既に耕しては亦た已に種ゑ 時に還りて我が書を讀む 窮巷は深轍を隔て 頗る故人の車を迴らす
歡言しては春酒を酌み 我が園中の蔬を摘む 微雨東より來り
汎覽す周王の傳 流觀す山海の圖 俯仰して宇宙を終せば 樂しからずして復た何如
初夏になって草木が伸び、我が家の周りには樹木が繁茂する、鳥たちは喜んで巣作りに励み、わたしも自分の家が気に入っている
野良仕事に精を出し、家に帰ると読書を楽しむ、狭い道には車も入って来れぬから、わずらわしい付き合いをしなくてすむ
近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし、肴に庭の野草を食う、小雨が東のほうから降ってくると、それに伴って気持ちのよい風も吹く
周王の傳を詳しく読み、それに添えられた絵に目をやる、寝ながらにして宇宙のことがわかるのであるから、こんなに楽しいことはない
日々の暮らしが陶淵明の桃源郷の世界そのものなんですが、これは望んで得られる世界ではなく諦めの果てに得られる世界じゃなかろうか?案外その諦めが「悟り」だったりして。
陶淵明が偉いと思うのは寝っ転がって読む「周王の傳」に絵が添えられているということ。つまり、座布団枕にゴルゴ13読んでいた今日の私と同じだったんですね。
1600年前の中国の賢人とゴルゴ13を通じて共感を得られるのも深い味わいです。
「流觀す山海の圖」多分、ここで山海経と言う中国古来の地理の本を暗示しているのでしょう。神話や物の怪や妖怪などのことが書かれた本と言われています。陶淵明の愛読書だったのでしょう。やっぱ、水木しげるの漫画を読んでいた方がふさわしかったのかな?