のら猫の三文小説

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次平の挑戦 No.11

2012-12-04 17:47:36 | 次平の挑戦

お香は出産を経験しながらも仕事に没頭していた。



お香は、臨月に近づいていたが、それでも色々な手紙には目を通して、大坂の理助と相談したり、料理屋の番頭の康三などとも相談して返事を書き、江戸の市蔵にも色々と聞いていた。
お香は今度は男の子を産んだ。さすがに数日間はじっとしていたが、又手紙を読み、人を呼ぶ事が多くなった。自分の乳を与える事には拘っていたが、鉄平は子守と乳母を雇い、女の子と男の子には、目を細めていた。



次平は各医院のあり方について悩んでいた。京の医院では禁裏の手前、公に患者を診察する事はできず、京の筆頭からの依頼があれば診察する程度であった。

鉄平が旅立った後、大坂でも高名な医師が引退する事になり、その医院を任された。数名の医師を集めて始めた医院だったが、おゆきもつれて行く事があった。大坂は鉄平の薬種問屋の店もあり、薬の入手も便利であった。それに京と大坂は船なら1日の距離なので、京にも直ぐに戻れた。


やがておゆきが又、妊娠している事がわかり、次平も京を離れにくくなっていた。


次平、寄付だけでの医療を考える!



各医院からは、難しい病気では、次平に相談する手紙が良く来ていた。診察代がなくて来院せず、又は医者に往診を頼まない患者もいるようで、次平はある考えを各医院に示した。

今でも自由診療で、診察代や薬代などは、決めていないが、診察代や入院代そのものをなくす事として、代わりに寄付を募る。一度でも額の有無に拘わらず、寄付をすれば、医院での診察代や薬代は勿論、入院しても診療代は、請求しない事とした。極論すれば、1文でも寄付すれば、本人はもとより、家族も診察しても診察代は請求しない。医師を名指しで、診察を求める事は、禁止せず、かなりの寄付を続けている人に限る。」等を各医院で検討する事を提案した。

各医院では色々な意見がでた。「病状を過大に訴え、薬を無料で受け取る人が出てくる。今まで薬礼を貰っている人との公正を欠く。病院が貧乏人の長屋になり兼ねない。寄付金額の下限を作らないと1文の寄付しかしない人が続出し、一分や一両それ以上の寄付をしてくれる人との公平を欠く。金持ちの多い町では寄付も集まるだろうが、小さい町では寄付もあつまらない。理想論すぎるし、医院の運営が寄付に左右されて治療が安定して継続できなくなる。医療は安定して継続出来ないと役に立たない」などの反対意見と、「今でも困っている人には、無料で診察している事もあるのではないか。 一文なしで倒れた病人を見過ごすのか? 一部の不心得の者がいる事を指摘して、本当に困っている人を見過ごす事が公平と言えるのか?本当に困っている人のために考える事が、例え一部の不心得の者がいるという理由で実現しない事があっていいものだろうか? それに医師の治療と金勘定は本来違う筈だ。それを色々な理由をつけて金に支配されていいものだろうか? 本当に困っている病人や家族にとって、一文あればすべての治療が受けられるのは心強いのではないか? 実際寄付金の額はそれなりに安定してくるではないか」等の意見もあった。

各医院とも纏められず、両論を併記してきた。色々な考えがあり次平としてまだ結論は下せなかった。鉄平の事業のまとめがなされ、次平の医院は、鉄平の薬種問屋の出資者に形の上では、鉄平はさのようにしていた。各医院には、ある程度の資金が入っていた。その上、臨床例や薬の効能例などをまとめると更に一定の資金を提供してくれ、薬草園での視察でも資金を提供してくれる事になった。それで、各医院の経営が安定してくる。そこで2年間は、取りあえず寄付金だけでやってみようと思った。



懸念されていた事も散見されていたが、次平は構わなかった。もともと次平の医院では、医師個人の判断もあったが、薬は病状の変化で頻繁に変更していたし、回復してくれば、薬の頻度は下げてくるようにしていたし、研修中の学生や医師見習いも看護人となって、病人の世話をするようにしていた。入院も病状に応じて行っていたし、安い長屋なども口入れ屋とも協力して、貧しくとも職や住まいを求めている人には斡旋するようにしていた。



医師を名指しで、診察を求める事は、禁止しなかったが、かなりの寄付を続けている人と限ったが、かなりの寄付として記載して金額を指定しなかったため、逆に富裕層の寄付は増えた。寄付をしてくれる人の健康管理は、医師見習いや学生などが行うようにしたが、富裕層には医師が行うようにした。





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