萩にも薬種問屋と医院を作る事になってしまった。
結局 道隆とも話をして、萩に医師2人の医院と源三を中心とした薬種問屋を作り、人入れ屋の手代格の道陰は、人入れ屋を買い取り、京二の弟子ともいえる三郎は、萩の料理屋を買い入れる事になった。道隆も応援する事を約束した。
残る人員は、次平と秘書とも言える医師中山、そして鉄平と連絡役と荷物持ちの5人で萩を出立する事になった。
松江に到着した次平と鉄平
中山親子の切腹から半月後ほど経って、次平らは松江に着いた。松江公は喜び、次平は松江藩御殿医となった。鉄平の半年を超える作戦は、終了した。三之助は、三之助自身の将来も考えて、長州藩においてきた。源三も、妻子を萩に呼び寄せた。ここなら静かに暮らせるだろうと鉄平も源三も思っていた。
源三は、西洋薬の調達と、薬草園の拡充で大変だった。やがては自分達の薬草園で近い薬草を栽培していかないといけない。思いがけず福岡や長州で藩の庇護も受ける事になった。
まだ次平の医院では鉄平の薬種問屋の店が必要だった。福岡や長州では思いがけず、藩の庇護も得た福岡や萩の各店でも、長崎とは別に原末を作っていく事が出来た。
鉄平、純次から詳細を聞く
鉄平は、前もって購入していた屋敷で、純次と話をしていた。事の詳細を聞いた。早苗の件も中山による原殺害も、結局有耶無耶になっていた。鉄平はお前も順三となり、薬種問屋をやってくれと頼み、手に入れる事になった。跡継ぎがなく、資金繰りに苦労している店を探して、通常より高い金額を出して、居抜きで購入する事になった。薬種問屋は長崎、福岡、江戸、萩と広がっており、薬そのものは、良質な薬草が安価で手に入れる事ができる筈である。薬草園も広がっているようである。もっとも薬草園は源三が手配し、長崎にいる伍平たち少数のものが管理していた。
松江での鉄平
鉄平は薬種問屋を運営し、順三が大番頭となり、以前からの番頭以下は元通りで、実際の仕事はそのままの体制であったが、良質な薬草が以前よりも相当安い金額で入手できる。順三は町での情報収集に当たって、新しい薬草などを調べて、時折指示を出すだけで、問屋での会合なども順三がやっていた、時折帳簿上の間違いを指摘したり、質問する程度であった。鉄平には、いつも飛脚が来たり、手紙を書いたりしていて、月に数回順三から報告を受けるだけであった。
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