のら猫の三文小説

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次平の復讐 No.18

2012-11-25 09:36:19 | 次平の復讐

松江での次平



次平は御殿医としては、順調だったが、医院を開設する事については松江公は了承したが、誰でも診察する事にはあまり賛成では無かった。誰かの紹介による患者とか、特に診断する事が難しい患者に限定して、研究を重視して、高度の医術を追求して欲しい。お城の仕事も殿様とか藩に影響を与える人に限定しているようで、他の御殿医たちも誰でも診察できず、それぞれ松江公の指定する人たちだけを診ているようであった。次平は直接治療するのではなく、御殿医の総括をして欲しいといわれた。松江公の気持ちは有り難かったが、「私は医師であり、病んでいる人がだれであり、診るのが当然ではないか」との思いは残った。 



それでも殿様の意向を無視するわけには行かず、それに元々学究肌でもあり、研究を進めていた。それになにより、診察の機会があまりない。中山でさえ診察する機会が少ない。研究だけで実践がないのも医師としては不満である。難しい病気でなければ、鉄平の医院へ行く事も憚れた。何しろ奉行でも風邪を引いて次平に診察を求めて、家老から「君も偉くなったね。」と言われた噂も流れた程である。 



殿様から次平に診て貰えと言われない限り、家老でも次平に診察を求めなかった。鉄平も時折訪ねてきたが、次平の愚痴を聞いている事が多く、新しい薬などについては話をしたが、貧しい人への医療や生活の基盤を固めるための方策については相談する事も憚れた。

鉄平は、今は次平に頼めないと思った。貧しい人を診察し、薬代も払えなくなった医師たちを集めて、資本を投入して新しい医院を作り、順三に新しい薬や長崎での実践例などを紹介させるように指示した。

ただ次平は話を間接的に知り、中山に密かに、この医院での医療を手伝わせた。いいまで貧しい人を中心としていた医師たちは、高価な薬を使う事を躊躇しており、新しい治療までには手が回らなかっただけで、志は高かった。名医として名高い次平の助言も、中山から得られ、最新の医術に基づく長崎の治療例も知り、治療の質も上がった。又 次平の助言も得られる医院として、密かに知られるようになり、武家や裕福な町人たちも来るようになり、医院としての経営も楽になっていた。 


鉄平、松江での体制を考える。



順三は人入れ屋の株は入手できそうだといった。三之助からは色々な助言が届いた。長崎の店からは三之助などが抜けて、猫の手も借りたい程で、難しく、鉄平旦那に来て欲しい程であるが、それでも鉄平旦那と働きたいと言う者は多い。色々と人も育ています。福岡か長崎から、手代の一人を派遣しますと言ってきた。


京二からは、三之助から鉄平さんの話を聞いた。「私は動けないが、三郎の店もある程度安定してきた。気の利いた男が数人いるが、将来衝突しそうな気がしている。三郎からも相談を受けている。料理屋の店を見付けて欲しい。派遣するように三郎に話をしている。料理屋があれば、炊き出しなどもやり安いではないか。」と言ってきた。 



鉄平は、順三に料理屋についても買える店を探して欲しいと伝えた。居抜きで購入した口入れ屋は、三之助の助言は参考になった。順三が雇っていたものたちが仕事を探していると相談した事もあって、人入れ屋も拡充できた。貧しい地域についても、その人たちの相談に乗ってやれる事ができた。少しつづ仕事の量も増えてきた。仕事の開発が必要であるという思いは強くなってきた。 



鉄平の連絡役だった幸三は、鉄平から金を借り、飛脚屋を作りだしていた。全国に広がった鉄平の作った薬種問屋、人入れ屋、医院が置かれた、長崎、福岡、萩、江戸に飛脚屋を作ったり、飛脚屋を買い取り始めた。鉄平の薬種問屋の薬は極秘と言えた、薬種問屋内の専用便と秘密保持が目的だった。 



藤一からも手紙は来た。「中山家老の件はどうなりましたか? 私はもうとっくに足を洗い、光次と名前を変えています。顔は知られていませんが、開かずの藤一などと変に名前は知られていますので、名前は変えました。もう藤一は死にました。やっている料理屋は順調ですが、私がする事はあんまりなく、暇で小さな鍵前屋をやっていますが、どうも良い錠前などを作るのは、江戸の人は向かないようです。手先の器用な人は松江にいますか?」と言った手紙が来た。「中山の件は、決着した。中山家からの盗みは無かった事になった。錠前だけでなく、細かい仕掛けの細工物などを考えて欲しい。それを松江で作りたい」と質問とした飛脚を出した。 





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