飲んでもブログ

飲んでいる時に付けたタイトルで間違いではありません。
趣味は山登りやハイキングとDVD映画の収集です。

金沢区釜利谷をぶらり(手子神社・浅間神社・正法院編)

2018年10月28日 | Weblog
金沢区釜利谷をぶらり(東光禅寺・自性院・禅林寺編)」から続く。

 禅林寺を後に、前の道路を「釜利谷小川アメニティ」入口まで歩いてバス道路に出て、次の手子神社に向かいました。

<庚申塔と二世菩薩>



 禅林寺から暫く進むと、道路脇の鉾に庚申塔(左)と二世菩薩(右)が祀ってあったので撮ってみました。

 禅林寺からは10分程歩くと、笹下釜利谷道路の手前にある交差点「宮下橋」に着きました。

<手子神社(てこじんじゃ)>

 交差点「宮下橋」で信号待ちしていると、向かい側に手子神社の鳥居が見えました。


 橋に魚が泳いでいる小宿橋を渡って手子神社に向かいました。


 小宿橋から、御神木が見える宮川の下流方面を撮ってみました。


 小宿橋を渡ると右側に、ご覧のような社務所がありました。




 鳥居の手前に、横浜市指定名木古木のケヤキがあったので撮ってみました。


 ケヤキの先に、ご覧のような手水舎がありました。


 手子神社の鳥居を正面から撮ってみました。


 ついでに、アップでも撮ってみました。


 鳥居の左側に、「手子神社由緒」があったので撮ってみました。
 手子神社由緒に依ると、手子神社は、文明5年(1473)釜利谷の領主の伊丹左京亮が宮ケ谷の地に創始、延宝7年(1679)伊丹氏の子孫の三河守昌家の子(江戸浅草寺の智楽院忠蓮僧正)が現在の地に遷祀したようです。
 又、境内社の竹生嶋弁財天社は、古く「小泉夜雨」の起源となった小泉の瀟湘(しょうしょう)の松の下の祠であったが、享保8年(1722)江戸の木島又右衛門政尚が玄峰和尚と共に、同所に石窟を構築し遷宮し、昭和15年(1940)現在の地に遷座したようです。


 階段を上っていると、今度は横浜市指定名木古木のイチョウがあったので撮ってみました。


 階段の上に着くと、左側に見つめ合っている親子の狛犬がいました。


 右側にも、同じような狛犬がいたので撮ってみました。


 拝殿で、無事にここまで来れたお礼を兼ねてお参りをしました。


 お参りしてから、向拝に掲げてあった扁額を撮ってみました。


 ついでに、立派な御賽銭箱があったので撮ってみました。


 手子神社の左側に、境内社があったので行ってみました。


 取り敢えず、鳥居の後にあった石窟の竹生嶋弁財天社を撮ってみました。


 

 折角なので、石窟の中を撮ってみましたが、人面蛇体のような御祭神が祀られていました。


 拝殿の後ろに本殿があったので撮ってみました。




 本殿の後ろに回ると、後の壁は岩盤を削って造られているようでした。




 境内の端に行って、下に見える景色を撮ってみました。


 階段を下りると、右側に御神木のケヤキがありました。






 御神木の先に、ご覧のような庚申塔や馬頭観音が並んでいたので撮ってみました。
 ⇒ この道は、かつては街道だったかも知れませんね!?


 宮川橋に遣って来ると、宮川に御神木が写っていたので撮ってみました。

<宮川>

 宮川橋から宮川沿いを5分程下ると、ご覧のような中州橋に着きました。


 中州橋に、ご覧のような桜が描かれていたので撮ってみました。


 折角なので、上流の桜の木を撮ってみました。


 ついでに、これから進む下流も撮ってみました。


 中州橋を渡って宮川沿いを中井橋まで歩いて、中井橋の先を左折して笹下釜利谷道路を渡ることにしました。

 笹下釜利谷道路を渡ってからは、市立釜利谷東小学校の横を通って山側のバス道路に出て、金沢文庫駅方面に歩きながら浅間神社の入り口を探すことにしました。

<浅間神社(せんげんじんじゃ)>

 バス道路に出て5分程歩くと、左側に浅間神社に行けそうな緩い坂道があったので入ってみました。
 坂道を暫く進むと、ご覧のような馬頭観音があったので撮ってみました。
 



 近くに、黄色い花を咲かせている木(アンデスの乙女?)があったので撮ってみました。


 坂道を5分程上ると、ご覧のような社標のある浅間神社に着きました。
 ”谷津”は町名で、京急線の能見台駅も以前は谷津坂駅の名前になっていました。


 取り敢えず、立派な鳥居を撮ってみました。


 階段を上ると右側に、ご覧のような手水舎があったので撮ってみました。
 又、手水舎の先にも急な階段があって、上の方には鳥居も見えました。


 急な階段を上って鳥居を撮ってみましたが、急な階段は未だ続いているようです。






 鳥居の先も階段は続いていて、最後は、ご覧のようなかなり急な階段を上ることになります。


 階段を上り切ると、境内に、ご覧のような社殿があったので撮ってみました。


 折角なので、社殿をアップで撮ってみました。


 又、振り返って、上って来た急な階段を撮ってみました。


 境内の左側に、ご覧のような境内社があったの行ってみました。




 境内社は第六天神で、中央には”宝暦十年”と彫られた石碑がありました。


 境内社の隣に、ご覧のような手水舎があったので撮ってみました。


 手水舎の近くに、「御祭神 木花開耶姫尊」の碑があったのですが、所々、字が擦れていて読めませんでした。


 社殿に行って、ここまで来れたお礼を兼ねてお参りをしました。


 お参りしてから、社殿の後ろに行ってみると、ご覧のようになっていたので社殿は拝殿かも知れませんね!?


 再度、立派な拝殿を撮ってみました。


 帰りは、ご覧のような案内が出ている裏参道から下に行ってみました。










 裏参道と言っても、ご覧のような山道を下るので裏参道ではなく裏道ですね!?


 下の道路に着いたので、浅間神社の裏参道の入口を撮ってみました。
 この道路は、浅間神社の社標が立っていた道に通じていたので、来る時に通ったバス道路に出れました。

 次はバス道路を戻って、正法院と御嶽神社に行くだけになりました。

<赤井稲荷>

 バス道路に戻ると、次に向かう正法院の案内が出ていたので少し余裕も出てきました。
 バス道路を暫く歩くと、右側に鳥居があったので行ってみました。


 石段の下に着いたので社殿を撮ってみました。


 取り敢えず、社殿でお参りをしました。


 お参りをしてから社殿の内部を見ると、小さな祠があったので撮らせていただきました。

<正法院(しょうぼういん)>

 バス道路に戻って暫く進むと、右側に赤井町内会館があって、その先に正法院がありました。


 取り敢えず、正法院の山門を撮ってみました。


 本堂の手前右側に、案内板以外に、赤井不動尊正法院の碑、こんにちわ小僧、輪廻塔などが所狭しと並んでいました。


 本堂の下に行ってみましたが、本堂は掃除をしているようなので、ここでお参りをしました。


 お参りしてから、赤井不動尊の提灯をアップで撮ってみました。


 提灯の下に、稚児大師が合掌していたのでアップで撮ってみました。




 本堂の階段の両端に、十六羅漢像が祀ってあったので撮ってみました。


 又、「赤井不動尊と赤井の井戸」と「赤井精舎十三佛永代墓」の説明案内板があったので撮ってみました。






 本堂の向かい側にも、いろんなものが置いてあったので撮ってみました。


 山門の脇に、弘法大師修行石像があったので撮ってみました。




 六地蔵尊の先にあった階段を上って、赤井不動尊が祀ってある奥ノ院に行ってみることにしました。




 途中の墓地から、奥ノ院にある幟と看板を撮ってみました。


 奥ノ院に着いたので幟と看板を撮ってみましたが、近過ぎて上手く撮れません。


 仕方がないので、別の離れた場所(お墓)から撮ってみました。


 奥ノ院を横から撮って不動堂に行ってみました。


 不動堂の奥に「赤井不動尊と不動の福石」の説明案内板があったので撮ってみました。


 取り敢えず、不動堂でお参りをしました。




 折角なので、赤井不動尊をアップで撮ってみました。


 奥ノ院から下に見える墓地と本堂を撮ってみました。


 奥ノ院を後に、階段を下りていると、右側に赤井精舎十三佛永代墓があったので行ってみました。




 中央で十三佛(じゅうさんぶつ)がお祈りしていたので撮ってみました。


 失礼してアップでも撮らせていただきました。


 本堂の前に戻って来たので、再度、本堂を撮って正法院を後にしました。

 バス道路に戻って、最後の御嶽神社に向かいました。

<御嶽神社>

 バス道路沿いを右(西)の方に5分程歩くと、御嶽神社がありそうな感じがしたので右に曲がってみました。住宅地の急道を歩きながら、広範囲に御嶽神社を探し回ってみました。
 結局、御嶽神社は見つからず、急坂の下に行くと、ご覧のような庚申塔があったので撮ってみました。


 石段に座ってグーグルマップで確認すると、御嶽神社はこの辺りにありますが(グーグルマップが間違っている?)・・・
 石段の上を見上げると、鳥居があったので上がってみました。




 御嶽神社の確証はありませんが、ご覧のような鳥居と祠があったので撮ってみました。
 これが、探していた御嶽神社なら、なんだかなですね!
 

 擁壁に何か書いてあったので撮ってみましたが・・・

 スッキリしなかったので、バス道路に戻って、先のバス停「赤坂」まで歩いてみましたが、神社は見つけられませでした。
 歩き疲れたので、金沢文庫駅行きのバスが来たので乗ってしまいました。
 金沢文庫駅に着いたので、東口近くの居酒屋に入って喉を潤しました。

 今回の「金沢区釜利谷をぶらり(東光禅寺・自性院・禅林寺・手子神社・浅間神社・正法院編)」は、御嶽神社以外はそれなりに楽しめたので満足しています。又、今回はiPadを活用したので、道に迷うことは殆どありませんでした。
 尚、万歩計は、それなりに歩いたので23,000歩を超えていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢区釜利谷をぶらり(東光禅寺・自性院・禅林寺編)

2018年10月27日 | Weblog
 10月26日(金)は、横浜市金沢区釜利谷南にある介護施設に行く用事があったので、帰りに近くにある寺院を回ってみました。

 順路は、用事を済ませてから東光禅寺、自性院、禅林寺、手子神社を回って、その後、笹下釜利谷道路を渡って、谷津町にある浅間神社、そして釜利谷東にある正法院、御嶽神社に行ってみることにしました。

 尚、金沢文庫駅の西側を歩くのは、2017年9月「六国峠ハイキング(能見堂緑地~金沢自然公園)」以来になります。

<金沢区総合案内サイン>

 金沢文庫駅西口の階段下に、ご覧のような案内図があるので、分かりにくい浅間神社・正法院の場所を確認しました。

<釜利谷(かまりや)南公園>

 用事を済ませたので、バス停「白山道」の裏にある「釜利谷南公園」に行ってみました。


 公園には、ご覧のような石段があるので上に行ってみました。




 石段を上ると、植込みの下を回る道があって、左側にはご覧のような池がありました。




 植込みの後も、ご覧のような散策路になっていたので上に行ってみました。




 散策路の上に着くと、散策路は民家の横を通る道路に通じていました。
 どうやら、上と下の道路を繋ぐ傾斜地を公園にしているみたいでした。


 仕方がないので散策路を戻って、最初の東光禅寺に行ってみることにしました。

<東光禅寺(とうこうぜんじ)>

 釜利谷南公園下の山側の道路を10分程歩くと、東光禅寺の入口がありました。




 山門を入ると、ご覧のような参道になっていて、右側には寺標と山門がありました。


 山門の横を通って参道の突き当りに行くと、ご覧のような石碑が祀ってあったので撮ってみました。




 扁額「白山」が掲げてある山門を撮って境内に入りました。


 境内に一歩入ると、ご覧のような庭園になっていました。


 本堂の手前に、永代供養塔「やすらぎ」があったので撮って、お参りをしました。


 永代供養塔「やすらぎ」から本堂を撮って行ってみました。




 本堂で、道に迷わないで全ての寺社が回れるようにお参りをしました。


 お参りしてから本堂の内部を撮らせていただきました。




 本堂の天井に、見事な大龍画が描かれていたので撮ってみました。


 本堂の後ろに、墓苑があったので行ってみました。


 墓苑の後ろの方に、ベンチのあるお墓があったので行ってみました。




 ご覧のようなお釈迦様(?)が見守っている共同墓(?)があったので撮ってみました。


 東光禅寺を後に、地層が見える道路を通って先(西)の方に行ってみました。
 広い道路に出たので、左(南)に曲がってバス道路に出てみました。

<白山道公園>



 バス道路に出て左(東)の方に行くと、白山道公園があったので昼食(🍙)を食べながら一休みしました。

<白山道トンネル北>

 一休みしてから、更にバス道路を東の方に行くと、交差点「白山道トンネル北」に出ました。
 名前に惹かれてトンネルを見に行ってみることにしました。
 尚、トンネルに行かないこの方向には、先程行った釜利谷南公園が見えました。


 白山道六郎ヶ谷公園脇の坂道を上っていると、左奥に盛土をした所があって何かありそうなので、帰りに寄ってみることにしました。


 交差点から坂道を5分程上ると、ご覧のようなトンネルがありました。
 



 取り敢えず、トンネルの入口と内部を撮ってみました。


 坂道を戻っていると、擁壁にハシゴのような物がぶら下がっていたので撮ってみました。


 取り敢えず、下から撮ってみましたが、落ちないように丸い柵が付いているようでした。

<伝畠山重保墓(でんはたけやましげやすはか)>



 白山道六郎ヶ谷公園の前に戻って来たので右に曲がると、駐車場の奥に畠山六郎重保公廟所がありました。


 柵内に説明案内板があったので撮ってみました。
 説明案内板の中に、『・・・土人云畠山重保、此邊の山中にて自害せしを爰に葬れりと。・・・』の一文があったので、畠山六郎重保は自害したみたいです。


 広い墓地の隅に、ご覧のような五輪塔が祀られていたので撮ってみました。


 奥の離れたところにあったと五輪塔と門扉を撮って、伝畠山重保墓を後にしました。

<自性院に向かう>

 交差点「白山道トンネル北」から釜利谷南公園の前に戻って、バス道路沿いに北に向かって5分程歩くと、左側に上の道路に行ける階段があったので上ってみました。


 上の道路で、自性院へ行き方をiPadのグーグルマップで確認しました。
 自性院は真北にあって遠回りしないで行けそうなので、横断歩道を渡ってみました。


 住宅地のなだらかな坂道を上っていると、釜利谷坂本第二公園にコキアがあったので見に行ってみました。




 紅葉し始めた素晴らしいコキアだったのでアップで撮ってみました。


 又、ご覧のようなボルダリングもあったので撮ってみました。


 公園で一休みしてから、坂道を上って頂上近くに着いたので、自性院に下りれそうな山道を探してみました。
 しかし、残念ながら自性院に下りれそうな山道は見つかりませんでした。
 仕方がないので、元のバス道路に戻りました(ロス時間約20分)。


 バス道路に戻って5分程歩くと、ご覧のような橋がありました。
 自性院は西の方にあるので、橋を渡って左の方に行ってみました。


 橋を渡っていると、宮川(?)に鯉が泳いでいたので撮ってみました。


 又、ご覧のような白鷺(ダイサギ?)もいたので撮ってみました。


 橋の先は、ご覧のような「釜利谷小川アメニティ」になっていました。










 自性院に行けそうな橋を探しながら、ご覧のような水辺の散策路を進んでみました。




 途中、開花時期にはアジサイやハスの花が咲いていた水路もありました。


 散策路を5分程歩くと、自性院に行けそうな福松橋(?)があったので左に曲がってみました。

<自性院 (じしょういん)>

 運良く、自性院に着けたので山門を撮ってみました。
 山号は橋と同じ福松山になっていましたが、橋の名前を山号と同じにしたのですかね!?


 取り敢えず、立派な本堂を撮ってお参りをしました。


 お参りしてから、あまり見かけない縦型の扁額を撮ってみました。


 本堂の前に、立派な香炉があったので撮ってみました。


 又、本堂の右側には、水子地蔵尊が祀られていたので撮ってみました。


 山門を出て、本堂の右手に行ってみました。
 駐車場の上には、ご覧のような墓地が広がっていました。
 時間ロスした道からだと、墓地の上に出るので下りれなくて当然でしたね!?


 左側に、本堂と水子地蔵尊の後ろ姿が見えたので撮ってみました。


 又、ご覧のような山王社があったので撮ってみました。




 墓地に行く坂道の入口に、ご覧のようなお地蔵様(?)が祀ってあったのでアップで撮ってみました。
 
<禅林寺(ぜんりんじ)>

 自性院を後に、ご覧のような水辺の散策路に戻って先に進んでみました。


 散策路を暫く歩いて右に曲がると、道路脇にご覧のような山門のある禅林寺がありました。


 取り敢えず、道路を渡って立派な山門を撮ってみました。




 山門の左手奥に、ご覧のような金毘羅宮があったので行ってみました。


 金毘羅宮に、ご覧のような祠があったので撮ってみました。


 山門に戻って、奥の本堂と一緒に山門を撮ってみました。


 山門には山号「竹嵓山」の扁額が掲げられていました。


 山門をくぐると、正面に立派な本堂が建っていたので撮ってみました。


 左側に、大きな手水舎があったので行ってみました。


 手水舎と比べると、手水鉢が小さい感じがしますね・・・


 手水舎の隣りに、ご覧のような延命地蔵堂があったので撮ってみました。




 お参りしてから、扁額と堂内のお地蔵様のお顔を撮らせていただきました。


 手水舎で身を清めたので、本堂に行ってお参りをすることにしました。


 立派な本堂を撮って、ここまで来れたお礼を兼ねてお参りをしました。


 お参りしてから、向拝桁の彫り物と扁額をアップで撮ってみました。




 ついでに、向拝柱の木鼻を撮ってみました。


 立派な香炉があったので撮ってみました。


 本堂の手前右に、ご覧のような庫裡があったので行ってみました。


 又、庫裡の玄関前の植込みに、ご覧のような七重塔があったので撮ってみました。




 参道の右側には、ご覧のような素晴らしい植込みがありました。


 ついでに、参道の左側の植木も撮ってみました。


 最後に、本堂と参道の右側の植込みを撮って、禅林寺を後にしました。

 「金沢区釜利谷をぶらり(手子神社・浅間神社・正法院編)」に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海老名をぶらり(龍峰寺・電車基地編)

2018年10月22日 | Weblog
 「海老名をぶらり(相模国分寺編)」から続く。

<かしわ台1号踏切>

 相模国分寺跡を後に県道を10分程歩くと、相鉄線の「かしわ台1号踏切」に着きました。


 踏切で待っていると、上りの相鉄線が遣って来たので撮ってみました。


 上りの線路脇に、鉄ちゃんがいたので私も踏切を渡りながら線路を撮ってみました。

<龍峰寺に向かう>

 踏切を渡ると、右側に案内<自然と歴史のさんぽみち>があって、500mで龍峰寺に着けそうなので行ってみることにしました。


 案内に従って暫く進むと、また案内が出ていたので、それに従って左側の坂道を登ります。


 坂道を登っていると、右側の藪の中にご覧のような石碑があったので撮ってみました。
 ⇒ ”源頼朝〇”と彫ってありそうですが、誰が難の目的で建てたのでしょうね!?


 坂道は高台に続いているので、上の方に着くと見晴らしの良い場所がありそうです。


 見晴らしの良い場所があったので行ってみましたが、残念ながら富士山は見えませんでした。

<清水寺公園(しみずでらこうえん)>

 案内に出ていた清水寺公園に着きました。
 公園の名前の由来は、かつてこの地に清水寺(せいすいじ)があったことみたいです。


 園内に、ご覧のような観音様(?)が立っていました。


 折角なので、お顔をアップで撮らせて頂きました。


 道路の反対側に、ご覧のような長い滑り台があったので撮ってみました。




 この滑り台は無料のようで、ご覧のような入口から登るみたいです。


 公園には、ご覧のような池もありました。




 又、戦争で戦死した兵士の記念碑も祀られていました。

<龍峰寺(りゅほうじ)>

 清水寺公園の先に行くと、ご覧のような仁王門のある龍峰寺に着きました。
 尚、清水寺と龍峰寺の関係は、龍峰寺がこの地に移って来たときに、龍峰寺の末寺だった清水寺は龍峰寺に併合されたみたいです。


 入口に、龍峰寺境内伽藍配置図があったので撮ってみました。




 傍に、ご覧のような実を付けた黒ガネモチがあったので撮ってみました。


 取り敢えず、海老名市の重要文化財に指定されている仁王門を撮ってみました。






 吽形(うんぎょう)像を撮りに行ったのですが、柱が邪魔していたのでお顔と足だけにしました。






 ついでに、阿形(あぎょう)像も同じように撮ってみました。


 仁王門の天井にあった寺紋(丸に笹竜胆、北条鱗)を撮ってみました。


 宣伝のために「第21回やきもの百人展」のポスターも撮ってみました。


 ご覧のような参道を通って、正面にある観音堂に向かいました。




 参道の左側に、鐘楼があったので撮ってみました。


 参道に、ご覧のような実が落ちていたので撮ってみました。




 見上げると、大きな木にいろんな色の実が生っていましたが木の名前は分かりません。


 ”黒ろうばい”の名札が付いているロウバイがありましたが、黄色ではなく黒い花を咲かせるのですかね!?


 「心洗」の扁額が掛かっている、水屋に着いたので撮ってみました。


 水屋で一休みしてから、薬師堂に行ってみました。


 薬師堂は、相模国分尼寺に縁のある古刹(こさつ)、旧清水寺の本堂で、現在は龍峰寺の仏殿として使われているみたいです。
 尚、観音堂は海老名市の重要文化財に指定されています。


 お参りしてから扁額を撮ってみましたが、「奥徳山」となっていたので旧清水寺の山号ですかね!?


 薬師堂の右側にある本堂に行ってみました。


 写真に納まらないので少し離れて撮ってみました。


 本堂でお参りしてから、山号「瑞雲山」をアップで撮ってみました。






 本堂の左手奥に、吾妻社があったので撮りに行ってみました。


 本堂の横に、黒い屏風のようなものが置いてあったので撮ってみました。
 傍に行ってみると、「本堂建設寄付者御芳名」の碑でした。


 碑の横に、花が咲いている桜があったので撮ってみました。




 珍しかったのでアップで撮ってみました。


 本堂の後ろから、薬師堂の後ろに行ってみました。


 薬師堂の裏に、駕籠のようなものが置いてあったので撮ってみました。


 折角なので、アップで撮ってみましたが何でしょうね!?




 薬師堂の後ろに、国指定重要文化財の千手観音立像(木彫)が保存されている収蔵庫がありました。
 傍に、海老名郷土かるた「せ」の「千手観音 仁王が守る 清水寺」がありました。


 薬師堂の横に戻って来たので、薬師堂を斜めから撮ってみました。


 薬師堂の横に、ご覧のような客殿「瑞龍殿」があったので行ってみました。


 取り敢えず、立派な扁額をアップで撮ってみました。


 玄関先に、”箱根山椒バラ”の名札の付いている木がありました。




 アップで撮ってみましたが、花が開いていないのでバラには見えません。


 境内に、ご覧のような寶掌地蔵尊(?)があったので撮ってみました。


 参道を戻って仁王門から外に出ることにしました。




 仁王門を撮っていると、右側に庫裡や本堂に行ける参道があったので撮ってみました。

<弥生神社>

 仁王門の右側に、弥生神社の矢印が出ていたので進むと、弥生神社の石段の上に出ました。


 石段を下りると、石段の脇に御神籤を結び着けた柵のようなものがあったので撮ってみました。




 境内にベンチがあったので一休みして社殿を撮ってみました。




 ついでに、社殿の横をアップでも撮ってみました。




 取り敢えず、社殿でお参りをしました。


 社殿の左側に、境内社の蚕影神社(こかげじんじゃ)があったので行ってみました。




 お参りはしましたが、「安産」と「子授け」に御利益があるようです。


 ここからは、ご覧のような階段を下って降ります。


 階段を下りると、階段脇に手水舎があったので撮ってみました。


 又、右側の奥に、ご覧のような神楽殿(?)があったので撮ってみました。


 手水舎と一緒に、下りて来た階段を撮ってみました。


 この階段の下にも、別のご覧のような階段がありました。
 どうやら、この階段を上ってお参りするのが、弥生神社の正式な参拝ルートみたいです。


 弥生神社の鳥居があったので、振り返って撮ってみました。




 ご覧のような長い(200m?)参道を通って県道407号線に向いました。

 参道の出口に、海老名郷土かるた「や」の「弥生神社は 四つのむらの 鎮守様」がありました。

<相模国分尼寺跡>

 県道を南に向かって暫く歩くと、フェンスに囲まれている相模国分尼寺跡がありましたが、入口が分かりません。
 向かい側の鮮魚店の前に、標柱<庚申大権現入口>があったので横断歩道を渡ってみました。


 道路を暫く進むと、小田急線の踏切の手前に国分尼寺跡の出入口(?)がありました。
 尚、この道路も国分尼寺跡の中にあることが、帰りがけに分かりました。


 寺院跡の真ん中に、説明案内板「相模国分尼寺跡(金堂跡)」がありました。
 説明案内板に依ると、近年の発掘調査で、金堂跡の他に講堂跡や鐘楼の基壇の一部が確認され、その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両側に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置で、国分尼寺跡の規模は国分寺跡より一回り小さいことが分かったみたいです。


 説明案内板の後ろに、庚申堂があったので行ってみました。




 庚申堂で、ここまで無事に来れたお礼を兼ねてお参りをしました。


 お参りしてから堂内を撮らせて頂きました。


 庚申堂の傍に、ご覧のような庚申塔があったので撮ってみました。
 近くに、海老名郷土かるた「に」の「尼寺跡に 庚申塔と ひがん花」がありました。


 庚申堂の手前に、国分尼寺金堂阯の碑があったので撮ってみました。


 ついでに、碑の南側の寺院跡を撮ってみました。


 折角なので、寺院跡の東側も撮ってみました。


 国分尼寺跡の出入口から道路に出ると、向かい側の空き地に碑があったので行ってみました。


 国分尼寺講堂阯の碑が建っていたので撮ってみました。

 相模国分尼寺跡を後に、小田急線の踏切を渡って小田急海老名電車基地に向かいました。

<国分尼寺児童公園>

 少し遠回りしましたが、相模国分尼寺跡からは15分程で尼寺交差点の手前にある国分尼寺児童公園に着きました。


 公園で一休みして、尼寺交差点に向かいました。

<小田急海老名電車基地>

 国分尼寺児童公園からは、5分程で尼寺交差点に着きました。
 尼寺交差点から電車基地は見えますが、電車基地の入口までは更に5分程歩く必要があります。


 イベント会場に着きましたが、ご覧のように多くの来場者がいました。
 電車が停まっている場所に着くまでは、人の行列の後に付いて行くしかありません。






 電車が停まっている場所に着くと、ご覧のような保守車両(?)が停っていたので撮ってみました。


 線路を渡って、ロマンスカーの方に行ってみました。




 定期運行を終了(7/10)したロマンスカーLSEが停まっていたので、先頭の方に行ってみることにしました。




 LSEのボディと先頭車両を撮ってみましたが、先頭車両の前には大勢のカメラマンがいました。


 取り敢えず、横から先頭車両を撮ってみました。


 アップで撮ると、運転手昇降用のハシゴがハッキリ見えました。




 LSEの先頭を撮っている人達がいましたが、私も回り込んで撮りに行ってみました。




 強引に割り込んで、LSEの先頭を撮らせて頂きました。




 滅多に電車基地に入ることがないので、線路を撮ってみました。






 ここにも、ご覧のような保守車両が停まっていたので撮ってみました。




 電車基地の出口に向かっていると、ロマンスカーEXEが遣ってきたのでアップで撮ってみました。

 小田急海老名電車基地を後に、準備中で入れなかった中華料理店「玲鈴」に行って、遅い昼食を食べることにしました。

<玲鈴>

 15時前だったのですが、店前の看板は営業中になっていました。


 入口の写真を撮って店内に入ると、15時迄と言うことで断われてしまいました(アチャ!)。
 仕方がないので、来る途中にあった中華料理店に入って遅い昼食を食べました。

 今回の「海老名をぶらり(相模国分寺・龍峰寺・電車基地編)」は、小田急海老名電車基地は人が多くてあまり楽しめませんでしたが、相模国分寺跡は素晴らしさが再認識できて為になりました。
 又、予定に入れてなかった龍峰寺に行けたのは楽しめて良かったです。
 尚、万歩計は、それなりに歩いたので16,000歩近くになっていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海老名をぶらり(相模国分寺編)

2018年10月21日 | Weblog
 10月20日・21日は、小田急線海老名駅で「小田急ファミリー鉄道展2018」を開催していました。

 折角なので、海老名を散策した後に第1会場(小田急海老名電車基地)に行ってみることにしました。
 尚、歩くコースは次のようにしました。
 ビナウォーク→相模国分寺→海老名の大ケヤキ→相模国分寺跡→相模国分尼寺跡→小田急海老名電車基地

 ところで、海老名を散策するのは、2014年7月「海老名をぶらり」以来になります。

<ビナウォーク>



 ビナウォークは、ハロウィンが近いのでご覧のような飾りをしていた。


 第2会場には、ロマンスカー模型に乗る人達の長い行列が出来ていました。


 取り敢えず、ロマンスカー模型を撮って先に行ってみました。




 七重塔の傍に、ロマンスカーLSEのエアー遊具があったので撮ってみました。




 折角なので、七重塔をアップで撮ってみました。


 ビナウォークを後に、相模国分寺に向かいました。

<玲鈴(りんりん)>

 交差点「中央公園入口」を左折(県道40号線)しないで間違えて直進してしまいました。
 歩いていると中華料理店「玲鈴」があって、店前が珍しかったので行ってみました。


 ご覧のような兵馬俑が展示されていたので撮ってみました。


 兵馬俑の前には、ご覧のような半鐘(?)がありました。


 奥に、ご覧のような観賞堂があったので見に行ってみました。


 堂内に、ご覧のような亀蛇(?)がいたのでアップで撮ってみました。


 店前に準備中の看板が出ていましたが、時間があれば帰りに寄ってみます。
 玲鈴を撮って、県道40号線に向かいました。

<県道40号線に向かう>

 海老名市立中学校(?)の駐車場に、競うように大きな木が聳えていたので撮ってみました。




 県道40号線に着いたので、ご覧のような跨道橋を通って相模国分寺に向かいました。

<相模国分寺(さがみこくぶんじ)>

 相模国分寺に着いたので本堂を撮ってみました。




 取り敢えず、回向柱を左右に本堂を撮ってみました。


 先ずは、本堂に行ってお参りをしました。


 お参りしてから、本堂の向拝と扁額をアップで撮ってみました。




 境内に、「尼の泣き水」と言われる如意輪観音と尼が祀られている東屋(?)がありました。
 「尼の泣き水」は、漁師と恋に落ちた国分尼寺の尼僧が、国分寺のまぶしい輝きが元で付近の川魚が逃げてしまうとの訴えに、国分寺に火を付けてしまい、刑に処せられてしまいます。その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出し、村人は尼さんが罪をわびて流している涙だと云って、その湧き水を「尼の泣き水」と呼んだと云われています。




 折角なので、如意輪観音と尼をアップで撮ってみました。
 又、近くに、海老名郷土かるた「わ」の「若き尼の 恋物語 尼の泣き水」がありました。


 近くに、六地蔵尊が祀ってあったので撮ってみました。


 庫裡の玄関に、ご覧のようなお坊さんが立っていたので撮ってみました。




 国指定重要文化財の梵鐘があったので撮ってみました。
 この梵鐘は、鎌倉時代の正応5年(1292)に鋳造されたものみたいです。


 取り敢えず、梵鐘をアップで撮ってみました。
 ここにも、海老名郷土かるた「つ」の「釣鐘は 国分季頼の 銘残す」がありました。


 階段下の先の方に、「海老名の大ケヤキ」が見えたので撮ってみました。


 相模国分寺の階段上り口にも、海老名郷土かるた「る」の「瑠璃光の 如来あらたか 薬師堂」がありました。

<海老名の大ケヤキ>

 「海老名の大ケヤキ」に着いたので、下から大ケヤキを撮ってみました。
 この大ケヤキは、根回り13.5m、目通り7.5m、樹高20mの神奈川県指定天然記念物です。
 尚、目通りとは、木に人間が並んで立ったときの木の直径のことみたいです。




 取り敢えず、「海老名の大ケヤキ」の根の回りをアップで撮ってみました。
 ここにも、海老名郷土かるた「け」の「県央に さすが海老名の 大欅」がありました。


 「海老名の大ケヤキ」の保護面を撮って、相模国分寺跡に向かいました。

<相模国分寺跡>

 海老名郷土かるた「て」の「天平の 礎石が語る 国分寺」ある相模国分寺跡に着きました。
 相模国分寺跡は、塔跡、金堂跡、中門跡、僧坊跡に分かれている国指定史跡です。


 相模国分寺跡に上がると、ご覧のような回廊跡があって中程に中門跡がありました。
 回廊は、塔と金堂を取り囲むように、中門と講堂(塔と金堂の中間線の北側の位置)を繋いでいます。


 回廊の手前に、相模国分寺阯の碑があったので撮ってみました。


 碑の左手奥に、金堂跡の小高い所があったのでアップで撮ってみました。 


 又、左手に塔跡が見えたので撮ってみました。




 取り敢えず、金堂跡に行って相模国分寺遺蹟の碑を撮ってみました。


 金堂跡の右の方に、秋の七草のオミナエシが咲いていたので撮りに行ってみました。


 取り敢えず、オミナエシをアップで撮ってみました。


 ついでに、カンナも咲いていたので撮ってみました。


 塔跡を撮って近くに行ってみました。




 この塔跡は、天平13(741)年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七重塔跡です。
 基壇は一辺の長さが20.6m、高さは1.3mで、その上に七重塔を建て初重(1階)の広さは10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。
 尚、ビナウォークの七重塔モニュメントは、この七重塔を1/3に縮小したものです。


 相模国分寺跡の北側に、遺蹟を二分する道路があったので渡ってみました。


 道路を渡ると、国分寺講堂跡の碑がありました。
 どうやら、塔と金堂を取り囲んでいた回廊は、ここまで延びていたようです。


 国分寺講堂跡の後にも、建物の敷地跡があったので行ってみました。




 途中に、ご覧のような防火用水槽があったので撮ってみました。


 建物の敷地跡に着いたので、西の方に行くと僧坊跡の説明案内板がありました。


 説明案内板に依ると、僧坊は国分寺の僧が住んでいた建物で、「国分寺建立詔」では僧は20名が定員とされていたようです。
 尚、1部屋の大きさは、桁行が約9.0m(30尺)、梁行が約6.57m(22尺)みたいです。




 遺蹟を二分する道路脇に、国指定史跡の案内板に相模国分寺跡の復元図が載っていました。
 相模国分寺跡の復元模型が、海老名市温故館に展示してあるので行ってみました。

<海老名市温故館>

 取り敢えず、海老名市温故館を撮ってみました。


 入口に、海老名市郷土資料館「海老名市温故館」(旧海老名村役場庁舎)の案内が出ていました。
 ここにも、海老名郷土かるた「と」の「土器・石器・瓦や板碑 温故館」がありました。


 展示室に、相模国分寺跡の復元模型が展示してあったので撮ってみました。
 塔と金堂を取り囲んでいる回廊が、中門から講堂まで繋がっているのが分かります。


 出土した奈良時代の平瓦と丸瓦が展示されていたので撮ってみました。


 又、七重塔の水煙も出土・展示されていたので撮ってみました。


 奈良~平安時代に似たような瓦が出土しているので、修復が何回か行われていたことが分かります。




 海老名市柏ケ谷長ヲサ遺蹟では、旧石器時代のいろんな石器が出土しているのですね!


 海老名市温故館を後に、相模国分寺跡を二分している道路に戻りました。
 取り敢えず、道路の南側(塔跡、金堂跡、中門跡)を撮ってみました。
 この道路から県道407号線に出て、相模国分尼寺跡に行ってみることにしました。

 「海老名をぶらり(龍峰寺・電車基地編)」に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中をぶらり(谷中銀座・諏方神社編)

2018年10月15日 | Weblog
 「谷中をぶらり(根津神社編)」から続く。

<よみせ通り>

 蕎麦店「大島屋」の近くにあった地図で、現在地を確認すると谷中銀座は130m先にありました。


 時刻が12時を回っていたので、食事処を探しながら「よみせ通り」を歩いてみました。


 取り敢えず、入口の看板を撮ってみましたが、中央に描かれているのは延命地蔵ですかね!?




 「よみせ通り」を歩き出すと、高橋屋米店の店前に、カラフルなお米のビニール袋が置いてあったので撮ってみました。

 結局、「よみせ通り」にあった食事処は、何処も満席で入れませんでした。

<谷中銀座>

 谷中銀座に着いたのですが、谷中銀座は「よみせ通り」より人が多くごった返していました。


 天ぷら・惣菜「初音屋」の屋根に猫がいたので撮ってみました。


 谷中銀座は、ご覧のように人出が多いので昼食の時間はずらすしかありません。


 越後屋本店の屋根にも猫がいたので撮ってみました。


 道端には、ご覧のような大きな猫もいました。

 近くに生レモンサワーを出すお店があって、混んでいなかったので入ってみました。
 生レモンサワーは、レモンを擦って入れる飲み物で、珍しかったのでツマミを頼んで何杯か代わりしてしまいました(昼食の代わりにはなりました)。


 お店を出て歩いていると、ご覧のような猫がいる「招き屋」があったので撮ってみました。
 「招き屋」では、歩きながら食べれる「福にゃん焼き」を売っていました。


 今度は、ご覧のような行列が出来ている惣菜屋「すずき」がありました。
 どうやら歩きながら食べられるコロッケやメンチカツなどを売っているみたいでした。


 左側にあった「らんぷ屋」が気になったので撮ってみました。
 「ZAKUROらんぷ家」は、日本で唯一のトルコ・モザイクランプ専門店で以前はザクロカフェだったみたいです。


 向かい側の惣菜屋「いちふじ」にも人が大勢いました。


 更に進むと、「ちょんまげ いも たまる」の看板が出ているお店がありましたが、甘味処のようでした。


 隣りには、屋根干しに「落語と和小物」が出ている、おしゃれ小物を販売している多満留がありました。
 谷中は落語の町で、「昭和の落語名人」と言われる古今亭志ん生親子が住んだ町で、このお店は、志ん生親子の想い出を残すために開店したようです。


 又、邪悪なハンコ屋「しにものぐるい」があったので撮ってみました。


 自分の名前にオリジナルのユルいイラストの入った認印を2,600円(税込)で作って貰えますが、使い道がないので買うのは止めました。

<夕やけだんだん>

 谷中銀座の外れに遣って来ると、「夕やけだんだん」が見えたので撮ってみました。


 「夕やけだんだん」の下に着いたので、36段ある階段を撮ってみました。
 尚、階段の傾斜は15度と緩やかで、高低差は4mあります。


 ここにも、ご覧のようなザクロレストランがあったので撮ってみました。


 取り敢えず、「夕やけだんだん」を登ってみました。


 「夕やけだんだん」の上に着いたので、谷中銀座を撮ってみました。
 尚、「夕やけだんだん」は、夕焼けの絶景スポットにもなっていますが、夕方になるまで待てません。

<延命院(えんめいいん)>

 「夕やけだんだん」から少し先に行くと、ご覧のような延命院があったので入ってみました。


 延命院は、日蓮宗の寺院で延命院事件(延命院の住職であった日道が江戸城大奥や大名家の女中らと姦淫に耽った罪で死刑なった事件)で有名です。




 東京都天然記念物に指定されている樹齢600年以上の椎(シイ)の木があったので撮ってみました。


 奥に行くと、ご覧のような芝生庭園があって、その後ろにお堂が並んでいました。


 取り敢えず、本堂に行ってお参りをしました。


 お参りしてから本堂の入口を撮ってみました。


 又、本堂の右側に、立派な動物廟があったので撮ってみました。


 本堂の左側の建物は庫裡のようですが、取り敢えず、撮ってみました。


 左端にあったお堂を撮ってみました。


 入口に七面堂の扁額が立て掛けてあったので七面堂のようです。
 尚、恋人に逢いたい一心で放火して火刑に処せられた「八百屋お七」は、母親が七面堂にお願いして生まれた娘なので七面大明神にちなんで「お七」と名付けたという説があります。


 又、境内にご覧のような仏像もあったので撮ってみました。


 芝生庭園を別角度から撮って、延命院を後にしました。

<経王寺(きょうおうじ)>

 延命院を出て、諏訪台通りを越えると左側に経王寺があったので入ってみました。


 経王寺は、大黒天が祀られている旧谷中七福神の1つみたいです。 


 手前の石柱「開運大黒天安置」と一緒に山門を撮ってみました。




 由緒ありそうな扁額「経王寺」が掛かっている山門をアップで撮ってみました。


 参道の奥に本堂が見えたので撮ってみました。


 ”南無妙法蓮華経”、”南無日蓮大菩薩”と刻まれている石碑があったので撮ってみました。




 突き当りの右側に、ご覧のような大黒天堂があったので撮ってみました。


 左側に、可愛らしい手水舎があったので撮って本堂に行ってみました。


 取り敢えず、本堂を撮ってお参りをしました。


 お参りしてから本堂の寺紋のある入口を撮ってみました。


 参道を戻っていると、ご覧のような萩が咲いていたので撮ってみました。


 山門を後ろから撮って、経王寺を後にしました。


 経王寺を出て道路を渡ると、経王寺の山門近くに佃煮舗「中野屋」があったので撮ってみました。


 珍しかったので店前に行ってみました。
 大正12年創業の佃煮専門店ですが、ここで佃煮を買っても仕方がないので止めました。


 この道路は見覚えがあると思ったら、先週「谷中をぶらり(谷中霊園・天王寺編)」で歩いた御殿坂でした。

 ここまで来たので、観音寺の南側にあった築地塀の内側が気になっていたので行ってみました。

<観音寺(かんのんじ)>

 「初音の道」を南に10分程歩くと、ご覧のような山門のある観音寺に着きました。


 山門の手前に、観音寺が「赤穂浪士ゆかりの寺」であることの説明案内板がありました。
 説明案内板には、『四十七士に名を連ねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修業していた文良の兄と弟で、文良は後に当寺第六世となった朝山大和尚のことである。』と書いてありました。


 取り敢えず、山門を撮って境内に入りました。


 ご覧のよう立派な本堂があったので撮ってみました。


 取り敢えず、ここまで来れたお礼を兼ねて本堂でお参りをしました。


 お参りしてから本堂の向拝を撮ってみました。


 境内に、ご覧のような大師堂があったので撮ってみました。




 大師堂の前に、赤穂浪士供養塔があったので撮ってみました。


 供養塔の横に何か書いてあったので撮ってみましたが、意味が分かりません。


 赤穂浪士供養塔の右側に、ご覧のような水子地蔵菩薩があったので撮ってみました。


 隣に、ご覧のような御霊塔もあったので撮ってみました。




 向かい側に、水藤家のお墓があって横に、「水藤枝水ここに眠る」の碑があったので撮ってみました。
 水藤枝水は、琵琶楽器「錦琵琶」を創案し斬界発展のために尽力した人みたいです。


 隣りに、南無観世音菩薩が祀られていたので撮ってみました。

 気になっていた築地塀の内側を見に、本堂後の墓地に行ってみました。




 本堂の横に、壊れた手水舎(?)や六地蔵尊があったので撮ってみました。


 墓地の端に着いたのですが、ご覧のようなブロック塀があって先には行けません(築地塀は更に奥の方?)。


 仕方がないので、本堂の後を撮って本堂の正面に戻りました。


 今度は、本堂の横にあった庫裡(?)の方に行って築地塀を探すことにしました。
 辛うじて、建物と建物の間から築地塀の上部が見えたのですが、写真を撮る程ではありませんでした。


 観音寺で築地塀を探すのは諦めて、本堂の前にあった保存樹林のクスノキと灯篭を撮ってみました。


 又、お寺には珍しい立派な御神輿庫があったので撮ってみました。






 折角、観音寺まで遣って来たので、築地塀を撮りに行ってみました。

<香隣舎(こうりんしゃ)>

 築地塀を撮って来た道を戻り、観音寺の前に遣って来ると、ご覧のような趣ある建物があったので撮ってみました。


 台東区の「まちかど賞」にも指定されている建物でしたが、入口は閉まっていました。
 ⇒ 気になったので後で調べると、明治時代の商家(酒屋)の建物(個人所有)で、現在は、展示会などのイベントがある時のみ貸し出しているみたいでした。
 

 香隣舎を別角度から撮って、「初音の道」を戻りました。

<諏訪台通り>



 御殿坂まで戻って来たので、今度は諏訪台通りを歩いて諏方神社に行ってみることにしました。

<啓運寺(けいうんじ)>

 諏訪台通りを5分程歩くと、右側に啓運寺があったので入ってみました。


 山門を通ると左側に、ご覧のような毘沙門堂があったので撮ってみました。
 尚、堂内の厨子には、木造毘沙門天像(荒川区登録有形文化財)が安置されているようです。


 毘沙門堂の隣りには、庫裡があったので撮ってみました。


 右側に、ご覧のような石碑が並んでいたので撮ってみました。


 墓地の手前に、ご覧のような立派な本堂がありました。


 本堂の扁額を撮ってみましたが、山号の法要山ですかね!?


 又、扁額に始皇帝末葉と書いてあったので、秦の始皇帝の子孫が奉納したのかも知れませんね!?


 お参りしてから、本堂の内部を撮らせて頂きました。

<養福寺(ようふくじ)>

 啓運寺を後に、諏訪台通り暫く進むと、右側に養福寺があったので入ってみました。
 養福寺は、元和6年(1620)法印乗蓮が創建、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されたと伝えられています。


 山門の先には、ご覧のような立派な仁王門がありました。




 取り敢えず、左右の金剛力士像をアップで撮ってみました。




 ご覧のような鐘楼があったので撮ってみました。


 境内の奥に、ご覧のような本堂があったので行ってみました。
 

 本堂でお参りしてから正面の出入口を撮ってみました。


 右側には、御本尊「如意輪観世音菩薩」の御真言(おん はんどめい しんだまに じんばら うん)が出ていました。


 境内に、ご覧のような庭園があったので撮ってみました。


 又、ご覧のような六地蔵尊があったので撮って山門に向かいました。


 山門を出ると、ご覧のような石柱が立ったので撮ってみました。
 『西国二十七番 播磨国書写寺写』と書いてあるようですが、意味が分かりません。

<浄光寺(じょうこうじ)>

 養福寺を後に、諏訪台通りを暫く進むと、諏方神社の鳥居がありました。




 鳥居手前の右側に、浄光寺の山門があって「江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)」の説明案内板がありました。
 説明案内板には、江戸六地蔵と雪見寺の説明以外に、八代将軍吉宗の「将軍腰掛けの石」があると載っていたので入ってみました。




 境内に入ると右側に、江戸六地蔵や仏像(?)が祀ってあったので撮ってみました。


 左端に、ご覧のような絵が彫ってある石があったのでアップで撮ってみました。


 又、左側には、いろんな庚申塔(?)があったので撮ってみました。


 石碑の横に、荒川区指定有形文化財の銅像地蔵菩薩の座像と立像があったので撮ってみました。


 折角なのでアップでも撮ってみました。


 境内に、ご覧のようなお堂(?)があったので撮ってみました。


 お堂の前に、ご覧のような石があったので撮ってみましたが「将軍腰掛けの石」ですかね!?


 未だお参りしてなかったので本堂に行ってお参りをしました。


 本堂でお参りをしてから扁額を撮ってみました。


 浄光寺は眺望のよい諏訪台にあって、特に、雪景色が素晴らしいので、江戸時代は雪見寺と呼ばれていました。
 現在はご覧のような状態ですが、遠くに東京スカイツリーが見えたので撮ってみました。

<諏方神社(すわじんじゃ)>

 諏方神社の鳥居を撮って境内に入りました。


 境内に入ると、ご覧のような狛犬がいる神輿庫があったので撮ってみました。




 神輿庫の横はご覧のようになっていて、奥にも小さな神輿庫が並んでいました。


 参道に戻ると、ご覧のような鳥居があって左側に御神木、右側に手水舎がありました。


 取り敢えず、ご覧のような御神木を撮ってみました。




 手水舎に行ってみると、石柱が田戸同族と彫ってありましたが何でしょうね!?


 参道の先に行くと、ご覧のような神楽殿があったので撮ってみました。


 神楽殿の横を通って拝殿に行ってみました。




 拝殿の前に、身体を左右に傾けているブロンズ製(?)の狛犬がいたのでアップで撮ってみました。


 拝殿で、無事にここまれ来れたお礼を兼ねてお参りをしました。


 お参りしてから拝殿の内部を撮らせて頂きましたが、奥で灯っているいるのは本物の蝋燭ですかね!?




 拝殿の右側に鳥居があって、左側の三宝荒神社の横に三峰神社の案内が出ていたので行ってみました。


 矢印に従って進むと、ご覧のような岩の塊があったので撮ってみました。


 又、拝殿の左側にも鳥居があって、御岳山の案内が出ていました。




 拝殿と授与所(?)の渡り廊下の下をくぐると、ご覧のような岩の塊があったので撮ってみました。


 岩には、三笠山大神・御岳山大神・八海山大神と彫られていました。
 ⇒ 申し訳ありませんが、三峰神社・御岳山と言い見世物小屋の駄洒落のようで笑えますね!


 扁額「総鎮守」が掛かっている鳥居を通って境内に戻りました。


 階段の脇に、ご覧のような社務所があったので撮ってみました。


 取り敢えず、境内を一回りしたので、眺望が良さそうな諏訪台に行ってみました。


 下の方に京浜東北線と山手線の線路があって、上りの京浜東北線が遣って来たので撮ってみました。




 諏訪台からは、ご覧のような地蔵坂を下って西日暮里駅に向かいました。


 地蔵坂を下っていると、JR西日暮里駅が見えたので撮ってみました。


 JR線の下を通るご覧のようなトンネルがあったので、反対側には問題なく行けました。

 西日暮里駅の近くの居酒屋に入って一杯遣って帰りました。
 今回の「谷中をぶらり(根津神社・谷中銀座・諏方神社編)」は、事前に「散策マップ・谷中」などで下調べをして行ったので、道にも迷わないでいろんな所が回れて良かったです。
 尚、万歩計は13,000歩を超えていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中をぶらり(根津神社編)

2018年10月14日 | Weblog
 10月13日(土)は、先週の「谷中をぶらり(谷中霊園・天王寺・築地塀・全生庵編)」で回れなかった谷中散策で外すことが出来ない根津神社と谷中銀座に行ってみました。
 前回は、観光マップが手に入らなかったので、今回は事前に阿部建設の「散策マップ・谷中」をダウンロードして千代田線の根津駅から西日暮里駅まで歩いてみました。

<不忍通り>

 根津駅で降りて「不忍通り」に出ると、ご覧のような案内が出ていたので、根津神社へは問題なく行けそうです。


 傍にあった旧町名案内板には、『現在の町名「根津」は昭和40年までは「根津八重垣町」で、根津神社の祭神(須佐之男命)の歌「八雲起つ 出雲八重垣つまごみに 八重垣造る その八重垣を」に由来し、根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、ネズミが多く書かれていて、ネズミは大黒天(大国主命)の使いであると言われている。』のようなことが書いてありました。


 取り敢えず、ご覧のような「不忍通り」を歩いて根津神社に行ってみました。


 根津小学校の信号に遣って来ると、向かい側に、ご覧のような施設(不忍通りふれあい館?)があったので撮ってみました。


 又、パネル看板が面白い「くし家串猿」があったので撮ってみました。

<根津神社>

 「不忍通り」を暫く歩いて千駄木2丁目の交差点を左に曲がって坂を上ると、ご覧のような鳥居のある根津神社の北口に着きました。


 取り敢えず、立派な扁額を撮ってみました。


 近くに、境内案内図があったので現在地を確認しました。


 鳥居をくぐると、参道は二股(東参道、西参道)に分かれていました。
 取り敢えず、人が歩いていない社務所や客殿のある東参道に行ってみました。


 客殿の先に、ご覧のような苔生した古木があったので撮ってみました。
 尚、奥にみえるのは社殿(拝殿・本殿・幣殿)の透塀(すかしべい)です。


 取り敢えず、客殿を撮ってみましたが、11時から行われる挙式の案内が出ていました。




 参道に戻ると、ご覧のような古木があって保護樹木の名札が付いていました。


 参道に、ご覧のような案内があったので撮ってみました。


 根津神社は、日本武尊が千駄木の地に建立したと伝えられていて、五代将軍・徳川綱吉は家宣(六代将軍)の産土神として宝永3年(1706)千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営したようです。
 尚、国の重要文化財に指定されているのは、社殿(拝殿・本殿・幣殿)・唐門・西門・透塀・楼門で、銅燈籠のことは記述されていませんでした。


 ついでに、「東京十社めぐり」(根津神社、神田神社、亀戸天神社、富岡八幡宮、芝大神宮、品川神社、氷川神社、日枝神社、白山神社、王子神社)の案内もあったので撮ってみました。

 取り敢えず、社殿に行ってお参りしてから千本鳥居を通り抜けることにしました。


 国宝に、本殿・幣殿・拝殿・唐門が指定されている大きな掲示板(昭和6年12月14日付)があったので撮ってみましたが、国の重要文化財との違いが分かりません。




 左側に、ご覧のような舞殿があったのでアップで撮ってみました。


 又、参道の背後に、堂々とした楼門(ろうもん)の後姿が見えたので撮ってみました。


 取り敢えず、手水舎に行って身を清めることにしました。


 手水舎には、『この水盤は300年程前、真鶴産本小松石の一枚岩から切り出して造られたものです。・・・』の説明板が立っていました。


 ご覧のような唐門(からもん)を通って、社殿に行ってみました。


 取り敢えず、立派な拝殿を撮ってお参りをしました。


 拝殿では、客殿に挙式の案内が出てた二人が式を挙げている最中でした。


 お参りしてから、拝殿の向拝を撮ってみました。




 ついでに、左右の向拝柱にあった立派な木鼻をアップで撮ってみました。


 社殿の左側に、「願掛けカヤの木」があったので撮ってみました。


 社殿から西参道に出て、右側に透塀を見ながら西口に向かいました。


 透塀も国の重要文化財に指定されているので改めて撮ってみました。


 西参道の左側にある池の上には、千本鳥居の途中にある乙女稲荷神社が見えました。




 折角なので、舞台風の乙女稲荷神社をアップで撮ってみました。


 根津神社の西口に着きました。


 折角なので、根津神社の西口の鳥居を正面から撮ってみました。


 根津神社の西口・北口の前を通っている坂は、根津裏門坂と言われているみたいです。
 尚、根津裏門坂の左側には日本医科大学付属病院がありました。


 千本鳥居は手前にある石段を登って回ることにしましたが、奥の鳥居が気になったので行ってみました。


 奥の鳥居には、乙女稲荷神社の扁額が掛かっていました。


 手前にあった石段を登ると、駒込稲荷神社があって、手前の岩には何か屯していました。


 岩に近づいてみると、ご覧のような小さな狐(?)がいました。




 お参りしてから駒込稲荷神社の祭壇を撮ってみました。
 尚、駒込稲荷神社は、六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷の守り神として寛文元年(1661)に祀られた社みたいです。


 駒込稲荷神社でお参りしてから、手水舎の横を通って鳥居の先にある朱色の千本鳥居に向かいました。
 ところで、この手水舎と鳥居の管轄は駒込稲荷神社にあるのですかね!?


 取り敢えず、スタート地点の鳥居を撮って、千本鳥居の通り抜けを開始しました。




 途中に、ご覧のような庚申塔があったので撮ってみました。


 ここには6基の庚申塔がありますが、一番古いのは寛永9年壬申(1632)に建立されたものです。


 ここからは、ご覧のような千本鳥居をくぐって先に行きます。




 乙女稲荷神社に着いたので、下の西参道を撮ってみました。




 取り敢えず、乙女稲荷神社の扁額と祭壇を撮ってみました。


 ここからも、ご覧のような千本鳥居をくぐって先に行ってみました。




 途中の西参道に、ご覧のような鳥居があったので下りてみました。


 この鳥居の扁額は乙女稲荷神社になっていました。




 石段を上って千本鳥居に戻ると、右側に徳川家宣胞衣塚がありました。


徳川家宣胞衣塚の説明案内板には、『六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えら、十数個の割り石が雑然と積み重ねられてある。・・・胞衣(えま)とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。・・・』と書いてありました。


 更に、千本鳥居をくぐって先に行きます。


 千本鳥居を全て通り抜けたので、後ろに見える楼門と一緒に鳥居を撮ってみました。
 尚、千本鳥居を通り抜けると、邪気がきれいに祓われるみたいです。


 正面から楼門を撮ってみました。




 楼門の左右に隋身像があったので撮ってみました。
 尚、左側の随身像は、第5代将軍・徳川家綱公、右側は水戸光圀公がモデルと言われています。


 折角なので、楼門を斜めからも撮ってみました。


 ツツジの時期ではありませんが、取り敢えず、楼門の左にあった「つつじ苑」を撮ってみました。




 折角なので、アップでも撮ってみました。


 神橋を渡って先に行くと、境内案内図があったので現在地を確認しました。
 取り敢えず、表参道の大鳥居まで行ってみることにしました。


 表参道の大鳥居に着いたので撮ってみました。


 大鳥居の右側に、ご覧のような「根津神社略記」があったのですが、御祭神(須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公)の文字が微かに読めました。


 大鳥居を正面から撮って、根津神社に入り直して西口に向かいました。


 神橋から、桜門と右側に大きなカヤの木(?)があったので一緒に撮ってみました。


 ついでに、桜門も撮ってみました。


 西口へは、千本鳥居の下にある西参道から行ってみました。


 先程は気が付かなかったのですが、乙女稲荷神社近くに途中から切られてる倒木がありました。
 ⇒ 若しかしたら、先日の台風で倒れたのかも知れませんね!?


 最後に、重要文化財の案内板を撮って根津神社を後にしました。

 根津神社の次は、千駄木2丁目交差点に出て谷中銀座に行ってみるとにしました。

<日本医科大学付属病院>

 根津裏門坂を下って千駄木2丁目交差点に向かっていると、左側に日本医科大学付属病院が見えたので撮ってみました。
 この病院は、丸山ワクチン(ガンを免疫療法で治す薬)を貰いに何回か来院したことがあります(昭和50年頃?)。

<千駄木2丁目交差点>

 千駄木2丁目交差点に着いたので、右側のビルに挟まれた細い道から「へび道」に出ることにしました。
 谷中銀座へは、「へび道」を通って三崎坂に出てから行きます。
 尚、「へび道(旧藍染川)」は、ダウンロードした阿部建設の「散策マップ・谷中」に載っていました。






 「散策マップ・谷中」に従って進むありませんが、藍染保育園の右側を通つてSincerite(サンセリテ)の前の道に出ました。
 「へび道」の案内は出ていませんでしたが、この道が「へび道」のようでした。




 「へび道」に、鞄・バック専門店「大崎バッグ」があったので撮ってみました。








 「へび道」は、ご覧のようにクネクネした路地道になっていますが、文京区千駄木と台東区谷中の境界になっています。


 「へび道」を10分程歩くと、ご覧のような蕎麦店「大島屋」のある三崎坂に着きました。


 振り返って、歩いてきた「へび道」を撮ってみました。

谷中をぶらり(谷中銀座・諏方神社編)」に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中をぶらり(築地塀・全生庵編)

2018年10月08日 | Weblog
 「谷中をぶらり(谷中霊園・天王寺編)」から続く。

<長安寺(ちょうあんじ)>

 了俒寺を後に、西の方に行くと突き当りに長安寺がありました。


 山門の左側に、台東区史跡「狩野芳崖墓」と台東区有形文化財「板碑」の案内があったので撮ってみました。


 境内に入ると、三界万霊碑があったので撮ってみました。


 取り敢えず、本堂に行ってお参りをしました(大道山は山号)。


 扁額の隣に、ご覧のような奉納板があったので撮ってみました。


 本堂の前に、可愛らしい羅漢様がいて、後ろに台東区有形文化財の「板碑(いたび)」がありました。
 「板碑」は、死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した塔婆の一種です。


 近くに、ご覧のような羅漢様もいたので撮ってみました。




 又、「狩野芳崖(かのうほうがい)」のお墓があったので撮ってみました。


 本堂の前に、ご覧のような果物(?)があったので撮ってみました。

<築地塀>

 長安寺を出て北に行くと、台東区の「まちかど賞」を受賞(1992年)した築地塀がありました。




 築地塀は、長さ約38m、高さ約2mあるみたいです。




 向かい側にあった谷中御廟の塀もユニークだったので撮ってみました。


 折角なので、両方の塀を一緒に撮ってみました。
 ところで、築地塀は観音寺の南側にある塀だったことが後で分かりました。

<加納院(かのういん)>

 築地塀の先には、朱塗りの加納院の山門がありました。


 山門をくぐると、目の前にご覧のような本堂があったので撮ってみました。


 取り敢えず、本堂に行ってお参りをしました。


 獅子のような顔の鬼瓦だったのでアップで撮ってみました。


 ついでに、本堂の隣りにあった寺務所も撮ってみました。


 帰りがけに、ご覧のような供養塔(?)があったので撮ってみました。

<養傳寺(ようでんじ)>

 加納院の山門を出て、そのまま南に向かうと、左側に立派な山門があったので撮ってみました。
 塀が、先程の谷中御廟と同じなので、谷中御廟は養傳寺が運営する霊園だったようです。


 境内に入ると、ご覧のような竹内元正君碑があったので撮ってみました。
 この碑は、小児科医師・第八代当主竹内元正の顕彰碑として、縁家の医師・佐々木高仰の発案により明治31年9月に建てられたものです。
 尚、竹内元正は、大正天皇が皇太子の頃の御典医で49歳で亡くなり養傳寺に葬られたみたいです。




 本堂の手前に、由緒ありそうなお稲荷さん(?)があったのでアップで撮ってみました。


 本堂を撮ってお参りをすることにしました。




 本堂でお参りしてから山号「運立山」をアップで撮ってみました。


 賽銭箱の前に、ご覧のような香炉があったので撮ってみました。


 可愛らしいザクロ(?)があったので撮ってみましたが、未だ薄緑色の実も付いていました。




 又、ご覧のような実を付けた木もあったのですが、何の木か分かりません。

<安立寺(あんりゅうじ)>

 養傳寺を出て暫く歩くと、右側に安立寺がありましたが、この辺りは寺院が多いですね!


 折角なので、山門を撮って境内に入ってみました。




 山門の先に本堂が見えましたが、本堂の前には小型トラックが停まっていました。


 お参りしてから山号「常観山」を撮ってみました。


 本堂の内部が見えたので、失礼して撮らせて頂きました。


 本堂の手前に、擁護堂があったので撮ってみましたが、何をする所なのか分かりません。


 取り敢えず、扁額は撮ってみました。


境内に、画家の下村観山墓(本名は下村晴三郎)があったので撮ってみました。


 後に、坐禅をしている日蓮上人像があったので撮ってみました。




 又、ご覧のような浄行菩薩が祀られていたので撮ってみました。

<興禅寺(こうぜんじ)>

 安立寺の向かい側には、青い屋根の興禅寺がありました。


 取り敢えず、山号「清徳山」を撮ってお参りをしました(ピンボケですいません)。


 本堂の右側に、ご覧のような寺務所があったので撮ってみました。


 境内は狭くて特に目立ったものはなく、直ぐ後ろは墓地になっていました。


 虫除けスプレーが載っている「火の用心」柱の手前に、「看脚下(かんきゃっか)」と刻まれた石があったので撮ってみました。
 「看脚下」は、自分の足元を直しながら自分の生き方を深く反省しなさいと云う意味があります。


 山門の扉に、ご覧のような家紋(?)があったので撮って、興禅寺を後にしました。

<相澤鼈甲(あいざわべっこう)製作所>

 興禅寺の前の道に戻ると、右(西)に行ける路地があったので行ってみました。


 路地を暫く進むと、右側にご覧のような案内が出ている相澤鼈甲製作所がありました。


 どうやら鼈甲のアクセサリーや小物を作っているようで、制作所は相応しくない感じがするのですが・・・
 珍しかったので入口は撮らせて頂きましたが、中には入りませんでした(すいません)。


 路地の先に行くと、ご覧のような観音様が見えたので撮ってみました。


 正面に回れなかったので後ろ姿をアップで撮ってみました。
 ⇒ どうやら別の寺院の観音様のようなので、後で行ってみることにしました。


 相澤鼈甲製作所の前を通って、来た道を戻って三崎坂に出ることにしました。


 三崎坂に出る道の右側に、立派な塀があったので撮ってみました。

<明王院(みょうおういん)>

 三崎坂に出て右(西)に行くと、「天瑞山 明王院」と書かれている山門がありました。
 取り敢えず、先程の観音様を探しに境内に入ってみました。


 境内に入ると、左側に六地蔵尊が祀られていたので撮ってみました。




 又、右側には、三界萬霊碑と宝篋印塔があったので撮ってみました。


 宝篋印塔の後の方に、花壇のような墓地があって珍しかったので撮ってみました。


 参道に戻ると、ご覧のような大師堂があったのでお参りをしました。 


 折角なので、扁額をアップで撮ってみました。
 

 大師堂を後に、本堂に行ってお参りすることにしました。




 お参りしてから、本堂の向拝と山号「天瑞山」を撮ってみました。


 本堂の屋根の飾りが、特徴的だったのでアップで撮ってみました。


 本堂の手前に咲いていたエンジェルストランペット(?)を撮って、本堂の後ろの観音様を見に行ってみました。


 残念ながら、明王院からも観音様は正面から見えませんでした(アチャ!)。

<三崎坂>



 明王院から三崎坂に戻ると、カフェ猫衛門と開運谷中堂があったので撮ってみました。


 開運谷中堂のショーウインドーに、ご覧のような「福招き猫」がいたので撮ってみました。

<全生庵(ぜんしょうあん)>

 三崎坂を暫く下ると、右側に全生庵の山門がありました。


 山門の手前に、東京都の旧跡に指定されている三遊亭円朝と山岡鉄舟のお墓の説明案内板があったので撮ってみました。


 境内に入ると、立派な本堂が聳えていたので撮ってみました。


 右側にあった鐘楼の手前に、ご覧のような碑があったので近くに行ってみました。






 右の奥には、山岡鉄舟と三遊亭円朝の碑があったので撮ってみました。


 又、左にも碑があったのですが、弘田龍太郎の曲碑ですかね!?




 取り敢えず、後にあった鐘楼を撮ってみました。


 近くに、ご覧のような趣のある土蔵があったので撮って、参道に戻りました。


 本堂でお参りをしてから、気になっていた観音様を探すことにしました。


 階段下から立派な扁額が掲げられている本堂を撮ってみました。


 取り敢えず、立派な扁額を撮ってお参りをしました。


 お参りしてから本堂の内部を撮らせて頂きましたが、扁額は達筆で読めませんでした。




 本堂の回廊を右の方に行くと、気になっていた観音様がありました。
 ⇒ 本堂でお参りした御利益が早速あったようですね!


 取り敢えず、観音様をアップで撮ってみました。


 観音様の右側に、大きな銀杏(?)があったので一緒に撮ってみました。


 又、銀杏の右側の墓地の上には、本堂の屋根の飾りが特徴的な明王院の墓地が見えました。




 折角なので、回廊から下の方に見えた墓地を撮ってみました。


 又、回廊にご覧のような半鐘がぶら下がっていました。


 本堂の正面に戻って来たので、山門方面を撮ってみました。


 本堂の横に行ってみると、観音様が見えたので撮ってみました。


 観音様に近づいて下から撮ってみました。
 尚、この観音様は谷中大観音と呼ばれていて身丈6.3m、1991年4月18日に開眼したようです。


 取り敢えず、観音様を真下から撮って階段を登ってみました。




 階段の途中に、当境鎮守大八幡菩薩が祀ってあったので撮ってみました。


 観音様の下に着いたので、柔和なお顔の観音様を撮ってみました。


 折角なので、斜め下からもアップで撮ってみました。


 観音様の後ろに、坂村真民の詩碑『念ずれば花ひらく』があったので撮ってみました。


 観音様の向かい側に本堂が見えたので撮ってみました。


 本堂の前に戻って来ると、扁額「香積」が掲げられている庫裡がありました。
 ⇒ 香積は、種々の香りのよい香をまぜ合わせたものみたいです。

<正運寺跡地諸精霊供養菩提>



 全生庵から三崎坂に出ると、坂の向かい側に石碑のようなものが見えたので渡ってみました。
 ご覧のような仏像と『爲 正運寺跡地諸精霊供養菩提』と書かれている石碑がありました。
 若しかしたら、この場所にはかつて正運寺というお寺があったのかも知れませんね!?

<福相寺(ふくそうじ)>

 再び三崎坂に戻ると、右側に福相寺の参道があって奥に山門が見えたので行ってみました。


 取り敢えず、由緒ありそうな山門を撮ってみました。


 山門には、立派な山号「松栄山」が掲げられていました。


 山門をくぐると、ご覧のような長い参道が続いていました。


 本堂の前に着いたのですが、柿の木が邪魔していて本堂の正面は撮れません。




 仕方がないので、柿の木超しに本堂を撮ってみました。


 ついでに、斜めからも本堂を撮ってみました。


 お寺の人の話では、先日の台風で柿の枝もだいぶ折れたと言っていました。

<大円寺(だいえんじ)菊まつり>

 福相寺を後に、三崎坂を5分程下ると「谷中まつり」の協賛イベント「大円寺菊まつり」を遣っていました。
 

 ご覧のように、大勢の人がいたのですが菊まつり会場(境内)に入ってみました。


 参道の右側に、ご覧のような菊人形が展示してあったので撮ってみました。


 菊まつり会場と言っても、ご覧のようなお墓の横にテントが張ってある会場でした。
 ⇒ 仏様は何と思っているのでしょうね!?


 又、ご覧のようなお釈迦様(?)もいたので撮ってみました。




 取り敢えず、本堂に行ってお参りをすることにしました。


 お参りしてから扁額を撮ると「薬王殿」となっていたので、本堂ではなく瘡守堂でした。
 瘡守堂は、江戸時代に笠間稲荷が梅瘡・皮膚病の治癒に効果があると信じられ瘡守稲荷になり、その後、維新の神仏分離で瘡守薬王菩薩として祀られるようになったようです。


 折角なので、瘡守堂の内部を撮らせて頂きました。




 隣りに、本堂の経王殿があったので、こちらも内部も撮らせて頂きました。
 どうやら、大円寺の本堂には2つの入口があるみたいです。


 一杯飲もうと思ったのですが、座れそうな席もなかったので諦めました。




 菊まつり会場を後にすると、横断歩道の先にタヲ太鼓の舞台があったので撮ってみました。


 近くに、地下鉄千駄木駅の案内板が出ていたので、千駄木駅近くの居酒屋で飲んで帰ることにしました。

 今回の「谷中をぶらり」は、事前の準備もしないで行ったのですが、谷中霊園や有名な寺院(特に天王寺、全生庵)を回れて、築地塀も見れたので満足しています。
 又、「谷中まつり」を遣って、サブ会場でベリーダンスが見れたのは良かったです。
 尚、万歩計は大して歩いていないので11,000歩を超える程度でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中をぶらり(谷中霊園・天王寺編)

2018年10月07日 | Weblog
 10月6日(土)は、谷中に行く用事があったので、帰りにJR日暮里駅から千代田線千駄木駅まで歩いてみました。

<日暮里駅>

 JR日暮里駅では北改札口を通って、西口から駅の外に出てみました。
 近くにあった「谷根木Map」があったので現在地を確認すると、目の前に谷中霊園があることが分かりました。
 ところで、「谷根木」とは谷中、根津、千駄木の略ですかね!?


 御殿坂(ごてんざか)の右側に本行寺があったのですが、先ずは日暮里駅で観光マップを手に入れることにしました。


 取り敢えず、フェンスの脇を通つて南改札口の方に行ってみました。


 歩いていると、東京スカイツリーが見えたので撮ってみました。


 南改札口に行けそうな橋が見えたので撮ってみました。


 ご覧のような橋を通って南改札口に行ってみました。


 南改札口には観光マップは置いてありませんでしたが、「谷中まつり」の案内(10月6日・7日)が出ていました。
 メイン会場の防災広場「初音の森」以外のサブ会場でも催し物を遣っていて、協賛イベント(大円寺菊まつり)も行われるみたいでした。


 橋の階段を下っていると、「もみじ橋」の名前が付いていたので撮ってみました。


 東口に出て駅前通りを歩いていると、右側に太田道灌像があったので撮ってみました。

 結局、東口からは北改札口の前に戻って来てしまいましたが、観光マップは手に入りませんでした。
 仕方がないので、西口から外に出て、御殿坂の右側にある本行寺にお参りしてから谷中霊園に行ってみることにしました。

<本行寺(ほんぎょうじ)>

 取り敢えず、道路の向かい側から本行寺の山門を撮ってみました。




 山門の左側にあった見事な築地塀(?)をアップで撮ってみました。


 山門の右側に、月見寺(本行寺)の説明案内板があったので撮ってみました。
 説明案内板には、『本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。・・・』と書いてありました。


 取り敢えず、立派な山門を撮ってみました。


 ついでに、山号「長久山」をアップで撮ってみました。


 山門をくぐって、ご覧のような参道を通って本堂に向かいました。




 本堂でお参りしてから扁額を撮ってみましたが、何と書いてあるのか読めませんでした。


 境内は大して広くありませんが、本堂の後には墓地が広がっていました。


 境内に、ご覧のような記念碑(?)があったので撮ってみました。




 又、荒川区の有形文化財・歴史資料に指定されている道灌丘碑があったので正面に回って撮ってみました。
 尚、本行寺の説明案内板には、『戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみが残っている。』と書いてありました。


 傍に、百日紅のような木があったので撮ってみましたが・・・

 本行寺を後に、御殿坂を渡って谷中霊園の下に戻りました。

<谷中霊園(やなかれいえん)>

 谷中霊園の下に着くと、観光案内図があったので撮ってみました。


 観光案内図に斜め矢印(天王寺、谷中霊園)が出ていたので、指示に従って階段を上ってみました。


 上に着くと、ご覧のような谷中霊園の表札が出ていました。


 谷中霊園には、著名人が埋葬されているお墓があると聞いたことがあります。
 約7,000基ある全ての石碑の名前を読みながら著名人を探すのはしんどいので、大きなお墓や特徴あるお墓を探しながら回ることにしました。
 又、「甲新12号53側」は各墓所の番号のようです。


 ご覧のようなお墓があったのですが、ここからだと正面には回れませんでした。

<天王寺(てんのうじ)>

 谷中霊園を10分程歩くと、左側の道路脇に地蔵堂がありました。


 地蔵堂の由緒などは分かりませんが、取り敢えず、アップで撮ってみました。


 地蔵堂の後ろに、天王寺の向唐門があったので撮ってみました。


 向唐門をくぐると、左側に観音様(?)と手水があったので撮ってみました。


 手水の板には、何か書いてありましたが判読できませんでした。


 又、ご覧のような学童守護のお地蔵さんがいたので撮ってみました。
 お地蔵さんの台座のプレートには学童の姿が刻まれていました。




 台東区の有形文化財に指定されている銅造釈迦如来坐像があったのでアップで撮ってみました。


 銅造釈迦如来坐像の説明案内板には、『釈迦如来坐像は当寺が日蓮宗だった時代の元禄3年(1690)に建立され、基壇は昭和8年(1933)の鉄筋コンクリート製で、昭和13年(1938)に内部に納骨堂が造られた。』のようなことが書いてありました。


 奥の方に、本堂が見えたので撮ってみました。




 庭園に泰山木(タイサンボク)と沙羅双樹(サラソウジュ)があったので撮ってみました。


 本堂の前に着いたので本堂を撮ってみましたが、建てられたのは比較的新しいみたいですね!




 本堂でお参りしてから、鉄筋コンクリート製の列柱を撮ってみました。


 本堂の右側に客殿との渡り廊下があったので撮ってみました。


 本堂の手前には、立派な枝垂れ桜(?)がありました。


 本堂を後に毘沙門堂の方に行くと、ご覧のような五葉松(?)があったので撮ってみました。




 毘沙門堂を撮ってみましたが、扁額は何と書いてあるか読めませんでした。




 毘沙門堂の向かい側に、立派な客殿(?)があったので撮ってみました。


 客殿の前に、天遊組の案内が出ていたので行ってみました。


 矢印の先には、ご覧のような上善堂があって催し物を遣っているようでした。


 上善堂の入口の壁には、古代文字で描かれている動物がいました。
 右下に象、象の周りには蠍、魚、亀、馬、兎が反時計回りに描かれているようでした(全部は分かりませんでした)。
 尚、古代文字は3300年前の中国で作られた、現在使われている漢字の元になる文字です。

 取り敢えず、右側に展示室の入口があったので入ってみました。


 















 展示室の壁に古代文字で描かれた漢字の掛軸があって、係の人が丁寧に説明してくれました。
 上から、響、豊、魚、習、幾、継、道、地、申を古代文字で描いたみたいです(間違っていたらすいません)。


 中央にあった、ご覧のような絵にも古代文字で描かれた動物がいたみたいです。


 上善堂を後に、向唐門をくぐって天王寺を後にしました。
 向唐門の右側に番小屋があったので撮ってみましたが、向唐門と共に由緒ありそうな建物ですね!?

 天王寺の前にあった墓地は、谷中霊園ではなく(谷中霊園の間にある)天王寺墓地のようでした。

<天王寺墓地>

 谷中霊園にあった半球のお墓が気になっていたので探しに行ってみました。
 地蔵堂の前に、電気ブラン開発・日本ワインの父の神谷伝兵衛・初代のお墓があったので撮ってみました。


 案内<故圓遊・故若柳吉蔵 墓道>があったので行ってみました。
 ⇒ 後で調べたら、若柳吉蔵は若柳流日本舞踊家元で、父は落語家の三遊亭圓遊でした。


 三遊亭圓遊の墓碑があったので、お参りしてから撮ってみました。


 鳥居のあるお墓があって珍しかったので撮ってみました。
 墓石は見上げるくらい高く墓銘が「大審院長従三位勲二等玉乃世履墓」となっていたので、初代の大審院長・幕末の朱子学者の玉乃世履(たまのせいり)のようでした。


 今度は、「千人塚」と書かれた大きな墓石が3つ並んでいました。


 「千人塚」の隣りに、探していた半球のお墓があって、東京大学医学部の納骨堂になっていました。
 どうやら、墓石と納骨堂がセットになっているみたいでした。


 折角なので、納骨堂をアップで撮ってみました。
 ⇒ 谷中霊園から納骨堂の正面に回れなかった理由が分かりました。




 他にも珍しいお墓があったので、失礼して撮らせて頂きました。

<谷中まつり:サブ会場(こども広場)>

 谷中霊園から「さくら通り」に出ると、「谷中まつり」のサブ会場(こども広場)があったので入ってみました。




 模擬店には人が集まっていましたが、催し物の間なのかステージに人がいませんでした。
 取り敢えず、模擬店で飲み物とツマミ(焼きそば、チジミなど)を買って催し物(ベリーダンス)が始まるのを待つことにしました。


 ベリーダンスの時間になったので、皆さんカメラをチェックし始めました。




 ベリーダンスが始まったので撮ってみました。
 浅草ベリーダンス教室の皆さんで、中央で赤い衣装で踊っている方が先生みたいです。


 写真を撮る位置が悪かったので、別の角度から撮ってみました。




 折角なのでアップでも撮ってみました。








 後半になると、団扇やリボンを使ったベリーダンスもありました。


 最後は、お客さんも一緒になってベリーダンスを楽しんでいました。


 催し物のベリーダンスが終わったのでサブ会場を後にしました。
 ⇒ 後で写真を見ると、先生には腕が4本ありました。

<谷中霊園:甲>

 サブ会場前の駐輪場に、朗盧阪谷先生之碑があったので撮ってみました。
 ⇒ 後で調べたら、江戸時代末期の政治学者の阪谷朗盧(さかたに ろうろ)みたいでした。


 又、”雲煙供養”と彫られた碑(?)があったので撮ってみました。




 近くに、長谷川和夫家墓所があったのでお参りをしました。


 「さくら通り」にあった谷中霊園案内図で現在地を確認すると、谷中霊園の区画(甲、乙、甲新)の薄緑色の甲のど真ん中にいることが分かりました。
 ⇒ 薄緑色(甲)に挟まれている白地が天王寺墓地ですね!


 「さくら通り」を右に曲がって、ご覧のような「ぎんなん通り」に出てみました。




 霊園を歩いていると、駿河台にある井上眼下病院を開設した眼科医・井上達也の墓碑があったので撮ってみました。


 大きな銀杏の前に、佐藤尚中(さとうたかなか)のお墓があったので撮ってみました。
 尚、佐藤尚中は順天堂大学の創設者です。

<了俒寺(りょうごんじ)>

 谷中霊園から、いつの間にか了俒寺の谷中墓苑に入っていました。
 逆光で上手く撮れていませんが、中村正直のお墓があったので撮ってみました。
 中村正直は「天はみずから助くるものを助く」で有名な「西国立志編」を出版しています。


 了俒寺に着いたので石造りの山門を撮って中に入ってみました。
 尚、寺標の了俒寺には、読める人がいないのか(?)振り仮名が付いていました。


 取り敢えず、本堂に行ってお参りすることにしました。


 お参りしてから本堂の向拝を撮ってみました。




 折角なので、向拝桁の龍と扁額(隨龍山)をアップで撮ってみました。


 ついでに、左側にあった寺務所も撮ってみました。


 了俒寺の向かい側にあった谷中墓苑からも東京スカイツリーが見えたので撮ってみました。

 「谷中をぶらり(築地塀・全生庵編)」に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする