新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
今年は午年なので境川沿いの左馬神社巡りに出かけてみることにしました。出かける前に、インターネットで左馬神社を調べたら12社もあって1日で回ることは厳しそうなのと、年末の大掃除でギックリ腰(?)になって腰が痛かったので行けるところまで行ってみることにしました。
尚、左馬の由来は、馬には右から乗ると転ぶと云う習性があるため必ず左側から乗ること「左馬は倒れない」からきているみたいです。
今回の左馬神社巡りは、最初に横浜市瀬谷区にある左馬社に参拝してから境川沿いを南下するコースにしました。
<左馬社>
瀬谷区橋戸3丁目21にある左馬社は相模の七鯖の一つで、祭神は左馬頭(さばかしら)源義朝でした。
鳥居の右の梵鐘があったので撮ってみました。この梵鐘は文久元年(1861年)に鋳造されたものが太平洋戦争で供出された為、昭和30年(1957年)に氏子の協力で現在の鐘が造られたものみたいです。
拝殿にお参りしてから誰もいなかったので失礼して拝殿の奥も撮ってみました。
帰りがけに鳥居の後を見たら『大正七年九月十日 建立』と彫られていたのでビックリしてしまいました。左馬社を後に大和市上和田にある左馬神社に向かいました。
道すがら民家の庭先に寒桜(?)が咲いていたので撮ってみました。
上和田の左馬神社の手前の民家の庭先にロウバイが咲いていたのでアップで撮ってみました。
<上和田左馬神社>
瀬谷の左馬社から25分位で上和田1168にある左馬神社に着きました。ここの左馬神社も瀬谷の左馬社と同じ相模の七鯖の一つで、祭神も源義朝でした。
ここにも梵鐘があったので撮ってみました。
拝殿にお参りしてから大和市下和田の左馬神社に向かいました。
上和田の左馬神社から下和田の左馬神社に向かう途中で富士山が見えたのでアップで撮ってみました。
富士山が見える道の反対側に梅林があったので撮ってみましたが、蕾が開くにはもう少し暖かくならないとダメですね!
途中から車の往来を避けて谷戸頭・谷戸緑地を通って下和田に行くことにしました。ご覧のような見事な竹林があったので撮ってみました。
<下和田左馬神社>
上和田の左馬神社から1時間位で下和田1110にある左馬神社に着きました。
鳥居をくぐると正面に拝殿らしい小さい建物がありました。
ここの左馬神社にも右側に梵鐘があったので撮ってみました。
拝殿らしい小さい建物の近くに行ってみると拝殿ではなく神楽殿でした。拝殿は神楽殿の後にあって『参拝順路』の案内が出ていました。
『参拝順路』の案内に従って神楽殿の後ろに回るとご覧のような小さな拝殿(?)がありました。
ここの左馬神社も相模の七鯖の一つで、祭神も源義朝でした。左馬神社と表記されるようになったのは近年のことで、それまでは鯖神社と云われていたようです。
神楽殿にお尻を向けて拝殿を撮ってしまってケツ礼したので、今度は神楽殿の奥から参道を撮ってみました(正面に鳥居と左側に梵鐘が見えます)。
下和田の左馬神社を後に横浜市泉区の飯田神社に向かいましたが、12時を回っていたので行く途中で食事処を探しながらに行くことにしました。
<飯田神社>
結局、途中に食事処はなく30分位で横浜市泉区上飯田町2519の飯田神社に着いてしまいました。鳥居から拝殿までかなりの距離がある立派な神社でした。
ここにもご覧のような立派な梵鐘があったので撮ってみました。
飯田神社の由緒書きに依ると、この神社も相模の七鯖の一つで、祭神も源義朝でしたが、左馬神社との名前の関係は判りませんでした。
ところで鎌倉幕府の初代征夷大将軍である源頼朝はあまりにも有名ですが、祭神として源義朝の名前が良く出てくるので調べてみました。
そしたら何と義朝は頼朝の父親で、頼朝は三男と云うことが判りました。そして源義経は義朝の九男と云うことも判ってしまいました(勉強になりますね!)。
鳥居の手前に由緒ありそうな庚申塔と7観音像があったので撮ってみましたが・・・
腰が痛かったので飯田神社近くのバス停で座っていたら丁度バスが来て相鉄線の「いずみ野駅」行きだったので乗ってしまいました。
「いずみ野駅」に行けば食事処があるかと思っていたら寿司屋があるだけで昼食が食べれそうな食事処はありませんでした。
腰も痛く食事処もなかったので、ここから先の左馬神社巡りは別の機会に廻ることにしてしまいました(これは大喝ですね!)。
結局、相鉄線で「湘南台駅」まで行って小田急線に乗り換え「大和駅」近くの食事処で一杯遣りながら遅い昼食を取って帰路につきました。
それでも万歩計は20,000歩を超えていました。
「境川の左馬神社巡り(その2)」に続く。
今年は午年なので境川沿いの左馬神社巡りに出かけてみることにしました。出かける前に、インターネットで左馬神社を調べたら12社もあって1日で回ることは厳しそうなのと、年末の大掃除でギックリ腰(?)になって腰が痛かったので行けるところまで行ってみることにしました。
尚、左馬の由来は、馬には右から乗ると転ぶと云う習性があるため必ず左側から乗ること「左馬は倒れない」からきているみたいです。
今回の左馬神社巡りは、最初に横浜市瀬谷区にある左馬社に参拝してから境川沿いを南下するコースにしました。
<左馬社>
瀬谷区橋戸3丁目21にある左馬社は相模の七鯖の一つで、祭神は左馬頭(さばかしら)源義朝でした。
鳥居の右の梵鐘があったので撮ってみました。この梵鐘は文久元年(1861年)に鋳造されたものが太平洋戦争で供出された為、昭和30年(1957年)に氏子の協力で現在の鐘が造られたものみたいです。
拝殿にお参りしてから誰もいなかったので失礼して拝殿の奥も撮ってみました。
帰りがけに鳥居の後を見たら『大正七年九月十日 建立』と彫られていたのでビックリしてしまいました。左馬社を後に大和市上和田にある左馬神社に向かいました。
道すがら民家の庭先に寒桜(?)が咲いていたので撮ってみました。
上和田の左馬神社の手前の民家の庭先にロウバイが咲いていたのでアップで撮ってみました。
<上和田左馬神社>
瀬谷の左馬社から25分位で上和田1168にある左馬神社に着きました。ここの左馬神社も瀬谷の左馬社と同じ相模の七鯖の一つで、祭神も源義朝でした。
ここにも梵鐘があったので撮ってみました。
拝殿にお参りしてから大和市下和田の左馬神社に向かいました。
上和田の左馬神社から下和田の左馬神社に向かう途中で富士山が見えたのでアップで撮ってみました。
富士山が見える道の反対側に梅林があったので撮ってみましたが、蕾が開くにはもう少し暖かくならないとダメですね!
途中から車の往来を避けて谷戸頭・谷戸緑地を通って下和田に行くことにしました。ご覧のような見事な竹林があったので撮ってみました。
<下和田左馬神社>
上和田の左馬神社から1時間位で下和田1110にある左馬神社に着きました。
鳥居をくぐると正面に拝殿らしい小さい建物がありました。
ここの左馬神社にも右側に梵鐘があったので撮ってみました。
拝殿らしい小さい建物の近くに行ってみると拝殿ではなく神楽殿でした。拝殿は神楽殿の後にあって『参拝順路』の案内が出ていました。
『参拝順路』の案内に従って神楽殿の後ろに回るとご覧のような小さな拝殿(?)がありました。
ここの左馬神社も相模の七鯖の一つで、祭神も源義朝でした。左馬神社と表記されるようになったのは近年のことで、それまでは鯖神社と云われていたようです。
神楽殿にお尻を向けて拝殿を撮ってしまってケツ礼したので、今度は神楽殿の奥から参道を撮ってみました(正面に鳥居と左側に梵鐘が見えます)。
下和田の左馬神社を後に横浜市泉区の飯田神社に向かいましたが、12時を回っていたので行く途中で食事処を探しながらに行くことにしました。
<飯田神社>
結局、途中に食事処はなく30分位で横浜市泉区上飯田町2519の飯田神社に着いてしまいました。鳥居から拝殿までかなりの距離がある立派な神社でした。
ここにもご覧のような立派な梵鐘があったので撮ってみました。
飯田神社の由緒書きに依ると、この神社も相模の七鯖の一つで、祭神も源義朝でしたが、左馬神社との名前の関係は判りませんでした。
ところで鎌倉幕府の初代征夷大将軍である源頼朝はあまりにも有名ですが、祭神として源義朝の名前が良く出てくるので調べてみました。
そしたら何と義朝は頼朝の父親で、頼朝は三男と云うことが判りました。そして源義経は義朝の九男と云うことも判ってしまいました(勉強になりますね!)。
鳥居の手前に由緒ありそうな庚申塔と7観音像があったので撮ってみましたが・・・
腰が痛かったので飯田神社近くのバス停で座っていたら丁度バスが来て相鉄線の「いずみ野駅」行きだったので乗ってしまいました。
「いずみ野駅」に行けば食事処があるかと思っていたら寿司屋があるだけで昼食が食べれそうな食事処はありませんでした。
腰も痛く食事処もなかったので、ここから先の左馬神社巡りは別の機会に廻ることにしてしまいました(これは大喝ですね!)。
結局、相鉄線で「湘南台駅」まで行って小田急線に乗り換え「大和駅」近くの食事処で一杯遣りながら遅い昼食を取って帰路につきました。
それでも万歩計は20,000歩を超えていました。
「境川の左馬神社巡り(その2)」に続く。