のどのど日記

昨日ものどのど,今日ものどのど.
明日は…?

のどマガ第81号

2011-10-31 | メルマガ・新聞

10月31日

庭のカリンがほのかに香る10月の終わり、のどのど便り(毎月末配信のメールマガジン)第81号を配信いたしました。

今月号のお品書きは…、

▼ラジオスターの悲劇 (ドイヒロカズ)
▼アラジンの魔法のランプ (チダショウコ)
▼忘れていたけれど (ツキモトクミコ)

と、なっております。

お時間のあるときに、のどのどとご覧くださいませ。
※配信を希望される方は<nodo_nodo@goo.jp>までご連絡ください。

街はどこにある

2011-10-28 | のどのどぬ人

10月28日 ほんきこ読書会@ギャラリー・アートステーション

今日のテーマは「街」。
米沢の"まちなか"にあるギャラリーが会場。

私が持って行ったのは、ナガオカケンメイさんの「d design travel」静岡編。
http://www.d-department.com/jp/
ガイドブックだけれど読み物。これをもって訪ねてみたいという宿・お店・工場・美術館が
確かにいくつも、書かれてありました。
心に残って借りてきてしまったのは、うめちぎりが紹介した倉本聡「ニングルの森」。
しかもこの素敵な物語が、某電力会社の広報誌に掲載されていたという、
なんとも言えない、エピソードつき。
色々と考えるところありのテーマ、最後はまちづくりの話題へ。

「まちづくり」という言葉に、私はずっと違和感があるのです。
宿場町や城下町、門前町。まちのできるところには、何かそれ以前に理由があったはず。
今の過疎の問題、ドーナツ化現象の問題、こちらもどれも理由があるはず。
それでもやはり以前の"中心地"を生き返らせようとする、大勢。
いえ、そこがシャッター街になってしまった理由から目を背けたままで?
なにか、着地点はそことは違うところにあるんじゃないのかな、と思うのだけれども…。
と悶々とした帰り道。

(ゆ:田澤寺特製なめこ汁+キナリブロートのサンドイッチつき!)


旅行く風道しるべ

2011-10-23 | のどのどぬ人

10月23日

今日は, 学校がある地区の音楽祭.
1年に1度, 地区内の小・中・高校と一般バンドが一堂に会します.
「いや~, 楽しがったなぁ~」
と, 帰り際におじいちゃんから声をかけていただきました.
ありがたいことです.

(ド:deviceSTYLEのコーヒーグラインダーを買ってみました. いい香り)

本を待っていた人、本を届けてくれた人

2011-10-23 | のどのどぬ人

10月23日 塩竃ブックエイド@塩竃市公民館本町分室

震災以降、初めて、塩釜を訪ねました。

3月11日の16時ころ、テレビの中の映画みたいな映像を見てしまって、
塩釜、これではもうきっとだめだと、私は思いこんじゃったんだよ、と、叔母に話すと、
「おばちゃんもね、ここから下の45号線を家が2棟、あと車が
すーっと流されていくのを見てたのよ、でもここから見てても映画かと思った。
目の前で起きていることなのに、やっぱり信じられなかったわよ」
そう言われて、なにか、初めて、そうか、、、と思うところがありました。

港町の別の叔母の家は、見かけはなんともありません。
(前の道路や車庫は平衡感覚がおかしくなるような曲がり方をしていますが)
でも、家の中は住める状態ではなく、直すには数百万かかると言われたそうで、今は千葉で暮らしています。

港にはもう観光客を乗せたバスがたくさん。定期船も、かもめもいつも通り。
さっぱり絵にならない小汚い向こう岸も(失礼)、でも、これが私にとっては見慣れた塩釜の港。
でもかもめを見ていたら、ふっと、今、ここにもう一度津波が襲ってくることだって、
ないわけじゃないんだと、だってここに波は押し寄せてきたんだと、一瞬怖くなりました。
でももう本当に、再開もしています。活気もあります。でもブルーシートのかかったお店も、そのままです。

古い公民館での塩竃ブックエイド。
着いたときには坂本頼光さんの活弁はすっかり終わっていました…
けれど古本バザーで桐島洋子を一冊買って、益子焼の二階堂正弘さんの器にバッタリ!再会して、
おいしい珈琲をいただいてきました。

帰りの電車の向かいの座席にはさっきも会ったおじさんが、
たくさんの本を袋に詰めて座っていました。
とっても賑わっていたブックエイド。本も音楽も、食べもの着るもの住むところ、
その次くらいに必要な、心の栄養に違いないのだと思います。

(ゆ)


サバンナのツチブタ

2011-10-22 | のどのどぬ人

10月22日

雨の土曜日.
イル・ジャルディーノ・アルモニコの四季を聴きながら仙台へ(昨日, 楽しみにしていたのに聴けなかった樫本大進(ベルリン・バロック・ゾリステン)のかわりに…).
このリズム感, きっとビバルディもこんな風に作ったんじゃないのかなあ(四季が作曲されたのは1725年. 享保10年, 近松門左衛門が亡くなった年です).
教科書で習う, どことなく静かでお澄まししたビバルディのイメージとは正反対.
途中, 冬の1楽章が道路工事のドリルの音とシンクロして, なんだか可笑しかったです(ちなみに2楽章は雪の中をガタゴト進んでいく汽車のイメージだなぁ. 時代背景をすっとばした勝手なイメージですが…).
(イル・ジャルディーノ・アルモニコ, 広島で聴いたのはもう13年も前のこと. 懐かしい…. あの年はトランペットのナカリャコフなんかも聴いたのです…)

ということで, 夜, 映画「東京オアシス」を観る.
戯曲を読んでいるかのような, 会話劇.
その会話は, 隣同士で(向かい合ってではなく)ゆっくりと, 耳をじっくり傾けながら行われます.
そっと重なってくる大貫妙子の音楽が心地よい(主題歌も).
小さな出会いがもたらす心のオアシス.

万華鏡の街が
光を集めて ゆっくりと回り出す

(ド)

序曲と華やかな歌

2011-10-21 | のどのどぬ人

10月21日

今日は, サウンドスケープ03以来の上杉伯爵邸へ.
うこぎ飯, 冷や汁, 塩引寿司, 芋煮…, と, 米沢の郷土料理をいただいてきました.
ちなみに宮崎にも「冷や汁」があるのですが(去年, 調理実習で作ってきました), 山形の冷や汁とは全然違います.
どちらも美味しいのは一緒ですけど.
(ところで, 置賜(村山も?)の芋煮って甘いですよね? あの三分の一くらいの甘さでいいのに…)

2泊3日の日程でやって来ていた宮崎のみなさん.
今日はあっという間に最終日.
お昼の新幹線で帰って行かれました.

向こうは大変な大雨らしいですが, どうぞ気をつけて!

(ド:サイトウキネン「仮面舞踏会」を聴きながら. プーランクの歌曲をチャーミングだと言っていたのは村上春樹だったか)

Picnic feat. DE LA SOUL

2011-10-20 | のどのどぬ人

10月20日

昨日から学校には, 宮崎県の高校から生徒会のメンバーが6人やって来ています.
今日は一緒に米沢の史跡・名所巡り.
夕方からはリンゴ狩りに行ってきました.

採らせていただいたのは, 陽光という種類のリンゴ.
シャリシャリして美味しいリンゴでした.

(ド:cradleの「ReConstruction Series」を聴きながら. どうでもいいことですが, このジャケットのようなエンボス加工って好きだったりします(またまたどうでもいいことですが, ホログラムも大好きです). 見かけると指でなぞって試さずにはいられません)

速報!

2011-10-19 | のどのどぬ人

10月19日

前新透おじちゃんの竹富方言辞典が菊池寛賞を受賞!

「正式に決まった~」と, うれしいお知らせが入ってきました.
すごいなぁ.
http://www.bunshun.co.jp/award/kikuchi/index.htm

(ド:ということで, 乾杯~!)

nocturne

2011-10-15 | のどのどぬ人

10月15日
向井山朋子「夜想曲」コンサート@白鷹町文化交流センターAYu:Mホール

ヘリコプターの轟音に満たされた真っ暗闇のなか, コンサートはショパンのノクターン(遺作)から始まりました.

硬く, 冷たい音.
自分の中にある静かで優しいノクターンとは全く違うその音に, なんでそんなに痛く弾くんだ, と違和感を覚えます.
でも, そこでふと思うのです.
ヘリコプターの風や真っ暗闇を切り裂くかのごとく, そして石巻の人々の声(スピーカーから流れてくるインタビュー音声)の, その後ろ側にある感情を代弁しそれでもなお前に突き進もうとするかのごとく, ピアニストは立ち向かっているのかも, と.

今日聴いたノクターンは, 前提としてイメージされていたものが, (どこかノスタルジックで柔らかい)「夜」ではなかったのだと思います.
それは, 圧倒的で絶対的な「闇」.
向井山さんはそれに抗い, 立ち向かっていたのでしょうか.

プログラムにはショパンのノクターンの他, 同じテーマやタイトルで作られた現代作品も多くありました.
短い急激なクレッシェンドが執拗に繰り返される(しかもそのクレッシェンドは超高音ffの打鍵によってことごとく打ちのめされる, タイトル通り救いのない)シャリーノの「無慈悲な夜想曲」(5月に聴けなかったシャリーノ, まさか10月に白鷹で聴けるとは…), fが8つ付くことで有名なリゲティの「ピアノのための練習曲」13番・悪魔の階段(余談ですが, 十数年前, 京都賞の授賞式へ生リゲティにお会いしに行ったことがあります!), そして仙台出身・佐藤聡明の「インカーネーション」(恐怖を覚えてしまうくらいの長大なクレッシェンドが圧倒的でした. まさに輪廻を表しているかのよう)の繰り返される厚い厚い音の層.
そのダイナミクスレンジの広さと, 繊細なペダルの使い方によって生み出される水彩画のような音の多彩さに触れて, 改めて, あぁ, ピアノって楽器としては他と比べて極端に大きいんだよなぁ, と, そんなことを思っていました.
あれだけの器(共鳴体)があってこそできる技の数々.
それを全力で弾いた向井山さん.
そしてあれだけの器をも流し去った津波の威力.

パンフレットで向井山さんは, 「石巻の子どもたちに捧げる花束のようなコンサートになればいいと思う」, と書いていました.
このコンサートが花束になるのだとすれば, それは今日生み出された音/音楽そのものではなく, それらを全身全力で生み出した向井山さんの姿そのものに他ならないのでしょう.

でも, その一方で(ここまで書いておいてなお, やっぱり思うのですが)そのことにどんな意味があるのか, 正直僕はわかりません.
圧倒的な闇を身をもって体験した人を前に, それを体験していない側が代弁し表現することにどんな意味があるのか.
ポスト311という論調の中(時間の捉え方は人それぞれなので, まだ311の真っただ中にいる人たちも大勢いるのではないでしょうか), もし自分が津波を目の当たりにしていたとしたら, そんな行為には静かに腹が立ってくるのかもしれない…, なんて, そんなことも思うのです(もっとも, 全て勝手な想像で書いているので, 向井山さんのねらいは全く別のところにあるのかもしれません).

(ド:ところで, 向井山さんといえばやっぱり, 田中カレン「techno etudes」)