10月15日
向井山朋子「夜想曲」コンサート@白鷹町文化交流センターAYu:Mホール
ヘリコプターの轟音に満たされた真っ暗闇のなか, コンサートはショパンのノクターン(遺作)から始まりました.
硬く, 冷たい音.
自分の中にある静かで優しいノクターンとは全く違うその音に, なんでそんなに痛く弾くんだ, と違和感を覚えます.
でも, そこでふと思うのです.
ヘリコプターの風や真っ暗闇を切り裂くかのごとく, そして石巻の人々の声(スピーカーから流れてくるインタビュー音声)の, その後ろ側にある感情を代弁しそれでもなお前に突き進もうとするかのごとく, ピアニストは立ち向かっているのかも, と.
今日聴いたノクターンは, 前提としてイメージされていたものが, (どこかノスタルジックで柔らかい)「夜」ではなかったのだと思います.
それは, 圧倒的で絶対的な「闇」.
向井山さんはそれに抗い, 立ち向かっていたのでしょうか.
プログラムにはショパンのノクターンの他, 同じテーマやタイトルで作られた現代作品も多くありました.
短い急激なクレッシェンドが執拗に繰り返される(しかもそのクレッシェンドは超高音ffの打鍵によってことごとく打ちのめされる, タイトル通り救いのない)シャリーノの「無慈悲な夜想曲」(5月に聴けなかったシャリーノ, まさか10月に白鷹で聴けるとは…), fが8つ付くことで有名なリゲティの「ピアノのための練習曲」13番・悪魔の階段(余談ですが, 十数年前, 京都賞の授賞式へ生リゲティにお会いしに行ったことがあります!), そして仙台出身・佐藤聡明の「インカーネーション」(恐怖を覚えてしまうくらいの長大なクレッシェンドが圧倒的でした. まさに輪廻を表しているかのよう)の繰り返される厚い厚い音の層.
そのダイナミクスレンジの広さと, 繊細なペダルの使い方によって生み出される水彩画のような音の多彩さに触れて, 改めて, あぁ, ピアノって楽器としては他と比べて極端に大きいんだよなぁ, と, そんなことを思っていました.
あれだけの器(共鳴体)があってこそできる技の数々.
それを全力で弾いた向井山さん.
そしてあれだけの器をも流し去った津波の威力.
パンフレットで向井山さんは, 「石巻の子どもたちに捧げる花束のようなコンサートになればいいと思う」, と書いていました.
このコンサートが花束になるのだとすれば, それは今日生み出された音/音楽そのものではなく, それらを全身全力で生み出した向井山さんの姿そのものに他ならないのでしょう.
でも, その一方で(ここまで書いておいてなお, やっぱり思うのですが)そのことにどんな意味があるのか, 正直僕はわかりません.
圧倒的な闇を身をもって体験した人を前に, それを体験していない側が代弁し表現することにどんな意味があるのか.
ポスト311という論調の中(時間の捉え方は人それぞれなので, まだ311の真っただ中にいる人たちも大勢いるのではないでしょうか), もし自分が津波を目の当たりにしていたとしたら, そんな行為には静かに腹が立ってくるのかもしれない…, なんて, そんなことも思うのです(もっとも, 全て勝手な想像で書いているので, 向井山さんのねらいは全く別のところにあるのかもしれません).
(ド:ところで, 向井山さんといえばやっぱり, 田中カレン「techno etudes」)