群馬県前橋市西大室町の大室公園内にあります。
「荒砥村51号墳」と呼ばれることもあります。
全長94m、 後円部径69m・高さ14m、 前方部先端幅65m・高さ14m 二段構築の前方後円墳です。
墳丘の一部は地山を削って造成されています。
(前方部)
(後円部)
墳丘の周りには楯形をした幅10~20mの二重の周濠があり、その外側には堤があります。
墳丘上段には葺石が施されています。
円筒埴輪や人物埴輪・盾持人埴輪・馬形埴輪・家形埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪・靫形埴輪・鉾形埴輪・大刀形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
並べられていた円筒埴輪の数は、1340本以上あったようです。
後円部にある埋葬施設は、笠懸町天神山産凝灰岩でつくられた両袖型横穴式石室です。
石室は羨道の長さ8m・幅1.2m、玄室の長さ5.7m・幅1.82m・高さ1.36mの単室構造です。
1878年(明治11年)3月には、後二子古墳の石室ともども開口されています。
現在の石室は傷みもあって修復・復元されたものです。
2007年5月には須恵器、土師器が並べられたそうです。
主な出土品として金製耳管、水晶製丸玉、碧玉製管玉、ガラス製青色丸玉、ガラス製緑色小玉、滑石製管玉・臼玉などの装身具、環頭太刀、直刀、鉄鏃などの武器、剣菱形杏葉、辻金具、鞍金具、輪鐙、轡セットなどの馬具、斧、刀子、鋤、針などの農耕具、小像付筒型器台、高坏型器台、高坏、堤瓶、直口壺などの須恵器、高坏、坏、坩、台付壺などの土師器があります。
古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。
昭和2年4月8日、国の史跡に指定されています。
大室古墳群で一番南にある前方後円墳です。
「荒砥村51号墳」と呼ばれることもあります。
全長94m、 後円部径69m・高さ14m、 前方部先端幅65m・高さ14m 二段構築の前方後円墳です。
墳丘の一部は地山を削って造成されています。
(前方部)
(後円部)
墳丘の周りには楯形をした幅10~20mの二重の周濠があり、その外側には堤があります。
墳丘上段には葺石が施されています。
円筒埴輪や人物埴輪・盾持人埴輪・馬形埴輪・家形埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪・靫形埴輪・鉾形埴輪・大刀形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
並べられていた円筒埴輪の数は、1340本以上あったようです。
後円部にある埋葬施設は、笠懸町天神山産凝灰岩でつくられた両袖型横穴式石室です。
石室は羨道の長さ8m・幅1.2m、玄室の長さ5.7m・幅1.82m・高さ1.36mの単室構造です。
1878年(明治11年)3月には、後二子古墳の石室ともども開口されています。
現在の石室は傷みもあって修復・復元されたものです。
2007年5月には須恵器、土師器が並べられたそうです。
主な出土品として金製耳管、水晶製丸玉、碧玉製管玉、ガラス製青色丸玉、ガラス製緑色小玉、滑石製管玉・臼玉などの装身具、環頭太刀、直刀、鉄鏃などの武器、剣菱形杏葉、辻金具、鞍金具、輪鐙、轡セットなどの馬具、斧、刀子、鋤、針などの農耕具、小像付筒型器台、高坏型器台、高坏、堤瓶、直口壺などの須恵器、高坏、坏、坩、台付壺などの土師器があります。
古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。
昭和2年4月8日、国の史跡に指定されています。
大室古墳群で一番南にある前方後円墳です。