古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

岡山県岡山市・千足(装飾)古墳

2010-11-27 08:21:45 | Weblog
岡山県岡山市北区新庄下にあります。
造山古墳の南西約200mの所で、造山古墳の6基ある陪塚の一つです。
造山5号墳と呼ばれることもあります。

全長74m、 後円部径54m・高さ6.8m、 前方部幅(先端幅)25m・高さ2.3m 三段構築の帆立貝式前方後円墳です。

円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1987年に発掘調査が行われています。
主体部が二つ確認されています。
後円部にある埋葬施設は横穴式石室です。
吉備地方では最古の横穴式石室で、玄室は長さ3.45m・幅2.5m・高さ2.7mあり、板石を積み上げて造られています。
石室内からは直弧文が刻まれた石障が見つかり、一躍注目されることになりました。
この直弧文や石室の構造が、九州・肥後地方に見られる装飾古墳に似ていることが分かっています。
石室の壁に積みあげられた板石も、九州から運ばれた(佐賀県・松浦砂岩)可能性が高いそうです。
石障とは、石室内で遺体を安置する場所を区切るベッドのような横に長い石材のことを言います。
倭製半円方形帯変形五獣鏡、碧玉製勾玉、ガラス製小玉、鉄鏃などが出土しています。
後円部頂にあるもう一つの埋葬施設は、どのようなものだったのかはっきりしていません。
ただ粘土槨の一部が露出しています。
変形五獣鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄剣、鉄刀、草綴短甲、斧などが出土しています。

5世紀中ころの築造と推定されています。
大正10年3月3日、国の史跡に指定されています。

2009年10月呪術文様の一部の剥落が見つかり、また2010年5月には調査のため水没していた石室の水を抜いた際、白カビが発生したことでニュースになりました。






岡山県岡山市・造山古墳

2010-11-20 08:25:55 | Weblog
岡山県岡山市北区新庄下1147の台地上にあります。
墳丘は耕地や住宅利用のため大きく改変されています。

全長360m、 後円部径224m・高さ32.5m、 前方部幅(先端幅)230m・高さ27m 三段構築の前方後円墳です。
くびれ部でも幅115mあります。
全国で4番目の大きさを誇る巨大古墳です。
また墳丘に自由に立ち入りができる古墳としては国内最大のものです。

墳丘の周りには周濠が、さらにその外側には周庭があります。
両側くびれ部に造り出しがあります。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
円筒埴輪、楯形埴輪、蓋形埴輪、靭形埴輪、家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

低丘陵を切断して削平、土盛りなどをして墳形を整えています。
古墳時代中期・5世紀前半から中頃にかけての築造と推定されています。

前方部は、墳丘を削平して造山集落の荒(こう)神社が建てられていて、鐘つき堂が付随しています。
鐘つき堂の傍には、阿蘇凝灰岩製の刳抜式長持型石棺が、手水鉢代わりに置いてあります。
この石棺は新庄車塚古墳より運ばれたと言われています。
社の右横後ろには石棺の蓋石が放置されていました。

後円部は、現在平坦な原っぱになっています。
これは戦国時代の羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利軍が陣地にするため墳頂を平らに削ったためだと言われています。
さらに後円部の周囲に土塁が築かれています。

造山古墳は正式な発掘調査が行われていません。
岡山大学考古学研究室が2005年度から3ケ年計画で、墳丘の測量調査を実施しています。
2009年度からは同じ3ケ年計画で、外周施設を明らかにするための発掘調査を行っています。
後円部のトレンチ(第2)調査で、幅約20mの周濠と、周庭(高さ0.3m-現状で確認できるもの)が見つかっています。
前方部のトレンチ(第2・第3)からは、水田面下約1mから風化した花崗岩が確認され、南北に延びる丘陵を切断して墳丘を構築していることが分かったそうです。

造山古墳には6基の陪塚があります。
これらを含めて、大正10年3月3日、国の史跡に指定されています。
現在、墳丘の東側から南側にかけて住宅が密集しています。
これほどの巨大古墳が、立ち入り制限も受けず、自由に見学できることにただただ驚きです。




        (前方部)


   (後円部から前方部をみています)




岡山県岡山市・中山茶臼山古墳

2010-11-13 08:31:17 | Weblog
岡山県岡山市北区吉備津尾上、「吉備の中山」 山上にあります。
宮内庁が吉備津彦命の陵墓参考地、「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として管理しています。

全長120m、 後円部径80m・高さ12m、 前方部幅(先端幅)50m・高さ7m の前方後円墳です。

造り出しはありません。
墳丘の周りには周濠があります。
都月式埴輪などが採集されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

山の尾根を切断して築造されたとみられていて、後円部が前方部よりかなり広くなっています。
3世紀後半から4世紀ころの築造と推定されています。

「吉備の中山」へは長い石段を登って行きましたが、何度も休憩しながらやっとの思いで辿り着きました。
古墳の前方には広場があり、地元の子供たちがハイキングに来ていました。
帰り際、自然な形で古墳の前をきれいに掃除していきました。
3人ほど付き添いの先生がおられましたが、なんだか嬉しい気持ちにさせられました。


「吉備津彦命」
お伽話「桃太郎」伝説のモデル人物と言われています。
第7代孝霊天皇の第3皇子で、現在の奈良県磯城郡田原本町に生まれたと言われています。
崇神天皇の勅命により四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣されました。
途中で孝元天皇の皇子・武埴安彦命の反乱に遭いますが、大彦命(孝元天皇の皇子)とともに制圧しました。



         (前 方 部)




    (古墳の前を掃除する子供たち)

岡山県岡山市・神宮寺山古墳

2010-11-06 08:15:03 | Weblog
岡山県岡山市北区中井町1丁目、御野小学校の北東すぐにあります。

全長150m、 後円部径70m・高さ13m、 前方部幅?m・高さ7m  前方部二段、後円部三段構築の前方後円墳です。
一部損傷を受けています。
湊茶臼山古墳と同じ全国で65番目の大きさです。

墳丘の周りには周濠がめぐらされています。
右側くびれ部に造り出しがあります。
墳丘には葺き石が施されていたとみられています。
円筒埴輪、蓋形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1988年に発掘調査が行われています。
後円部頂の埋葬施設は、竪穴式石槨です。
全長1.5m・幅0.5~0.6m・高さ0.9mあります。
後円部頂やや北寄りには副室の小型竪穴式石室があります。
ここから多量の鉄製農具(両端折曲鎌・直刃鎌・鋤など)や工具(鋸・鉄斧・手斧・ヤリガンナ・のみ・錐など)、武器(鉄剣・鉄刀など)が出土しています。
また前方部からもかって刀・甲冑・槍・鉾などが出土したと伝えられていて、前方部にも埋葬施設があった可能性が指摘されています。

現在、後円部頂上には天計(あまはかり)神社が建てられています。
傍には石室の天井石の一部が露出しています。
また前方部は墓地になっていて、一部損傷を受けています。

この古墳は、旭川が運んだ土砂上(沖積平野)に盛り土で築造されていて、平地に造られたきわめて珍しく貴重な古墳です。
4世紀後半から5世紀初めころの築造と推定されています。

昭和34年5月13日、国の史跡に指定されています。


   (後 円 部)




   (前 方 部)