古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

群馬県高崎市・五霊神社古墳

2018-01-27 06:42:01 | Weblog
群馬県高崎市貝沢町井野前332、井野川中流域右岸の微高地にあります。
五霊神社境内にあり、後円部墳丘上には五霊神社の社殿が建っています。











「高崎市223号墳」とも呼ばれています。

全長約60m、 後円部径34m・高さ3.6m、 前方部先端幅38.5m・高さ4m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。


                  (左奥が前方部)

墳丘はかなり削平を受けています。







1980年には発掘調査が行われています。
墳丘の周りにはすでに埋没している盾形をした周濠があります。
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や大刀形埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部中央にある埋葬施設は確認されていませんが、横穴式石室の可能性が高いとみられています。
金環、大刀、シオデ、鞍、銅鋺、土師器などが出土しています。

古墳時代後期・6世紀末頃の築造と推定されています。

平成5年3月1日、高崎市の史跡に指定されています。

群馬県高崎市・浜尻天王山古墳

2018-01-27 06:00:46 | Weblog
群馬県高崎市浜尻町八坂西、井野川中流域右岸の自然堤防上にあります。
「中川天王塚古墳」とか「中川村1号墳」とも呼ばれています。
前方部墳丘上には諏訪神社の社殿が建っています。







また後円部墳丘上には庚申塔や大正天皇聖蹟碑がたてられています。





全長約60(現状53)m、 後円部径28m・高さ?m、 前方部先端幅36m・高さ?m  の前方後円墳です。


                (左後円部,右前方部)


                  (後円部裾部)







前方部を西方向に向けています。
その裾部には、大染寺の住職や元高崎藩士の墓があります。



墳丘上は前方部、後円部とも削られて平らになっています。

1955年に測量調査が、1981年には発掘調査が行われています。
墳丘には河原石による葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や人物・家・馬などの形象埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部中央にある埋葬施設は、後円部墳丘上に安山岩の巨石が露出していることから横穴式石室とみられます。


                    (写真左手)

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。

平成5年3月1日、高崎市の史跡に指定されています。

群馬県高崎市・幸宮神社古墳

2018-01-20 06:15:22 | Weblog
群馬県高崎市下小鳥町西浦の平地にあります。
「六郷村6号墳」とも呼ばれています。
下小鳥公民館の隣、幸宮神社境内にあります。















全長約36m、 後円部径17m・高さ1m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
墳丘は大きく破壊されていて、どこが古墳なのか判断に苦しむ状態です。
幸宮神社の本殿が建っているあたりが墳丘のようです。

墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
墳丘に葺石が施されていたようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

資料が少なく築造時期を含め詳細は不明です。

なお幸宮神社に保存されている算額についての説明文が、境内にかかげられています。


群馬県高崎市・並榎神明塚古墳

2018-01-20 05:54:00 | Weblog
群馬県高崎市上並榎町山王裏にあります。
第一中学校の北西方向、烏川右岸の河岸段丘上です。
「高崎市220号墳」とも呼ばれています。
墳丘上には神明神社が建っています。









全長約40m、 後円部径27m・高さ2.7m、 前方部先端幅?m・高さ2.4m  の前方後円墳です。
墳丘は大きく破壊されていて、墳丘の一部(現状は20mの矩形)が残っているだけです。

円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
後円部中央にある埋葬施設は横穴式石室です。
直刀、勾玉、南京玉などが出土しています。

資料が少なく築造時期など不明です。








群馬県高崎市・上小塙稲荷山古墳

2018-01-13 06:31:54 | Weblog
群馬県高崎市上小塙町稲荷前、稲荷神社の境内内です。
「烏子稲荷山古墳」とか「六郷村12号墳」とも呼ばれています。

全長90m、 後円部径60m・高さ8m、 前方部先端幅42m・高さ?m  二段構築の帆立貝形前方後円墳です。







後円部墳丘上には烏子(スナイゴ)稲荷神社の社殿が建っています。











墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
墳丘には河原石による葺石が施されていたとみられています。
埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
1984年には発掘調査が、1991年には調査が行われています。
後円部北側にある埋葬施設は、自然石で造られた無袖型横穴式石室です。
北西方向に開口しています。






                    (石棺?)

石室の全長10.1m、玄室の長さ5.5m・幅2.1mあります。
須恵器器台1、須恵器壺2、須恵器はそう1、須恵器堤瓶1 などが出土しています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

平成3年3月1日、高崎市の史跡に指定されています。

群馬県高崎市・八幡二子山古墳

2018-01-13 05:54:37 | Weblog
群馬県高崎市八幡町二子塚の碓氷川と烏川に挟まれた台地南側にあります。
「平塚古墳」の東方向近くです。
平塚古墳と八幡観音塚古墳、八幡二子山古墳を結ぶとほぼ正三角形になるような配置です。
「八幡二子塚古墳」とか「八幡村1号墳」とも呼ばれています。

全長約66.5m、 後円部径41m・高さ9m、 前方部先端幅42m・高さ9m  三段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。


                  (左側が西方向)


                  (右側が西方向)

墳丘の周りには今は空堀となっている幅15~19.3mの盾形をした周濠があります。
墳丘には葺石が施されていたようです。







円筒埴輪や人物埴輪、馬形埴輪、器材埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1989年に発掘調査が行われています。
後円部中央にある埋葬施設は横穴式石室とみられています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

(前方部)






(後円部)







群馬県高崎市・八幡観音塚古墳

2018-01-06 06:01:22 | Weblog
群馬県高崎市八幡町観音塚1087の独立した丘陵の頂にあります。
「平塚古墳」の北東方向すぐ近くです。
「八幡村7号墳」とも呼ばれています。




                   (後円部)



                   (前方部)


全長約105(現状96)m、 後円部径75m・高さ14m、 前方部先端幅91.1m・高さ10m  後円部三段・前方部四段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。


                  (右側が前方部)

墳丘の周りには、今は一部道路となっている盾形をした周濠があります。
墳丘には河原石による葺石が施されています。



円筒埴輪や器材埴輪・人物埴輪・動物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1981年に発掘調査が行われています。
後円部中央に埋葬施設、両袖型横穴式石室があります。







昭和20年(1945年)3月10日、近隣住民が後円部に共用の防空壕を掘っていて偶然発見したものだそうです。
組合式石棺が収められていたそうです。
石室は自然石の巨石でつくられていて、最も大きなものでは重量55トンに達するものもあるそうです。
石室は単室構造で全長が15.8mあり、羨道の長さ8.14m・幅1.4~1.95m・高さ2.1m、玄室の長さ7.45m・幅3.42~3.55m・高さ2.8mあります。
南南西方向に開口しています。
中国製画文帯四神四獣鏡、倭製内行花文鏡、倭製六獣鏡、倭製変形五獣五鈴鏡、銀釧、金環、銀装圭頭太刀、銀装横刀、柄頭各種、鉄鏃、長頸鎌、挂甲、斧、鉄製ヤリガンナ、鑿、刀子、轡、杏葉、辻金具、雲珠、金銅シオデ、鉄シオデ、鉄釘、菱形銀製品、須恵器など30種・300余点が出土していて、昭和36年(1961年)2月17日「上野国八幡観音塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定されています。

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。
前方部の幅や高さが後円部をしのぐという、古墳時代終末期の特徴を持っています。
群馬県域で最後に造られた前方後円墳です。

昭和23年1月14日、国の史跡に指定されています。

群馬県高崎市・平塚古墳

2018-01-06 05:23:00 | Weblog
群馬県高崎市八幡町毘沙門申の独立した丘陵の頂にあります。
平塚公園内にあり、碓氷川を見下ろすかたちに築かれています。



前述の「流敵塚古墳」とは県道10号線を挟んで相対する形で、その東側です。
「八幡村6号墳」とも呼ばれています。

全長約105m、 後円部径66m・高さ9m、 前方部先端幅76m・高さ7m  三段構築の前方後円墳です。
墳丘全体が竹林や雑木で覆われています。



前方部、後円部とも墓地として利用されていて、墳丘は一部削平を受けています。


                    (後円部)


(前方部)












墳丘の周りには今は埋没している盾形をした周濠があります。
河原石による葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1981年には発掘調査が、1988年には周濠の発掘調査が行われています。
主体部が二つ確認されています。
後円部頂の南寄りにある埋葬施設は、凝灰岩製の舟形石棺で埋葬されていたそうです。
挂甲小札などが出土しています。
後円部頂の北寄りにある埋葬施設は、やはり凝灰岩製の舟形石棺で埋葬されていたそうです。

古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。