奈良県天理市櫟本町高塚2532、標高130mの南北に連なる東大寺山丘陵西端にあります。
天理教城法(しきのり)大教会裏の丘陵上です。
「北高塚古墳」と呼ばれることもあります。
墳丘全体が竹林で覆われています。
全長140m、 後円部径84m・高さ10m、 前方部先端幅50m・高さ?m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を北に向けています。
(墳丘への登り路)
(前方部)
墳丘には河原石による葺石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
円筒埴輪や朝顔形埴輪は墳丘中腹と裾部に、家形・太刀形・盾形・靫形・草摺形・蓋形などの形象埴輪は墳頂部の埋葬施設を取り囲むように並んでいたようです。
1961年(昭和36年)初めに碧玉製の鍬形石27・車輪石26・鉄刀・鉄剣などが掘り出されたのに伴い、同年9月から1962年1月にかけて天理大学による発掘調査が行われ埋葬施設が見つかりました。
主体部は粘土槨(南北12m、東西6.5~8m、深さ約3.7m)で、割竹形木棺で埋葬されていたそうです。
棺床に撒かれていた水銀朱の範囲から、木棺の長さは7.4mほどもあったようです。
主体部はほとんど盗掘されていました。
(盗掘坑跡?)
ただ棺外から鉄刀20(素環頭6、銅製環頭5を含む)、鉄剣9、鉄槍10、水銀朱、銅鏃、革製短甲巴形銅器、鏡、硬玉製小形勾玉、碧玉製管玉、瑪瑙玉 などたくさんの遺物が出土しました。
なかでも鉄刀・鳥形飾銅製環頭太刀(長さ110cm)の一振りから、金象嵌(純金製)で記された24文字からなる銘文が見つかりました。
「中平口年五月丙午造作(支?)(刀?)百練清剛上応星宿(下?)(辟?)(不?)(祥?)」の24文字です。
中平とは中国・後漢時代の年号(184~189年)で、日本では女王・卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代です。
出土した遺物は一括して国の重要文化財に指定(1972年5月30日)され、東京国立博物館に保管されているそうです。
その後今年(2017年9月15日)になって、「奈良県東大寺山古墳出土品」として国宝に指定されました。
東大寺山古墳群(和爾氏の奥津城と考えられています)を構成しています。
古墳時代前期・4世紀後半頃と推定されています。
天理教城法(しきのり)大教会裏の丘陵上です。
「北高塚古墳」と呼ばれることもあります。
墳丘全体が竹林で覆われています。
全長140m、 後円部径84m・高さ10m、 前方部先端幅50m・高さ?m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を北に向けています。
(墳丘への登り路)
(前方部)
墳丘には河原石による葺石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
円筒埴輪や朝顔形埴輪は墳丘中腹と裾部に、家形・太刀形・盾形・靫形・草摺形・蓋形などの形象埴輪は墳頂部の埋葬施設を取り囲むように並んでいたようです。
1961年(昭和36年)初めに碧玉製の鍬形石27・車輪石26・鉄刀・鉄剣などが掘り出されたのに伴い、同年9月から1962年1月にかけて天理大学による発掘調査が行われ埋葬施設が見つかりました。
主体部は粘土槨(南北12m、東西6.5~8m、深さ約3.7m)で、割竹形木棺で埋葬されていたそうです。
棺床に撒かれていた水銀朱の範囲から、木棺の長さは7.4mほどもあったようです。
主体部はほとんど盗掘されていました。
(盗掘坑跡?)
ただ棺外から鉄刀20(素環頭6、銅製環頭5を含む)、鉄剣9、鉄槍10、水銀朱、銅鏃、革製短甲巴形銅器、鏡、硬玉製小形勾玉、碧玉製管玉、瑪瑙玉 などたくさんの遺物が出土しました。
なかでも鉄刀・鳥形飾銅製環頭太刀(長さ110cm)の一振りから、金象嵌(純金製)で記された24文字からなる銘文が見つかりました。
「中平口年五月丙午造作(支?)(刀?)百練清剛上応星宿(下?)(辟?)(不?)(祥?)」の24文字です。
中平とは中国・後漢時代の年号(184~189年)で、日本では女王・卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代です。
出土した遺物は一括して国の重要文化財に指定(1972年5月30日)され、東京国立博物館に保管されているそうです。
その後今年(2017年9月15日)になって、「奈良県東大寺山古墳出土品」として国宝に指定されました。
東大寺山古墳群(和爾氏の奥津城と考えられています)を構成しています。
古墳時代前期・4世紀後半頃と推定されています。