古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

奈良県天理市・東大寺山古墳

2017-09-30 06:01:18 | Weblog
奈良県天理市櫟本町高塚2532、標高130mの南北に連なる東大寺山丘陵西端にあります。
天理教城法(しきのり)大教会裏の丘陵上です。
「北高塚古墳」と呼ばれることもあります。
墳丘全体が竹林で覆われています。









全長140m、 後円部径84m・高さ10m、 前方部先端幅50m・高さ?m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を北に向けています。


                       (墳丘への登り路)



                          (前方部)


墳丘には河原石による葺石が施されています。



円筒埴輪や朝顔形埴輪・形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
円筒埴輪や朝顔形埴輪は墳丘中腹と裾部に、家形・太刀形・盾形・靫形・草摺形・蓋形などの形象埴輪は墳頂部の埋葬施設を取り囲むように並んでいたようです。

1961年(昭和36年)初めに碧玉製の鍬形石27・車輪石26・鉄刀・鉄剣などが掘り出されたのに伴い、同年9月から1962年1月にかけて天理大学による発掘調査が行われ埋葬施設が見つかりました。
主体部は粘土槨(南北12m、東西6.5~8m、深さ約3.7m)で、割竹形木棺で埋葬されていたそうです。
棺床に撒かれていた水銀朱の範囲から、木棺の長さは7.4mほどもあったようです。
主体部はほとんど盗掘されていました。



                         (盗掘坑跡?)

ただ棺外から鉄刀20(素環頭6、銅製環頭5を含む)、鉄剣9、鉄槍10、水銀朱、銅鏃、革製短甲巴形銅器、鏡、硬玉製小形勾玉、碧玉製管玉、瑪瑙玉 などたくさんの遺物が出土しました。
なかでも鉄刀・鳥形飾銅製環頭太刀(長さ110cm)の一振りから、金象嵌(純金製)で記された24文字からなる銘文が見つかりました。
「中平口年五月丙午造作(支?)(刀?)百練清剛上応星宿(下?)(辟?)(不?)(祥?)」の24文字です。
中平とは中国・後漢時代の年号(184~189年)で、日本では女王・卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代です。
出土した遺物は一括して国の重要文化財に指定(1972年5月30日)され、東京国立博物館に保管されているそうです。
その後今年(2017年9月15日)になって、「奈良県東大寺山古墳出土品」として国宝に指定されました。

東大寺山古墳群(和爾氏の奥津城と考えられています)を構成しています。

古墳時代前期・4世紀後半頃と推定されています。

奈良県天理市・櫟本(いちのもと)墓山古墳

2017-09-23 06:19:02 | Weblog
奈良県天理市櫟本町大塚2232にあります。
東大寺山から西に延びている丘陵の先端部です。
JR桜井線・櫟本駅から歩5~7分のところです。

全長64m、 後円部径40m・高さ7m、 前方部先端幅18m・高さ?m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を北西方向に向けています。
前方部は北側に隣接する池によって一部削平されていて、かなり低くなっています。








墳丘全体が江戸時代から続く地元の人々の墓地として利用されています。









墳丘には河原石による葺石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1970年(昭和45年)、天理大学歴史研究会による測量調査が行われています。
ただ発掘調査は行われていません。
埋葬施設は両袖型横穴式石室とも言われていますが、はっきりしていません。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

奈良県天理市・野田古墳

2017-09-23 05:58:49 | Weblog
奈良県天理市和邇町野田71にあります。

全長70m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅35m・高さ1~2m  の前方後円墳です。
前方部を北に向けています。







後円部は高圧電線の鉄塔で南半分が削平されています。







墳丘の周りには、今は埋没していますが周濠があります。
円筒埴輪や盾形埴輪・動物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
須恵器が出土しています。
埋葬施設は横穴式石室のようです。

寺山古墳群を構成しています。
墓地の造成計画に伴う調査の結果、33基が見つかっています。
ほとんどの古墳は墳丘が削られていて、かろうじてこの野田古墳の墳丘だけは残っています。

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。

奈良市・栗塚古墳

2017-09-16 06:40:05 | Weblog
奈良市高桶町植田406の扇状地にあります。
県道187号線福住・上三橋線脇です。





全長100m、 後円部径60m・高さ8.2m、 前方部先端幅50m・高さ3.6m  の前方後円墳です。
前方部を南東方向に向けています。







墳丘は果樹園になっていて、かなり削平を受けています。





奈良市内で一番南側にある前方後円墳で、すぐ隣は天理市です。

1990年に測量調査が、1996年に発掘調査が行われています。
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
また埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。

古墳時代前期の築造と推定されています。

奈良市・ベンショ塚古墳

2017-09-16 05:56:08 | Weblog
奈良市山町塚廻り634の台地上にあります。
JR桜井線・帯解(おびとけ)駅から徒歩10~15分ほどのところです。
国道169号線下山交差点すぐ東側です。











全長72~77m、 後円部径38m・高さ7m、 前方部先端幅42m・高さ3m  三段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
その前方部は削平されて畑地になっています。


               (右側小屋の建っているところが前方部です)

後円部も「森常稲荷大明神」の社が建っていて、墳頂部が削られています。





墳丘の周りには、今は埋没している幅8~16mの盾形をした周濠があります。
葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や家形埴輪・楯形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

稲荷神社の建設に伴う発掘調査が1990年(平成2年)に行われています。
埋葬施設が三つ確認されています。

後円部頂にある埋葬施設は盗掘がひどく、どのような埋葬だったのか不明です。
三角板革綴短甲片、鉄鎌、鉄鏃などが出土しています。

後円部頂南側にある埋葬施設には、粘土槨(全長6.38m・幅2.4m)に組合式割竹形木棺が収められていました。
三角板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑、鉄槍、柳葉式鉄鏃、長頸式鉄鏃、鞍金具、環状雲珠、鉄斧、鉄鑿、砥石、針、ガラス製小玉 などが出土しています。

後円部頂東側にある埋葬施設は、南側同様粘土槨(全長2.3m)に組合式割竹形木棺が収めれれていました。
ガラス製小玉、滑石製児玉、土製小玉、滑石製勾玉、土製勾玉、有孔円盤、針 などが出土しています。

古墳時代中期・5世紀前半頃の築造と推定されています。

奈良県大和郡山市・来迎墓ノ間4号墳

2017-09-09 06:56:26 | Weblog
奈良県大和郡山市西町来迎1234の市営公園墓地内にあります。

全長35m、 後円部径25m・高さ?m、 前方部先端幅15m・高さ?m  の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。

埴輪片や須恵器の杯身などが出土しています。

前方後円墳1基、円墳7基、方墳1基からなる来迎墓ノ間古墳群(額田部西古墳群)を構成しています。

いずれの古墳の墳丘も墓地として利用されているため原形をとどめていません。
公園墓地建設に先立ち各古墳の周濠確認調査が行われましたが、埋葬施設などの学術調査は行われておらず、詳細は不明です。











古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

奈良県大和郡山市・額田部狐塚古墳

2017-09-09 06:24:12 | Weblog
奈良県大和郡山市額田部北町小山1147、額田部丘陵の西側端部にあります。

全長約50m、 後円部径26.5m・高さ5m、 前方部先端幅36m・高さ5.5m  の前方後円墳です。
前方部を南南西に向けています。
後円部は大和中央道の下り線の下に保存されています。



前方部はかなりの削平を受けています。











墳丘の周りには幅1mと幅8mの二重の周濠があります。
周濠は空豪の可能性が高いそうです。
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
大和では初めての尾張系の円筒埴輪や朝顔形埴輪、形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1966年(昭和41年)、昭和工業団地内を南北に抜ける道路(大和中央道)の建設に先立つ発掘調査が行われています。
後円部中央部から主軸に直交する位置で、同一墓壙に2棺が納棺されていたそうです。
両棺とも組合式木棺で、同時に埋葬されたようです。
北棺には男性が、南棺には女性が埋葬されていた(夫婦?)ようです。
北棺は長さ約4.0m、幅約1.8mあり頭部を東に向けていました。
画文帯二神二獣鏡、ガラス製玉、琥珀製玉、中空銀玉、金銅製梶帽、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、挂甲小札、馬具 などが出土しています。
南棺の長さは約3.9m、幅約0.6mでやはり東に頭部を向けていました。
ガラス製小玉、銀環、管玉、鉄鏃、馬具、革製品 などとともにわずかですが人骨も出土しています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

奈良県大和郡山市・推古神社古墳

2017-09-09 05:59:05 | Weblog
奈良県大和郡山市額田部北町宮の前826、推古神社境内にあります。
推古神社の祭神は、第33代推古天皇(日本初の女帝)ー豊御食炊屋姫命(とよみけかしきやひめみこ)です。









全長約41m、 後円部径26m・高さ2m、 前方部先端幅23m・高さ2m の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
後円部は神社の本殿でかなり削平されています。









墳丘に葺石は施されていなかったものとみられます。
種類ははっきりしていませんが埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

古墳時代後期初めころの築造と推定されています。

奈良県大和郡山市・船墓古墳

2017-09-02 06:32:49 | Weblog
奈良県大和郡山市額田部北町941、融通寺境内にあります。







全長約60m、  後円部径20m・高さ?m, 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
墳丘は寺院建設で大きく破壊されていて、どこが古墳なのか判別するのは難しい状態です。
住職の方の話では、後円部の上に今の本堂が建っているようです。









墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

奈良県大和郡山市・新木山古墳

2017-09-02 05:55:54 | Weblog
奈良県大和郡山市新木町丸山497の平地にあります。
萬福寺の北側、県道9号線沿いです。
「丸山古墳」とも呼ばれています。





宮内庁が「郡山陵墓参考地」として管理しています。



全長約122.5m、  後円部径67m・高さ10.7m、  前方部先端幅75m・高さ9m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を南南西に向けています。
北西から西にかけての後円部は、県道9号線によって一部削平されています。





くびれ部両側に造り出しがあり、右側くびれ部からは囲形埴輪や笊形土器などが出土しています。
墳丘の周りには今も水を湛えた馬蹄形をした周濠があります。





幅が後円部で18m、前方部で22mあります。
周濠の外側には幅約20mの周堤があります。
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・家形埴輪・囲形埴輪・蓋形埴輪・楯形埴輪などが出土しています。
宮内庁には勾玉、管玉、瑪瑙玉などが所蔵されているそうです。
埋葬施設は横穴式石室のようです。
陵墓参考地のため本格的な調査は行われていません。

2011年(平成23年)10月17日から、柵の改修工事が行われたのに伴い宮内庁が柵周りの発掘調査を実施しています。
その際出土した埴輪片からこの古墳の築造時期は古墳時代中期・5世紀中期前葉頃と推定されました。

大和郡山市といえば全国的にも「金魚」の生産地として知られています。
墳丘の周りにもたくさんの養殖池があります。