古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

和歌山市・知事塚古墳

2013-06-29 08:03:25 | Weblog


和歌山市岩橋前山1834、標高約150mの岩橋丘陵主稜線上にあります。
「前山B67号墳」とも呼ばれています。
将軍塚古墳の西、約80mの尾根上です。

全長34.5m、 後円部径16.2m・高さ4.5m、 前方部先端幅20.5m・高さ4m の前方後円墳です。

墳丘に葺き石は施されていません。
埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
くびれ部の北側に造り出しがあります。
墳丘から須恵器の破片などが出土しています。

主体部は3つ確認されています。
後円部にある主体部は、西側に開口する横穴式石室です。
玄室の長さが2.4m、幅2.05m、高さ3.4m あります。
石棚一つと仕切り石があります。
玄門には扉石が立てかけてあったそうです。

くびれ部にある主体部は、北東側に開口する畿内型(石棚や石梁がない)の横穴式石室(長さ2.6m、幅1.3m)です。

前方部にある主体部は、竪穴式石室(長さ1.9m、幅0.45m)です。

現在、各石室は保護のため埋め戻しされています。
この古墳の周りには、直径8m~18mの沢山の数の円墳(横穴式石室をもつものが多い)が分布しています。

古墳時代後期・6世紀ころの築造と推定されています。







和歌山市・将軍塚古墳

2013-06-22 08:46:42 | Weblog


和歌山市岩橋、標高約150mの紀伊風土記の丘公園・岩橋前山山頂にあります。
「前山B53号墳」とも呼ばれています。

全長42.5m、 後円部径21.7m・高さ4m、 前方部先端幅21m・高さ?m の前方後円墳です。

墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていませんでした。

前方部と後円部に石室があります。

後円部中央にある石室は、南に開口する結晶片岩で造られた両袖型横穴式石室で、組合式石棺が収められていました。



全長3.32m、幅2.23m、玄室の高さが4.3mあります。
石室は盗掘を受けていましたが、ガラス製小玉・水晶製平玉・銀環・梔子(くちなし)玉・須恵器・土師器・鉄刀 などが出土しています。
石室は公開されていて、自由に見学することができます。
まず驚くのは、天井が非常に高いことです。
石室内には、1枚の板石による石棚や、石梁1本があります。
石棚や石梁があるのが、ここ千塚古墳群の石室の特徴でもあります。
石梁のおかげで、高い天井が可能になったものと思われます。
玄室の床には、河原石が敷き詰められていて、たまった水を石室外に排水するための溝が廻っています。
公開されている石室の中では最大のものです。

前方部にある石室は、横穴式石室で現在は公開されていません。
結晶片岩で造られ、全長2.4m、幅1.9m、玄室の高さ2.6mあります。
環状の板鏡・ガラス製小玉・須恵器・馬具の破片 などが出土しています。

6世紀後半ころの築造と推定されています。


岩橋(いわせ)千塚古墳群

2013-06-22 08:04:50 | Weblog


和歌山市岩橋、JR和歌山市駅の東約2Kmの標高20m~150mの丘陵上にあります。
紀ノ川下流の南側です。
5世紀から7世紀にかけて造られた円墳を中心とする前方後円墳、方墳などの古墳群です。
前方後円墳は、標高150mの稜線上に並んでいます。


穀倉地帯だった紀ノ川平野一帯に勢力を持っていた「紀氏」とのかかわりが深いとされています。

昭和6年国の史跡に、昭和27年に国の「特別史跡」に指定されています。
国の「特別史跡」の指定を受けている古墳群は、全国でもここと宮崎県西都市にある「西都原古墳群」だけです。
奈良県広陵町にある「巣山古墳」も特別史跡に指定されています。

この古墳群の特徴の一つとして、「石棚」や「石梁」をもつ独特の横穴式石室が挙げられます。
そのほか 竪穴式石室や箱式石棺(石室は造らず板石を立てる)、粘土槨等もあります。
   箱式石棺

昭和46年(1971年)8月、和歌山県立「紀伊風土記の丘」博物館が、岩橋千塚古墳群の保存・活用・研究・公開 を目的に開館しています。
総面積約65万㎡に及ぶ広大な敷地が博物館の施設になっています。
博物館の外観は、弥生時代の高床式倉庫を模して創られていて、外壁には古墳の石室に使われる青石(緑泥片岩)が貼ってあります。


園内に約430基、周辺の花山地区・大谷山地区・寺内地区・井辺(いんべ)地区 など3Km四方にわたる周辺地域を含めると700基以上になり、その数の多さは全国でも最大規模を誇っています。

和歌山市・大谷古墳

2013-06-15 08:02:31 | Weblog

            (後円部から前方部、和歌山平野をみています)

和歌山市大谷824、標高50mの丘陵尾根先端にあります。
和泉山脈から南に延びる半独立丘陵上です。
大谷東自治会館近くです。

全長67m、 後円部径30m・高さ6~10m、 前方部先端幅48m・高さ6~10m の前方後円墳です。
前方部を南西方向(平野部)に向けています。

後円部後方から、円筒埴輪46個や朝顔形埴輪・蓋形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

昭和32~33年(1957~58年)、京都大学考古学研究室による発掘調査が行われています。
後円部中央で、阿蘇凝灰岩製の組合式石棺が見つかっています。
20歳から30歳くらいとみられる人物の人骨が出土しています。
石棺内部は盗掘を受けていたそうですが、棺内外から様々な副葬品が見つかっています。
内部から、倭製素文鏡(直径26mm・31mm・34mmの小型銅鏡3面)・鉄製横矧板留式衝角付冑・挂甲小札・鉄刀・鉄剣・金銀製垂飾付耳飾・ガラス製勾玉21個・ガラス製丸玉・ガラス製小玉・碧玉製管玉・滑石製玉 などが、棺の外回りからは馬具類(馬甲小札・金銅装鞍・壺鐙・金銅鏡板付轡・金銅鈴付杏葉・金銅雲珠・辻金具 など)や短甲・鉄矛・U字鉄鋤・鉄鎌・鉄手斧 などが出土しています。
馬具類とともにほぼ完全な形で見つかった戦闘用の馬に装着する鉄製の「馬冑」と「馬鎧」は、当時東アジアで唯一の出土品として注目を集めました。
朝鮮半島からの渡来品と考えられています。
これらの出土品から、被葬者は朝鮮半島の軍事活動にあたった武人(紀氏一族?)と考えられています。

昭和53年11月15日、国の史跡に指定されています。
また出土した副葬品は、昭和57年6月5日に一括して重要文化財に指定されています。

前方部からは、素晴らしい和歌山平野を眺めることができます。


          (後 円 部)


          (後 円 部)


     (前方部から後円部をみています)

和歌山市・車駕之古址古墳

2013-06-08 08:05:14 | Weblog

        (右が後円部で、左が前方部です)

和歌山市木ノ本の平地にあります。
和歌山市の北西部、和泉山脈のふもとです。
「しゃかのこし」古墳と呼びます。

全長86m、 後円部径51m・高さ4m、前方部先端幅41m・高さ4m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

昭和63年、この地で宅地開発計画がたてられたため、平成元年から和歌山市文化体育振興事業団による発掘調査が行われました。
第1次調査で南斜面の葺き石が確認され、後円部周辺からはガラス玉が出土しました。
埋葬施設は確認されませんでした。
平成2年9月の第2次調査では墳丘上を広く調べました。
墳丘南側で段築(2段の葺き石)が、前方部南側では造り出しが見つかり、多数の埴輪が出土しました。
円筒埴輪や家形埴輪・蓋形埴輪・囲形埴輪 等がありました。
円筒埴輪は、大阪府岬町の「西陵古墳」出土のものと似ており、同じ工人が造ったものとみられています。
さらに多数のガラス玉や管玉とともに、後円部南側斜面からは「金の勾玉」が見つかりました。
国内唯一の出土例です。(朝鮮半島南部の古墳などからはいくつか出土しているそうです。一新羅の皇南大塚、伽耶の玉田M4号墳など)
長さ1.8cm、頭部径8mm、重さ1.57g、金63~64%、銀35~36%、それに微量の銅の合金製(16金)だそうです。
平成5年4月、和歌山市の文化財に指定されています。
翌、平成6年4月20日には古墳と共に、主な出土品が和歌山県の文化財に指定されています。

調査は、平成3年から平成4年にかけて、第3次から6次にわたって継続され、墳長や周濠、その外側に葺き石や埴輪の立つ外堤が見つかっています。
平成4年5月には、古墳の中心部一帯を和歌山市土地開発公社が買収し、平成17年~18年度にかけて整備工事が実施され、翌平成19年6月、「車駕之古址古墳公園」として開園しています。

調査前までは、人の背丈ほどもあるササ竹や樹木に覆われていたそうです。
現在の墳丘は実際の墳高ではなく、調査で確認された墳丘全体に土を入れその上に芝生を張って保護してあります。
芝生の上には、古墳の形をイメージした石が置かれています。
将来的には、もとの形に復元される予定だそうです。

古墳時代中期・5世紀後半ころの築造と推定されています。




       (前方部から後円部をみています)


       (後円部から前方部をみています)


なおこの古墳の西側すぐ近くに前方後円墳「茶臼山古墳」があったそうですが、今は消滅していて「木ノ本児童公園」になっています。



大阪府枚方市・牧野車塚古墳

2013-06-01 08:03:30 | Weblog

                (後円部墳頂・・・奥が前方部)

大阪府枚方市小倉東町369の台地上にあります。
京阪電車・牧野駅の南約1.2Km、穂谷川左岸の標高約22mの車塚公園内にあります。
車塚公園は、「車塚古墳」を史跡公園として整備したものです。
「小倉車塚古墳」とも呼ばれています。

全長107.5m、 後円部径54.5m・高さ8.5m、 前方部幅44m・高さ5.5m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を東(穂谷川方向)に向けています。

主体部や副葬品など詳細は不明です。
墳丘の周りには、二重の前方後円形をした周濠があります。
周濠の外側には堤があります。
昭和53年(1978年)の後円部外堤西側の発掘調査で、幅が4~5m、深さ20~30cmの濠跡が見つかり、築造時は二重濠だったことが判明したそうです。
墳丘に葺き石は施されていなかったようです。
円筒埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1980年代、後円部頂付近の北側斜面から、家形埴輪が採取されています。

平成16年(2004年)、本格的な発掘調査が行われています。
前方部テラスから、板石による葺き石が見つかっています。
また新たに鰭付円筒埴輪が出土し、これまで5世紀前半代とされていた築造時期が、4世紀後半ころまでさかのぼることも判りました。

公園化された古墳の周りは、緑の多い(訪ねた時は桜が満開でした。)静かな佇まいを見せていて、なんとなくココロ落ち着く所でした。

大正11年3月8日、国の史跡に指定されています。


             (前 方 部)


             (後 円 部)


    (後円部北側周濠から前方部をみています)