古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

熊本県宇城市・女夫塚古墳

2009-11-28 08:40:09 | Weblog
熊本県宇城市松橋町古保山字女夫塚にあります。
熊本県勤労青少年スポーツセンターのグラウンド傍です。
雄塚古墳とも呼ばれています。

全長45m、 後円部径25m・高さ6m、 前方部幅23m・高さ6m の前方後円墳です。
墳丘は損傷を受けています。
道路改修工事(昭和32年~33年)の折、後円部左側(北側)の7割が採土のため壊され原型をとどめていません。
その際、後円部から墓槨の蓋石と思われる巨石が2~3個掘り出されました。
ただ、石槨や箱型石棺などは見つかっておらず、従って粘土槨墓孔だったものと考えられています。

この古墳の築造時期は、墳形からして古墳時代中期(5世紀ころ)と推定されています。
宇城市(旧松橋町)の指定史跡になっています。

私が訪ねた時は、暑い日だったにもかかわらず、女子高校生がそばのグラウンドでソフトボールの練習をしていました。
また、小さな男の子を連れた若いお父さんとお母さんが、ザリガニとりをしていました。






熊本県宇城市・松橋大塚古墳

2009-11-28 08:17:00 | Weblog
熊本県宇城市松橋字前田の台地上にあります。
下益城郡医師会館のすぐ横です。

全長70m、 後円部径42m・高さ6m、 前方部幅25m・高さ3m の前方後円墳です。
墳丘は損傷を受けています。
前方部が削られ後円部に盛られています。
中世の戦国時代には陣地として利用され、明治10年の西南の役でも薩摩軍の陣地として利用されています。
墳丘の周りには周溝があります。
近くの畑から円筒埴輪や朝顔形埴輪などが出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。

この古墳の築造時期は、発掘調査が行われていないのではっきりしていませんが、墳形からして古墳時代中期(5世紀ころ)と推定されています。
火の君一族(4~5世紀ころに宇土半島頸部に本拠をもっていた)の墓だと考えられています。
宇城市(旧松橋町)の指定史跡になっています。

周りは閑静な住宅街で、古墳の周りは公園になっています。




熊本県城南町・狐塚古墳

2009-11-21 08:25:06 | Weblog
熊本県下益城郡城南町陣内狐塚513、標高30mほどの丘陵上にあります。
馬の墓古墳とも呼ばれています。
墳丘は開墾などでかなり損傷を受けています。

全長約23m、 後円部径11m・高さ4m(現在)、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。

1958年3月に調査が行われています。
後円部中央付近に主体部があり、粘土槨に礫床をもつ6区の土壙(屍床)が見つかりました。
金環1、鉄鏃6、広根式鉄鏃2、鉄地鍍金帯金具1、装身具などが出土しています。

この古墳の築造時期は不明です。
城南町の史跡に指定されています。




熊本県城南町・琵琶塚古墳

2009-11-21 08:06:55 | Weblog
熊本県下益城郡城南町大字塚原字丸山の台地上にあります。
塚原古墳群を構成していて、古墳群の南端に近い所にあります。
古墳群に2基ある前方後円墳の一つです。
墳丘は一部損傷を受けています。

全長54m、 後円部径32.5m・高さ3.5m、 前方部幅21m・高さ?m 柄鏡式の前方後円墳です。
墳丘の周りには、楯形をした周溝があります。
円筒埴輪や朝顔型埴輪・須恵器・土師器などが出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
塚原古墳群内で唯一埴輪を有する古墳です。

この古墳の築造時期は、5世紀末から6世紀初頭ころと推定されています。






熊本県城南町・花見塚古墳

2009-11-14 08:41:57 | Weblog
熊本県下益城郡城南町大字塚原字北原の台地上にあります。
墳丘は一部損傷を受けています。
現在は完全復元されています。

全長46.2m、 後円部径24.6m・高さ?m、 前方部幅24.3m・高さ?m の前方後円墳です。
墳丘の周りには、二重の楯形をした周溝があります。
すぐそばには周溝を共有している円墳もあります。

埋葬施設は大正4年に盗掘を受け壊されました。
家形石棺が納められていたようです。
鉄剣・鎧・鏃・耳環・玉類などが出土したと言われています。

この古墳の築造時期は、6世紀の終わりころと推定されています。
ただ出土した土器から、7世紀初めころまで利用されていたようです。
塚原古墳群を構成しています。






熊本県城南町・塚原古墳群

2009-11-14 08:11:01 | Weblog
熊本県下益城郡城南町大字塚原字丸尾・丸山・北原・塚原にまたがる台地上にあります。

1972年(昭和47年)、九州縦貫自動車道建設に伴う発掘調査で、いろんな形の古墳・計102基が出現し一躍注目されました。
古墳時代前期から後期(4世紀から6世紀)にかけての古墳群です。
古墳の数は現在まで204基確認されていて、未確認分を含めると500基近くになると言われています。
全国的に見ても最大級の古墳群です。
昭和51年、国の史跡に指定されています。

土器(高坏-朝鮮半島製、皮袋形土器ーアジアの遊牧民の使用する皮袋を模したもの)、鉄製の武具(直刀、剣、鎧、鏃など)、管玉、勾玉、耳環などが出土しています。

現在、城南町立塚原古墳公園として、前方後円墳・方形周溝墓・円墳ほか77基の古墳が13万4000平方メートル(野球場約5個分)という広大な敷地に復元・保存されています。
公園内には、熊本県民天文台や遊園地もあり、四季おりおりの花が咲いています。
九州縦貫自動車道は古墳の下(地下トンネル)を通っていて、高速道路上にある唯一の古墳群です。

宮崎市・船塚古墳

2009-11-07 08:59:25 | Weblog
宮崎市神宮2丁目、宮崎神宮の境内にあります。
宮崎神宮本殿北側(裏側)になります。

全長76.8m、 後円部径36m・高さ8.2m、 前方部幅47m・高さ8.6m の前方後円墳です。
前方部を東に向け、主軸を東北東から西南西に取っています。
墳丘の周りには幅約13mの周溝があります。
さらに外側には幅約7mの周庭があります。

この古墳の築造時期ははっきりしていませんが、前方部の裾が広がっている形から、古墳時代中期末から後期初頭ころと推定されています。
先に紹介しました檍古墳同様、低地に築かれています。

宮崎神宮の境内に古墳があることはあまり知られていません。
観察には少々苦労しました。
この古墳は下北方古墳群からは少し離れていますが、同じ古墳群に組み込まれています。
昭和52年4月1日、宮崎県の史跡に指定されています。




宮崎市・下北方13号墳

2009-11-07 08:11:39 | Weblog
宮崎市下北方町越ケ迫の平和台公園内、平和の塔裏にあります。
山頂を利用して築造されています。

全長110m、 後円部径40m・高さ5.2m、 前方部幅30m・高さ5m 三段築造の前方後円墳です。
宮崎県内160基余りある前方後円墳の中で7番目の大きさです。
主軸を東西方向に取っています。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
1989年、発掘調査が行われています。
円筒埴輪、蓋形埴輪、楯形埴輪、家形埴輪、舟型埴輪、人物埴輪、犬形埴輪、猪形埴輪などが採取されていて、墳丘には埴輪の配列がなされていました。

この古墳の築造時期は、古墳時代後期・6世紀初めころと推定されています。
昭和14年4月21日、宮崎県の史跡に指定されています。
下北方古墳群(越ケ迫地区)を構成しています。
後円部に寄り添うようにして円墳(14号墳)1基があります。






「平和台公園・平和の塔」
宮崎市下北方町の海抜60mの頂にあります。宮崎神宮の北方になります。
紀元2600年を記念して造られたものです。(1940年11月25日完成)
塔は高さ36.4m、石材834立方メートル(切り石1789個を含む)で築かれています。延べ66,500人が作業にあたったと言われています。
石は世界各地から集められているそうです。
日本サッカー協会(JFA)のシンボルマーク・八咫烏(やたがらす)の制作者として知られる「日名子実三」氏が設計・製作されたものです。
塔の四隅には信楽焼の高さ6mの四魂の像が立っています。
荒御魂(あらみたまー武人)、奇御魂(くしみたまー漁人)、幸御魂(さちみたまー農耕人)、和御魂(にぎみたまー商工人)の四像です。
昭和39年9月10日、東京オリンピックの国内聖火リレー、第二コースの起点に選ばれ、東京へと聖火が出発していきました。
塔の正面には、秩父宮殿下の筆になる「八紘一宇」の文字が刻まれていました。
昭和20年8月、戦争目的にその精神が利用されたとして削除され、「平和の塔」と呼ばれるようになりました。その際、武人像の「荒御魂」も取り外されました。
その後、「荒御魂」像は昭和37年10月5日に、「八紘一宇」は石版に刻記され昭和40年1月3日に復元されました。