古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

大阪府枚方市・禁野上野古墳

2013-05-25 08:06:56 | Weblog

             (奥が後円部で手前が前方部です)

大阪府枚方市禁野本町1丁目の丘陵尾根にあります。
天野川右岸の台地上です。
周りは団地になっています。
現在、墳丘は共同墓地(禁野霊苑)になっていて大きく改変され、古墳の形状を推し量ることが難しい状態です。

全長40m、 後円部径25m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。

円筒埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
墳丘の規模、埋葬施設やその副葬品など、資料が少なく詳細は不明です。

古墳時代後期・6世紀ころの築造と推定されています。








禁野(きんや)
1067年(治暦3年)、交野ケ原が天皇や皇族・貴族の狩猟場になり、一般人の狩猟が禁じられました。
そこからこの「禁野」という地名ができたそうです。

大阪府枚方市・禁野(きんや)車塚古墳

2013-05-18 08:05:42 | Weblog

      (前方部から後円部をみています)

大阪府枚方市宮之阪5丁目381、天野川右岸の低段丘上にあります。
京阪電車・交野線、宮之阪駅の南・徒歩約5分の所です。
天野川と京阪電車・交野線に挟まれた地です。


古墳全体が公園になっていますが、後円部は立ち入り禁止になっていました。
平地(低段丘上)に盛り土で造られています。

2008年の関西・京都橘・京都府立大学などによる合同の再測量調査の結果、
全長120m、 後円部径57m・高さ9.9m、 前方部幅40m・高さ4m  二段構築の前方後円墳と判明しました。
前方部を西に向けています。
卵型の後円部とバチ型の前方部の墳形が、奈良県桜井市のあの「箸墓古墳」と類似しています。

墳丘には葺き石が施されていたようです。
円筒埴輪や楕円形埴輪・草摺形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
埋葬施設やその副葬品などは明らかになっていません。
ただ、後円部上に板石が散見されることから、主体部は竪穴式石室ではないかとみられています。

古墳時代前期・3世紀末から4世紀初頭ころの築造と推定されています。

枚方市最大の前方後円墳で、後円部・前方部それぞれ一部削平は受けていますがほぼ良好な状態で保存されています。
淀川と天野川の合流点を望む場所にあることから、この地の交通権を握っていた人物の墓とみられています。

昭和47年3月22日、国の史跡に指定されています。





大阪府柏原市・玉手山7号墳

2013-05-11 08:11:22 | Weblog

                    (後円部に登る階段)

大阪府柏原市旭ヶ丘、玉手山丘陵の最も高い所にあります。
後円部は玉手山公園内に、前方部は 「安福寺一行基の創建と伝わる」 の境内に延びています。
墳丘は大きく損傷・改変されています。
「安福寺」の後ろにあることから、「後山古墳」とも呼ばれています。

全長110m、 後円部径70m・高さ?m、 前方部幅40m・高さ?m  三段構築の前方後円墳です。
前方部を西北西に向けています。

円筒埴輪や朝顔形埴輪・家形埴輪 などが出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
後円部には、大坂夏の陣の戦没者を供養する「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が建っています。


また、前方部には「尾張藩2代目藩主・徳川光友」の墓があります。


1980年、後円部頂で滑石製の盒子(ごうす・・・蓋付の容器)が採取されています。
長さが10cmで、幅が8cmの楕円形をしているそうです。
後の調査で石製の小壷も発見され、このことから畿内の王権と密接な関係があった人物が埋葬されていたと考えられています。
奈良県天理市にある行燈山古墳(崇神天皇陵)の2分の1の規模で造られています。

2001年から2002年にかけて、大阪市立大学による調査が行われています。
後円部中央に、長さ約7m・幅約6mの墓坑の存在が確認されています。
ただ、薄い板石を積み上げて造られたはずの竪穴式石室は確認されませんでした。
粘土槨か石棺の直葬だったとも考えられているそうです。

古墳時代前期・4世紀中ころの築造と推定されています。

後円部南寄りの裾横には「竪穴式石室」と「組合式家形石棺」が置かれています。
説明板によると、玉手山一帯にある沢山の古墳の中で、調査が終わったものをここに移して展示しているのだそうです。

(手前が竪穴式石室、奥が組合式石棺)
竪穴式石室は、4世紀ころの前方後円墳の墳頂から、また組合式家形石棺は横穴式石室(須恵器が伴なっていたことから6世紀の豪族のもの)の中にあったものだそうです。
竪穴式石室内には、青銅鏡、硬玉製勾玉、鉄刀、斧 などが納められていたそうです。

(追記)
 現存する前方後円墳、玉手山8号墳・9号墳への進入路は現在通行できないそうで、観察は無理とのことでした。一 柏原市立歴史資料館の職員の方の話

大阪府柏原市・玉手山3号墳

2013-05-04 08:08:16 | Weblog


大阪府柏原市旭ヶ丘の玉手山丘陵上にあります。
2号墳の南、市立老人福祉センター「やすらぎ園」のすぐ南隣りです。
ここが大坂夏の陣の舞台になったことから、「勝負山(かちまけやま)古墳」とも呼ばれています。

全長106m、 後円部径68m・高さ9m、 前方部幅46m・高さ?m  の前方後円墳です。

墳丘には葺き石が施されていたようです。
円筒埴輪や壷形埴輪・蓋形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

後円部に、竪穴式石室と粘土槨の二つの埋葬施設があったと言われていますが、破壊されています。
そのため、副葬品など詳しいことは判っていません。

昭和63年(1988年)、後円部墳頂のレーダー探査が行われています。
その結果、長さ3.3m前後の竪穴式石室の存在が判明しました。
近くにある安福寺の境内には、この3号墳から出土したと言い伝えられている割竹形石棺(重要文化財に指定)が置かれています。
レーダー探査で見つかった竪穴式石室の大きさから、言い伝え通り安福寺にある石棺は3号墳から出土した可能性が高くなったそうです。

大坂夏の陣で、豊臣・徳川両軍が激しい争奪戦を繰り広げた「小松山」とは、この3号墳の後円部墳頂にあたります。

採取された埴輪片から、この古墳の築造時期は、古墳時代前期のなかでもかなり早い時期と考えられています。

「やすらぎ園」の玄関口横から墳丘(後円部)に登れるようになっています。
紅葉がとてもきれいでした。



         (前方部…奥が後円部)